結局それは適当だから
2009年9月11日 アニメ・マンガツバサがそろそろ終わるみたいですね。長かったというか、まだやっていたのかというレベルですけど、ほとんど不定期掲載みたいな漫画だから載っていない週も多かった気がする。毎週掲載ならもう少し早く完結できていたのだろうか。いずれにせよ、お話しがきちんとした終幕を迎えるのは喜ばしいことです。
最近、CSやBSでカードキャプターさくらの再放送がやっていて、地元の商店街にある所謂街の電器屋が偶然にも店先の液晶で流してて、帰宅途中の私は思わず足を止めてしまったりしました。この話は日記で書いたっけ? チャットでは書いた気がしたけど、イマイチ憶えてない。凄いよね、店先でCCさくら流してるんだよ? 見事に足を止めてしまったというか、テレビごとさくらをお持ち返したくなったもん。あれは良い宣伝だ。
私はCCさくらに対する思い入れが強いから、あまりツバサが好きではないんだけど、決して嫌いではない。嫌うだけの理由は特にないし、単にスターシステムが苦手なだけです。まあ、ツバサがスターシステムを採用した漫画なのかどうかというのは意見が分かれるところだけど、あれはクロスオーバーでありスターシステムだと思うんですよ。
同じキャラクターが同一設定ないし、まるで違うキャラとして様々な作品に登場するってのは、それこそ漫画の最初期から行われていた手法であって、殊更珍しいものじゃありません。アニメーションの世界ではディズニーという偉大なる先例がいます。ただ、ディズニーのスターシステムは単純に映画世界での話だし、キャラが極端に崩れるということがないので許容できるんだけど……漫画はねぇ。
この作家の作品にはすべて登場するマスコットキャラ、とかならまだしも、人間キャラクターの場合だと違和感が強くなってしまう。私がツバサを好きになれないのも、設定やシナリオはともかくとして、木之本桜への思い入れが馬鹿みたいに強いからなんですよね。であるからして、xxxxHOLiCのほうが面白いと昔は思ってた。xxxxHOLiCがツバサとリンクしているという点はともかく、四月一日とか特殊すぎる存在だからスターシステムから外れてる感があるし。それに初期は一話完結だったから読みやすかった。
でも、どうなんだろうね、クロスオーバーやスターシステムには色々な使い道、使い分けがあって、CLAMPの作品だけでもちょびっツはエンジェリックレイヤーの未来の世界って設定があるじゃないですか。これはクロスというより同一の世界観ってだけで、CLAMP作品にはこういう裏設定画結構あるんだけど、なにも漫画の世界だけじゃないんだよね。
成田良悟とかラノベ作家の中にも、ほぼすべての作品を同一の世界観で表現している人がいるし、私自身世界観の共有という手法は惹かれるものがあるんだけど……よっぽど構成力がないと難しいよね。一つの、とてつもなく大きな世界を構築して、その中に様々な作品の舞台を作って、ドラマを用意して。やがては舞台にいる役者ごとに絡みがあって、そういうのを書いたり、書ききったりするのは凄いことだと思う。私にはとても真似できない、かな。
私は身内なんかと違って単なる技術屋だから、発想や世界観構築、キャラ設定などではどうしたって敵わない、及ばない部分が多いんだけど、これは明日の日記で触れる予定だけど要するに小難しい話が嫌いなだけなんだと最近は思う。馬鹿だから理解力がないだけだろうと、悲恋堂とかその辺りは笑うけど、そこに関しては特に否定しない。難しい内容なんて、読んでても面白くないもの。二次創作でもそうだけど、基本的に私は判りやすい話し書かない。複雑な話なんてのは、私の趣味じゃないからね。
エンターテイメントにおいて、特にライトノベルよりの作家、西尾維新や奈須きのこなんてのは難解さと複雑さ、設定に匂わせる独特の雰囲気で多くのファンを獲得して、まあ、典型的な雰囲気作家なわけだけど、ああいうのもある種の才能なわけで。別に天才ではないけど、一分野における完成系ではあるよね。清涼院流水には敵わないにしても。
一次創作について頭を悩ませていると、上記のような悩みが色々浮かんできて、複雑に絡み合っては自己主張を開始する。私は技術だけでカバーできないもの、自分自身の才能を伸ばすことでなんとか出来ないかと思っているんだけど、才能って伸びないね。本当に。才覚ならまだしも、才能は開花しても限界があるし、そもそも私には開花するだけの才能が備わってない。それが私と身内の最大の差で、私が奴に勝てない所以だ。
昔、とある作家がことあるごとに私とかに言ってたんだけど、「運は大事だ、何故なら作家になりたい奴、作家になった奴、作家として食っている奴は、みんな努力している。努力によって差は生まれない。結局最後は運というのも、あながち間違ってない」とか、「頑張ることはサルにだって出来るし、誰だってやってる。問題はその事実を受け止めた上で、挫けずに持続させることが出来るかだ」なんて、まあ、あの人は口から先に生まれてるから半分以上適当なこと言ってるんだけど、文筆に関してだけは売れた作家として良いこというのよ。
結局、努力は誰だってしてるし、最終的に勝敗を左右するのは元々の実力、才能、そして運なわけだけど……一つ言えるのは、それでも勝者たちは努力してることなんですよ。誰だってしている、つまり、少なくとも努力はしないといけないんですよ。
