神のみオンリー新刊「天球の記憶」自家通販開始
2014年10月21日 神のみぞ知るセカイ
実は10月19日に開催された神のみぞ知るセカイオンリーイベント「落とし神 Fall in love FLAG 3.0」にサークル参加していました。
HPやツイッター、pixivなんかでは宣伝していたんですが、そういや日記に記載するのを忘れてましたね。今更ではありますが、新刊の自家通販とか始めたのでちょっと紹介しておこうと思います。同人関係の宣伝や告知でしか日記を書かなくなったけど、オンリー前に旅行とか行ったりもしたので、本当は旅行記とかも載せたいんだよね……
まあ、それは今書いてるけど。
まあ、10冊も残ってない夏コミ既刊の話はともかくとして、今回の神のみオンリー新刊について。
前回は天理を中心とした女神の宿主たちのコピー本でしたが、今作は公式の天理botを元ネタにしたショートショート集になります。天理botについては以前もこの日記で触れたと思いますが、神のみ終了に伴いツイッターの鮎川天理アカウントがbot化しまして、天理とディアナの日常や、ヒロインのその後などおまけ要素をチラホラと呟くようになったんですね。
既に3巡目ぐらいに突入しているから、新規呟きみたいのはもうないんだけど、これが結構想像の翼を羽ばたかせることの出来る内容でして。
是非本にしたいなと考えていたんだけど、140字の呟きをかき集めて長編というのも無理があったし、だったら個々の呟きを膨らませてショートショートにするのはどうかな? と、久々に実験的な試みをしてみることに。判型がA6……つまり、文庫本と同じぐらいのサイズなのはショートショートの文庫を意識したからで、手軽にさっと読める本をコンセプトに、時間の許す限り話を詰め込んだ感じです。20本以上はあるのかな?
相変わらず火が着くのが遅くて、拾いきれなかったネタは多数あるんだけど、天理とディアナを中心に、女神の宿主はほぼ全員出すことが出来たし、白鳥家や桂馬といった、天理に関わりの深いキャラも出すことが出来たので、そこは良かったかなと思う。ショートショート自体は何度も書いたことがあるけど、同人誌でショートショート集を出すのは初めてだったから、良い経験になりました。文庫サイズの本はヴァニタスの羊以来だったけど、たまにはこういうのもアリかな。サイズ的には新書の方が好きだけど、文庫はやっぱりコンパクトに纏まっていて、読みやすいってイメージがあります。
神のみオンリーは来年も開催されるらしいけど、拾いきれなかったネタを集めて続刊というのも一つの手かな。まあ、参加するかもまだ決めていませんが、サークルとして出るならやはり天理本を書くだろうから、今から構想を練るのも良いかもしれない。
ところで、予定していた浅間亮本ですけど、あれは時間の問題と、「何でもかんでも本にすれば良いってもんじゃない」という尤もな指摘から、公開媒体を変えようかと思います。年内に時間が取れれば良いけど、たとえばサークルHPとかpixivとか、そういったところで連載するのも面白そうだしね。
何はともあれ、神のみオンリー新刊の自家通販開始と言うことで、皆様宜しくお願いします。私はそろそろ、冬コミの準備に入ります。
HPやツイッター、pixivなんかでは宣伝していたんですが、そういや日記に記載するのを忘れてましたね。今更ではありますが、新刊の自家通販とか始めたのでちょっと紹介しておこうと思います。同人関係の宣伝や告知でしか日記を書かなくなったけど、オンリー前に旅行とか行ったりもしたので、本当は旅行記とかも載せたいんだよね……
まあ、それは今書いてるけど。
自家通販詳細
自家通販ページ:http://www.usamimi.info/~mlwhlw/cgi-bin/order/index.cgi
期間:2014年10月19日(日)~2014年11月02日(日)
新刊
天球の記憶
ジャンル:神のみぞ知るセカイ
通販価格:700円
総ページ数:92P
サイズ:A6判(文庫)
収録内容
公式の鮎川天理ツイッターbot(@angelfrench_tnr)を元ネタにした、天理とディアナのショートショート集。女神の宿主、白鳥家、桂馬等が登場します。
備考:pixivでサンプル公開中
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=46479146
既刊
死蝕現象/上下巻
ジャンル:空の境界×Another
通販価格:1500円
総ページ数:68P+156P
サイズ:A5判
収録内容
上巻:空の境界×Anotherのクロスオーバー小説。死の色が映る夜見山で、両儀式は人形の目を持つ少女、見崎鳴と出会う……
下巻:黒桐幹也が助けた少女、小椋由美は呪われていた。彼女が語る、3年3組の現象とは?
※個別の入金連絡、発送通知は出しておりません。発送状況はサークルHP内、Eventページに随時記載します。
URL:http://www.usamimi.info/~mlwhlw/index2.html
まあ、10冊も残ってない夏コミ既刊の話はともかくとして、今回の神のみオンリー新刊について。
前回は天理を中心とした女神の宿主たちのコピー本でしたが、今作は公式の天理botを元ネタにしたショートショート集になります。天理botについては以前もこの日記で触れたと思いますが、神のみ終了に伴いツイッターの鮎川天理アカウントがbot化しまして、天理とディアナの日常や、ヒロインのその後などおまけ要素をチラホラと呟くようになったんですね。
既に3巡目ぐらいに突入しているから、新規呟きみたいのはもうないんだけど、これが結構想像の翼を羽ばたかせることの出来る内容でして。
是非本にしたいなと考えていたんだけど、140字の呟きをかき集めて長編というのも無理があったし、だったら個々の呟きを膨らませてショートショートにするのはどうかな? と、久々に実験的な試みをしてみることに。判型がA6……つまり、文庫本と同じぐらいのサイズなのはショートショートの文庫を意識したからで、手軽にさっと読める本をコンセプトに、時間の許す限り話を詰め込んだ感じです。20本以上はあるのかな?
相変わらず火が着くのが遅くて、拾いきれなかったネタは多数あるんだけど、天理とディアナを中心に、女神の宿主はほぼ全員出すことが出来たし、白鳥家や桂馬といった、天理に関わりの深いキャラも出すことが出来たので、そこは良かったかなと思う。ショートショート自体は何度も書いたことがあるけど、同人誌でショートショート集を出すのは初めてだったから、良い経験になりました。文庫サイズの本はヴァニタスの羊以来だったけど、たまにはこういうのもアリかな。サイズ的には新書の方が好きだけど、文庫はやっぱりコンパクトに纏まっていて、読みやすいってイメージがあります。
神のみオンリーは来年も開催されるらしいけど、拾いきれなかったネタを集めて続刊というのも一つの手かな。まあ、参加するかもまだ決めていませんが、サークルとして出るならやはり天理本を書くだろうから、今から構想を練るのも良いかもしれない。
ところで、予定していた浅間亮本ですけど、あれは時間の問題と、「何でもかんでも本にすれば良いってもんじゃない」という尤もな指摘から、公開媒体を変えようかと思います。年内に時間が取れれば良いけど、たとえばサークルHPとかpixivとか、そういったところで連載するのも面白そうだしね。
何はともあれ、神のみオンリー新刊の自家通販開始と言うことで、皆様宜しくお願いします。私はそろそろ、冬コミの準備に入ります。
こぼれ落ちた二つの心
2014年6月24日 神のみぞ知るセカイ
ツイッターの天理アカウントが公式botとして再始動をしてからそろそろ一週間になりますが、フォロワー数も順調に増えて、なかなかに好調のようですね。作者によるとコミックスに書かれなかったおまけページの代わりでもあるとのことで、天理とディアナの日常的な事柄に加えて、確かに攻略ヒロインや作品にまつわることなど、天理ファンに限らず、神のみファンなら目に留めておいた方がいい裏話なんかもちらほらツイートされ始めています。
まあ、楠の道場に通っている弟子たちはドMであるとか、みなみが美容院に行くか悩んでいると言った後日談は別に裏話ってほどでもないこぼれ話みたいなもんだけど、着目すべきはそれらの情報が天理の口から呟かれているということです。
後に別ヒロインの攻略で再登場したとはいえ、楠が初登場したのは原作では3巻、みなみに関しては6巻と、両者ともに天理が本編に登場するよりも、桂木家の隣に引っ越してくるよりも前の話になります。天理は日頃から桂馬の個別攻略に関わる方ではありませんが、にも関わらず、自分が桂馬と再会する前に登場したヒロインのことを知っていました。これは天理が、女神の宿主以外の攻略ヒロインも把握しているという事実に他なりません。確かに楠もみなみも再登場こそしていますが、いずれも天理が顔を合わせる機会はなかったはずだし、なによりも、以下の様なツイートがあります。
梨枝子さん…?その人のことは、あんまり知らないんだ…ちょっと場所が遠かったから…— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 21