自分自身になにが出来るのか、努力は当然としても、どこまで、どれだけのことが出来るのか、そろそろ自分の限界を突破してみようかと思います。
最近、CSやBSでカードキャプターさくらの再放送がやっていて、地元の商店街にある所謂街の電器屋が偶然にも店先の液晶で流してて、帰宅途中の私は思わず足を止めてしまったりしました。この話は日記で書いたっけ? チャットでは書いた気がしたけど、イマイチ憶えてない。凄いよね、店先でCCさくら流してるんだよ? 見事に足を止めてしまったというか、テレビごとさくらをお持ち返したくなったもん。あれは良い宣伝だ。
私はCCさくらに対する思い入れが強いから、あまりツバサが好きではないんだけど、決して嫌いではない。嫌うだけの理由は特にないし、単にスターシステムが苦手なだけです。まあ、ツバサがスターシステムを採用した漫画なのかどうかというのは意見が分かれるところだけど、あれはクロスオーバーでありスターシステムだと思うんですよ。
同じキャラクターが同一設定ないし、まるで違うキャラとして様々な作品に登場するってのは、それこそ漫画の最初期から行われていた手法であって、殊更珍しいものじゃありません。アニメーションの世界ではディズニーという偉大なる先例がいます。ただ、ディズニーのスターシステムは単純に映画世界での話だし、キャラが極端に崩れるということがないので許容できるんだけど……漫画はねぇ。
この作家の作品にはすべて登場するマスコットキャラ、とかならまだしも、人間キャラクターの場合だと違和感が強くなってしまう。私がツバサを好きになれないのも、設定やシナリオはともかくとして、木之本桜への思い入れが馬鹿みたいに強いからなんですよね。であるからして、xxxxHOLiCのほうが面白いと昔は思ってた。xxxxHOLiCがツバサとリンクしているという点はともかく、四月一日とか特殊すぎる存在だからスターシステムから外れてる感があるし。それに初期は一話完結だったから読みやすかった。
でも、どうなんだろうね、クロスオーバーやスターシステムには色々な使い道、使い分けがあって、CLAMPの作品だけでもちょびっツはエンジェリックレイヤーの未来の世界って設定があるじゃないですか。これはクロスというより同一の世界観ってだけで、CLAMP作品にはこういう裏設定画結構あるんだけど、なにも漫画の世界だけじゃないんだよね。
成田良悟とかラノベ作家の中にも、ほぼすべての作品を同一の世界観で表現している人がいるし、私自身世界観の共有という手法は惹かれるものがあるんだけど……よっぽど構成力がないと難しいよね。一つの、とてつもなく大きな世界を構築して、その中に様々な作品の舞台を作って、ドラマを用意して。やがては舞台にいる役者ごとに絡みがあって、そういうのを書いたり、書ききったりするのは凄いことだと思う。私にはとても真似できない、かな。
私は身内なんかと違って単なる技術屋だから、発想や世界観構築、キャラ設定などではどうしたって敵わない、及ばない部分が多いんだけど、これは明日の日記で触れる予定だけど要するに小難しい話が嫌いなだけなんだと最近は思う。馬鹿だから理解力がないだけだろうと、悲恋堂とかその辺りは笑うけど、そこに関しては特に否定しない。難しい内容なんて、読んでても面白くないもの。二次創作でもそうだけど、基本的に私は判りやすい話し書かない。複雑な話なんてのは、私の趣味じゃないからね。
エンターテイメントにおいて、特にライトノベルよりの作家、西尾維新や奈須きのこなんてのは難解さと複雑さ、設定に匂わせる独特の雰囲気で多くのファンを獲得して、まあ、典型的な雰囲気作家なわけだけど、ああいうのもある種の才能なわけで。別に天才ではないけど、一分野における完成系ではあるよね。清涼院流水には敵わないにしても。
一次創作について頭を悩ませていると、上記のような悩みが色々浮かんできて、複雑に絡み合っては自己主張を開始する。私は技術だけでカバーできないもの、自分自身の才能を伸ばすことでなんとか出来ないかと思っているんだけど、才能って伸びないね。本当に。才覚ならまだしも、才能は開花しても限界があるし、そもそも私には開花するだけの才能が備わってない。それが私と身内の最大の差で、私が奴に勝てない所以だ。
昔、とある作家がことあるごとに私とかに言ってたんだけど、「運は大事だ、何故なら作家になりたい奴、作家になった奴、作家として食っている奴は、みんな努力している。努力によって差は生まれない。結局最後は運というのも、あながち間違ってない」とか、「頑張ることはサルにだって出来るし、誰だってやってる。問題はその事実を受け止めた上で、挫けずに持続させることが出来るかだ」なんて、まあ、あの人は口から先に生まれてるから半分以上適当なこと言ってるんだけど、文筆に関してだけは売れた作家として良いこというのよ。
結局、努力は誰だってしてるし、最終的に勝敗を左右するのは元々の実力、才能、そして運なわけだけど……一つ言えるのは、それでも勝者たちは努力してることなんですよ。誰だってしている、つまり、少なくとも努力はしないといけないんですよ。
自分自身になにが出来るのか、努力は当然としても、どこまで、どれだけのことが出来るのか、そろそろ自分の限界を突破してみようかと思います。
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