利枝子さんとは桂馬が天理編以降、父方の実家で出会った攻略ヒロインですが、天理は正式な攻略ではない彼女のことさえも存在として把握しており、尚且つ詳細を知らない理由に距離を上げているのです。このことから、天理は桂馬の攻略対象を実際に見て知ったというよりは、それ以外の理由で認識していた可能背が高い。たとえば、桂馬が天理に残した手紙とかね。
桂馬があの手紙にどこまで攻略対象のデータを書き残したのかは分かりませんが、宿主と同等か、あるいは参考程度には記させていたと思います。しかし、あの手紙には写真がありませんし、桂馬の絵心は壊滅的なことを考えると、天理は手紙とは別の手段で楠やみなみの顔を知っていないといけません。でなければ、美容院の前で悩んでいる女子中学生が、みなみであることなど分かるはずないですし。
ディアナは過去篇が始まるまで天理の事情を知らなかったし、エルシィみたく羽衣ですぐさま女子のデータを取り寄せるなんて真似は出来ないでしょう。となれば、天理に攻略対象の詳細データを提供したのは白鳥のじいさんである可能性が高く、ツイッターでのつぶやきを見るに、この二人は世間話をする程度には交流があるらしい。
五位堂家が結のお見合いを画策しているという話には思わず苦笑してしまいましたが、まあ、尼寺に入れるよりはマシな方法ではないでしょうか? 名家なら学生時代からの婚約だって珍しくはないけど、しかし、なんだってそれを白鳥のじいさんに相談するのだろう。誰かいい人を紹介してくれというのは分かりますが、過去篇で五位堂父は、かなりじいさんのことを馬鹿にしてましたからね。交流が続いているのはともかく、娘の見合い相手を探してくれと頼むのは少し意外でした。まあ、うらら篇以降はじいさんが平静さを取り戻したこともあって、認識が変わったのかな。
天理が桂馬の手紙と合わせて白鳥家から情報提供を受けていたのだとすれば、楠やみなみのことを知っていたのにも納得がいくし、利枝子と違って近場に住んでいますから、実際に顔を見る機会もあったことも容易に想像がつきます。これが現在はアメリカ住まいの檜とかの場合はどうなるのか分かりませんけど、少なくとも天理は宿主以外の攻略ヒロインについても詳しい。それについてはハッキリしたんじゃないでしょうか?
みなみが塾通いを始めたなど、各々の進路や将来に関わる話も出てきましたし、まずは攻略ヒロインの今後について呟かれていくんじゃないですかね? 宿主のその後については、当面は先送りにされるのだと思う。
おまけページというには十分過ぎるほどの内容に日々満足していますが、このbotを通じて、天理が歩いてきた10年間についても少しずつ語られていくようです。まさに裏話となりますが、ディアナ相手にどこまで語られるのか、天理の本音や本心はさらけ出されるのか……まだまだ神のみからは目が離せませんね。
勿論、そうしたこぼれ話、裏話とは違う天理とディアナの日常ツイートも十分に楽しく、見ているとなんだか微笑ましい気持ちになってきます。あまり語られることのなかった二人の暮らしぶりや、日々の生活というのは、ファンとしてはやっぱり貴重だよね。10年来の付き合いを感じさせる、仲睦まじい姿がとても魅力的です。
先日、身内と自分の人生に刻まれた10人のヒロインを上げられるか? という話をしたんですけど、天理はその内の一人に刻み込まれています。多分、この先も変わることはないでしょう。botのおかげで改めて天理や、神のみという作品を見つめ直すことが出来たと思うし、新しいモチベーションにもなりました。後は、それをどのように今後へと活かしていくかだけど……まあ、当面は10月にあるらしい神のみオンリーですかね。コミケが終わった頃に本格的な準備をしていくと思うけど、既に幾つか本の企画を考えていたりもします。
まだまだ神のみは終わらない! ということで、年内はこのまま神のみと天理に熱中し続けている気がする。まあ、その前に夏コミなんだけど。
まあ、楠の道場に通っている弟子たちはドMであるとか、みなみが美容院に行くか悩んでいると言った後日談は別に裏話ってほどでもないこぼれ話みたいなもんだけど、着目すべきはそれらの情報が天理の口から呟かれているということです。
後に別ヒロインの攻略で再登場したとはいえ、楠が初登場したのは原作では3巻、みなみに関しては6巻と、両者ともに天理が本編に登場するよりも、桂木家の隣に引っ越してくるよりも前の話になります。天理は日頃から桂馬の個別攻略に関わる方ではありませんが、にも関わらず、自分が桂馬と再会する前に登場したヒロインのことを知っていました。これは天理が、女神の宿主以外の攻略ヒロインも把握しているという事実に他なりません。確かに楠もみなみも再登場こそしていますが、いずれも天理が顔を合わせる機会はなかったはずだし、なによりも、以下の様なツイートがあります。
梨枝子さん…?その人のことは、あんまり知らないんだ…ちょっと場所が遠かったから…— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 21
利枝子さんとは桂馬が天理編以降、父方の実家で出会った攻略ヒロインですが、天理は正式な攻略ではない彼女のことさえも存在として把握しており、尚且つ詳細を知らない理由に距離を上げているのです。このことから、天理は桂馬の攻略対象を実際に見て知ったというよりは、それ以外の理由で認識していた可能背が高い。たとえば、桂馬が天理に残した手紙とかね。
桂馬があの手紙にどこまで攻略対象のデータを書き残したのかは分かりませんが、宿主と同等か、あるいは参考程度には記させていたと思います。しかし、あの手紙には写真がありませんし、桂馬の絵心は壊滅的なことを考えると、天理は手紙とは別の手段で楠やみなみの顔を知っていないといけません。でなければ、美容院の前で悩んでいる女子中学生が、みなみであることなど分かるはずないですし。
ディアナは過去篇が始まるまで天理の事情を知らなかったし、エルシィみたく羽衣ですぐさま女子のデータを取り寄せるなんて真似は出来ないでしょう。となれば、天理に攻略対象の詳細データを提供したのは白鳥のじいさんである可能性が高く、ツイッターでのつぶやきを見るに、この二人は世間話をする程度には交流があるらしい。
五位堂家が結のお見合いを画策しているという話には思わず苦笑してしまいましたが、まあ、尼寺に入れるよりはマシな方法ではないでしょうか? 名家なら学生時代からの婚約だって珍しくはないけど、しかし、なんだってそれを白鳥のじいさんに相談するのだろう。誰かいい人を紹介してくれというのは分かりますが、過去篇で五位堂父は、かなりじいさんのことを馬鹿にしてましたからね。交流が続いているのはともかく、娘の見合い相手を探してくれと頼むのは少し意外でした。まあ、うらら篇以降はじいさんが平静さを取り戻したこともあって、認識が変わったのかな。
天理が桂馬の手紙と合わせて白鳥家から情報提供を受けていたのだとすれば、楠やみなみのことを知っていたのにも納得がいくし、利枝子と違って近場に住んでいますから、実際に顔を見る機会もあったことも容易に想像がつきます。これが現在はアメリカ住まいの檜とかの場合はどうなるのか分かりませんけど、少なくとも天理は宿主以外の攻略ヒロインについても詳しい。それについてはハッキリしたんじゃないでしょうか?
みなみが塾通いを始めたなど、各々の進路や将来に関わる話も出てきましたし、まずは攻略ヒロインの今後について呟かれていくんじゃないですかね? 宿主のその後については、当面は先送りにされるのだと思う。
おまけページというには十分過ぎるほどの内容に日々満足していますが、このbotを通じて、天理が歩いてきた10年間についても少しずつ語られていくようです。まさに裏話となりますが、ディアナ相手にどこまで語られるのか、天理の本音や本心はさらけ出されるのか……まだまだ神のみからは目が離せませんね。
勿論、そうしたこぼれ話、裏話とは違う天理とディアナの日常ツイートも十分に楽しく、見ているとなんだか微笑ましい気持ちになってきます。あまり語られることのなかった二人の暮らしぶりや、日々の生活というのは、ファンとしてはやっぱり貴重だよね。10年来の付き合いを感じさせる、仲睦まじい姿がとても魅力的です。
先日、身内と自分の人生に刻まれた10人のヒロインを上げられるか? という話をしたんですけど、天理はその内の一人に刻み込まれています。多分、この先も変わることはないでしょう。botのおかげで改めて天理や、神のみという作品を見つめ直すことが出来たと思うし、新しいモチベーションにもなりました。後は、それをどのように今後へと活かしていくかだけど……まあ、当面は10月にあるらしい神のみオンリーですかね。コミケが終わった頃に本格的な準備をしていくと思うけど、既に幾つか本の企画を考えていたりもします。
まだまだ神のみは終わらない! ということで、年内はこのまま神のみと天理に熱中し続けている気がする。まあ、その前に夏コミなんだけど。
神のみぞ知るセカイ エルシィ考察論
2014年6月20日 神のみぞ知るセカイ コメント (4)
エルシィって何者だったんでしょうね。いや、神のみの話の続きなんですけどね、作品のヒロインであるエルシィって結局どういう存在だったんだろうか? どうにもラスボスだったらしいことは本人の口から語られてますけど、具体的な役割というか、どんな力を持っていたのかとか、そういうのはサッパリ分からないまま、人間に生まれ変わってしまいました。サテュロス関連はエルシィ含めて謎が解き明かされずに終わった部分が多くて、山よりも大きいラスボスであるエルシィのことは、結局深く触れませんでしたよね。今日はそんなエルシィの話を少し書きましょうか。
検索から来た人は先に26巻の感想と考察をご覧ください。
26巻感想→http://mlwhlw.diarynote.jp/201406180001416250/
26巻考察→http://mlwhlw.diarynote.jp/201406190042065448/
さて、その前に昨日の神のみ26巻の考察をアップしてからというもの何だかカウンターの回転が激しいですけど、あれは理屈と膏薬はどこへでもつくといった類いの話だから、あまり真剣に考えない方が良いかと思います。別に一石を投じたわけでもあるまいし、書いた私が言うのもアレですが、天理の桂馬評が間違っているわけないのだから、あくまで一つの答えに過ぎません。○が付くか×が付くか、△ぐらいは貰えるのかなんてのは、あまり意味のないことです。
まあ、それはどうでもいいとしてエルシィの話。旧地獄の、サテュロスの武器とされる彼女は、最初どす黒くて巨大な、胎児のような姿で描かれていました。それが徐々に起動を始めることで、よく見るとエルシィにそっくりな巨大な少女像のような姿を形取っていくわけですが……結局、リュミエルたちの活躍で復活することはありませんでした。一体アレはなんだったのか? 復活すればどうなっていたのか? そもそも、エルシィとはあの巨大な武器に対して、どのような存在だったのでしょうか。
エルシィは室長によって転生させて貰ったといいますが、その割に武器……兵器としての彼女は地獄に現存していますし、あの巨大な物体がイコールでエルシィに生まれ変わった訳ではないのが分かります。じゃあ、エルシィとは一体なんだったのか? 肉片の一部か、それとも中枢コンピューターのような、人格部分が具現化したものだったのか。
エルシィ自身は「悪い人が私を起こす」のだと、自分とあの巨大な物体が同一の物であることを前提に語っていました。
では、ここで作中で語られた巨大兵器についての記述から、あれがどういう存在だったのか考えてみましょう。
ざっと書いてみるとこんなかんじでしょうか? 最後など女神もビックリなラスボスパワーですが、とにかくとんでもない奴だったことは分かります。地獄における王族の娘で、立場的にはディアナに近いリュミエルでさえ、兵器としてのエルシィとは戦わない姿勢を取っていました。その力は女神たちと互角か、あるいはそれ以上という可能性もある。勿論、女神たちだって桂馬とエルシィを過去に送っているぐらいだから、時空に干渉する力は持ち合わせているはずだけど、それでもあの不思議空間を作り上げたのはエルシィだし、世界崩壊を一時停止したのもエルシィだった。ウルカヌスも驚くほどの状況を、彼女は作り上げたわけだ。
山よりもでかいという大きさについては、まあ、古悪魔だってビルみたいなサイズでしたし、動体巨人がそれよりもちょっと小さいことを考えれば、ラスボスに見合った体格と言えるんじゃないでしょうか? エルシィが古悪魔たちの首魁だったのかは知りませんが、なにせラスボスですからね。分からなくはない話です。
目覚めればまた長い戦争になる、これについては少し分からないことがあります。エルシィが目覚めれば自動的に古悪魔の封印も解けるのか、それともエルシィだけで今の新地獄における武力を圧倒するだけのパワーがあるのか。その辺りは不明です。サテュロスは奥の手として温存していたようですが、復活させて何をするつもりだったのか……その辺りはサッパリという感じ。
さて、サテュロスは女神保護という大義名分のもとに動体巨人やリューネを動かしていましたが、彼らの言葉をそのまま使えば、女神たちは生贄として必要とされていたようです。しかし、それがエルシィを再起動させるためのものなのか、旧地獄の封印を解くために必要だったのか、ここはハッキリしていないと思います。
何故なら、エルシィは寸前ではないにしろ起動準備を始めていたようですし、一見すると女神がなくても覚醒することが出来るような描かれ方です。
でも、サテュロスは「新たな力」が生贄を求めているとも言ってますから、封印された古悪魔というのはあまり新しさを感じない。それに、女神篇で大量の駆け魂が女神によって再度封じられたことを考えれば、新たな力とは、駆け魂や古悪魔とは全く違うもの、つまりエルシィのことだと考えた方が自然な気がします。
エルシィは現代世界が崩壊した際に、存在が掻き消えるように過去から姿を消しました。過去と未来が繋がらなくなったからエルシィの存在が保てなくなったのだ、と言われていましたが、少なくとも本人の弁では「呼び出された」とのことです。サテュロスが何らかの儀式でもしたのかは知りませんが、少なくともエルシィのことを復活に必要な存在であると知っており、条件が必要なのはか分かりませんが、たとえ過去にいようと呼び出すことが可能だったというのは、読めば分かる事実です。
ここで一つの疑問が浮かびました。エルシィは最終回1話前で人間の桂木えりに転生しましたけど、それによって完全にあの巨大な物体との繋がりを断てたといえるのでしょうか? というのも、兵器だったエルシィを小悪魔として転生させたのはドクロ室長ですが、もし人間にすれば全て解決するのなら、最初から人間に転生させているはずではないか。大戦終結が300年と少し前、日本はまだ江戸時代とかだけど、天珠を全うしても100年生きられるはずもなく、寿命が来ればそのまま天に召されたと思います。
でも、ドクロ室長はそれをせずに、エルシィを悪魔として転生させた。彼女にはそれ以上の力はなかったのかもしれないけど、私はそもそも前提が間違っている可能性に思い至りました。
これは、考察というにも眉唾の話になりますが……
桂木えりって本当に人間なんですかね?
エルシィは桂木えりとしての想い出を作り、記憶を植え付け、桂木家の家族に、桂馬の本当の妹になったとは言ってますが、一度だって人間になったとは言っていません。エルシィが駆け魂レーダーを持っていた時点で、エルシィは歴史ではなく記憶を改変している可能性が高く、あの幼い頃の写真などは実際の出来事ではなく、エルシィによる捏造でしょう。
であるとすれば、エルシィは名前を変えただけで、まだエルシィである可能性もなくはないのではないか?
だって、よく考えてみてくださいよ。エルシィが駆け魂レーダーと首輪を外して、髪型を変えて服を着替えれば、あっという間に桂木えりになれるじゃないですか。元々角なしですし、悪魔らしい身体的な特徴があるわけでもない。人間に混じって学校へ通うぐらい、違和感なく溶け込んでいたわけですからね。
つまり、エルシィは別に人間に転生したのではなくて、ちょっとイメチェンして改名しただけなのではないか?
転生しても呼び出されるのが分かっている以上、人間になれば万事解決なんてことはないはずだし、あの世界にエルシィが存在したことは彼女が加筆で持っていた駆け魂レーダーと、ハクアが見た記憶の残滓によって証明されています。ということは、エルシィには時間を止める力はあったとしても、自分を人間に転生させる力はなかったのではないか? だって、人間になったとは描いてないし、言ってもないんだから。
ただ、武器としてのエルシィはともかく、悪魔としてのエルシィの脅威度も決して低くはなかったはずです。エルシィはリュミエルの世話役だったことや、室長室の掃除係だったことを誇らしげに語っていましたが、逆に言えば、地獄の実力者である二人が互いにエルシィを監視していたとも取れますし、現にリュミエルは過去篇で遭遇した際に問答無用で攻撃を仕掛けました。武器としてのエルシィとは戦闘を避けた彼女ですが、悪魔としてのエルシィなら、少なくとも戦って勝つ自信があったのでしょう。
でも、それは戦闘を行わずに放置するという選択肢がなかったことの表れでもあります。悪魔のエルシィが本当に無害な存在なら、急な遭遇に驚いたとはいえ、先制攻撃を仕掛けるほどではないはず。なのに、リュミエルは即座に相手の無力化を図った。エルシィに対する、かなりの警戒心が伺えます。
そう考えると、やはり無力な人間になった方が今後のためのようにも思えるんだけど……人間になったからって、呼び出されないとも限らないんだよね。エルシィは確かに桂木えりとなったけど、それで物事が全て解決したと思うのは、早計すぎやしないだろうか?
エルシィ自身、「だから今回は、もうおしまいです!!」と言っている。今回、つまり、次回があるかもしれないのだ。
結論としては、エルシィ関係はこれといって解決してないし、そもそも人間になったのかもわからないね、という感じでしょうか。周囲というか、一般的な感想でもエルシィは人間になったと書かれていたから、私もついついそういう認識になっていましたけど、改めて最終巻を読み直してみると、名言はなされてない。
エルシィとえりには最大の違いというほどの違いもないし、大体103話ぐらいで桂馬と遊園地デートしたときも、あんな感じの髪型でしたよ。あのときのエルシィとえりに、一体どれほど差があるというのか? 私には、あまり違いや差があるようには感じられませんでした。
実際のところ、本当のところはどうなっているのか、いつか語られる日は来るのだろうか……
そんな訳で、エルシィに関するあれやこれでした。またなにか思いついたり、思い至ったりしたら書きますが、そろそろ自家通販していたオンリーの本を再製本しないといけないので、また暫く潜ることにします。夏コミの準備もあるし、予定も詰まっているので、神のみのアニメとCD流しっぱなしにしながらコミックスを読み返すのは、当分先になりそう。
完結記念にギャルゲ化とかしてくれないかなぁ……最終巻の裏表紙を実行するには、もうそれしかないはずだ。
検索から来た人は先に26巻の感想と考察をご覧ください。
26巻感想→http://mlwhlw.diarynote.jp/201406180001416250/
26巻考察→http://mlwhlw.diarynote.jp/201406190042065448/
さて、その前に昨日の神のみ26巻の考察をアップしてからというもの何だかカウンターの回転が激しいですけど、あれは理屈と膏薬はどこへでもつくといった類いの話だから、あまり真剣に考えない方が良いかと思います。別に一石を投じたわけでもあるまいし、書いた私が言うのもアレですが、天理の桂馬評が間違っているわけないのだから、あくまで一つの答えに過ぎません。○が付くか×が付くか、△ぐらいは貰えるのかなんてのは、あまり意味のないことです。
まあ、それはどうでもいいとしてエルシィの話。旧地獄の、サテュロスの武器とされる彼女は、最初どす黒くて巨大な、胎児のような姿で描かれていました。それが徐々に起動を始めることで、よく見るとエルシィにそっくりな巨大な少女像のような姿を形取っていくわけですが……結局、リュミエルたちの活躍で復活することはありませんでした。一体アレはなんだったのか? 復活すればどうなっていたのか? そもそも、エルシィとはあの巨大な武器に対して、どのような存在だったのでしょうか。
エルシィは室長によって転生させて貰ったといいますが、その割に武器……兵器としての彼女は地獄に現存していますし、あの巨大な物体がイコールでエルシィに生まれ変わった訳ではないのが分かります。じゃあ、エルシィとは一体なんだったのか? 肉片の一部か、それとも中枢コンピューターのような、人格部分が具現化したものだったのか。
エルシィ自身は「悪い人が私を起こす」のだと、自分とあの巨大な物体が同一の物であることを前提に語っていました。
では、ここで作中で語られた巨大兵器についての記述から、あれがどういう存在だったのか考えてみましょう。
1.山よりもでかい
2.目覚めればまた長い戦争になる
3.目覚めるには女神のパワーがいる?
4.サテュロスは起動に際してエルシィを呼び出した
5.アルマゲマキナはエルシィvsドクロウの巻き起こした戦争だった
6.大戦後はドクロウによって小悪魔として転生する
7.リュミエルは地上で遭遇したエルシィに対し、即座に攻撃した
8.時間を止めたり、悪魔を人間に転生させる力がある
ざっと書いてみるとこんなかんじでしょうか? 最後など女神もビックリなラスボスパワーですが、とにかくとんでもない奴だったことは分かります。地獄における王族の娘で、立場的にはディアナに近いリュミエルでさえ、兵器としてのエルシィとは戦わない姿勢を取っていました。その力は女神たちと互角か、あるいはそれ以上という可能性もある。勿論、女神たちだって桂馬とエルシィを過去に送っているぐらいだから、時空に干渉する力は持ち合わせているはずだけど、それでもあの不思議空間を作り上げたのはエルシィだし、世界崩壊を一時停止したのもエルシィだった。ウルカヌスも驚くほどの状況を、彼女は作り上げたわけだ。
山よりもでかいという大きさについては、まあ、古悪魔だってビルみたいなサイズでしたし、動体巨人がそれよりもちょっと小さいことを考えれば、ラスボスに見合った体格と言えるんじゃないでしょうか? エルシィが古悪魔たちの首魁だったのかは知りませんが、なにせラスボスですからね。分からなくはない話です。
目覚めればまた長い戦争になる、これについては少し分からないことがあります。エルシィが目覚めれば自動的に古悪魔の封印も解けるのか、それともエルシィだけで今の新地獄における武力を圧倒するだけのパワーがあるのか。その辺りは不明です。サテュロスは奥の手として温存していたようですが、復活させて何をするつもりだったのか……その辺りはサッパリという感じ。
さて、サテュロスは女神保護という大義名分のもとに動体巨人やリューネを動かしていましたが、彼らの言葉をそのまま使えば、女神たちは生贄として必要とされていたようです。しかし、それがエルシィを再起動させるためのものなのか、旧地獄の封印を解くために必要だったのか、ここはハッキリしていないと思います。
何故なら、エルシィは寸前ではないにしろ起動準備を始めていたようですし、一見すると女神がなくても覚醒することが出来るような描かれ方です。
でも、サテュロスは「新たな力」が生贄を求めているとも言ってますから、封印された古悪魔というのはあまり新しさを感じない。それに、女神篇で大量の駆け魂が女神によって再度封じられたことを考えれば、新たな力とは、駆け魂や古悪魔とは全く違うもの、つまりエルシィのことだと考えた方が自然な気がします。
エルシィは現代世界が崩壊した際に、存在が掻き消えるように過去から姿を消しました。過去と未来が繋がらなくなったからエルシィの存在が保てなくなったのだ、と言われていましたが、少なくとも本人の弁では「呼び出された」とのことです。サテュロスが何らかの儀式でもしたのかは知りませんが、少なくともエルシィのことを復活に必要な存在であると知っており、条件が必要なのはか分かりませんが、たとえ過去にいようと呼び出すことが可能だったというのは、読めば分かる事実です。
ここで一つの疑問が浮かびました。エルシィは最終回1話前で人間の桂木えりに転生しましたけど、それによって完全にあの巨大な物体との繋がりを断てたといえるのでしょうか? というのも、兵器だったエルシィを小悪魔として転生させたのはドクロ室長ですが、もし人間にすれば全て解決するのなら、最初から人間に転生させているはずではないか。大戦終結が300年と少し前、日本はまだ江戸時代とかだけど、天珠を全うしても100年生きられるはずもなく、寿命が来ればそのまま天に召されたと思います。
でも、ドクロ室長はそれをせずに、エルシィを悪魔として転生させた。彼女にはそれ以上の力はなかったのかもしれないけど、私はそもそも前提が間違っている可能性に思い至りました。
これは、考察というにも眉唾の話になりますが……
桂木えりって本当に人間なんですかね?
エルシィは桂木えりとしての想い出を作り、記憶を植え付け、桂木家の家族に、桂馬の本当の妹になったとは言ってますが、一度だって人間になったとは言っていません。エルシィが駆け魂レーダーを持っていた時点で、エルシィは歴史ではなく記憶を改変している可能性が高く、あの幼い頃の写真などは実際の出来事ではなく、エルシィによる捏造でしょう。
であるとすれば、エルシィは名前を変えただけで、まだエルシィである可能性もなくはないのではないか?
だって、よく考えてみてくださいよ。エルシィが駆け魂レーダーと首輪を外して、髪型を変えて服を着替えれば、あっという間に桂木えりになれるじゃないですか。元々角なしですし、悪魔らしい身体的な特徴があるわけでもない。人間に混じって学校へ通うぐらい、違和感なく溶け込んでいたわけですからね。
つまり、エルシィは別に人間に転生したのではなくて、ちょっとイメチェンして改名しただけなのではないか?
転生しても呼び出されるのが分かっている以上、人間になれば万事解決なんてことはないはずだし、あの世界にエルシィが存在したことは彼女が加筆で持っていた駆け魂レーダーと、ハクアが見た記憶の残滓によって証明されています。ということは、エルシィには時間を止める力はあったとしても、自分を人間に転生させる力はなかったのではないか? だって、人間になったとは描いてないし、言ってもないんだから。
ただ、武器としてのエルシィはともかく、悪魔としてのエルシィの脅威度も決して低くはなかったはずです。エルシィはリュミエルの世話役だったことや、室長室の掃除係だったことを誇らしげに語っていましたが、逆に言えば、地獄の実力者である二人が互いにエルシィを監視していたとも取れますし、現にリュミエルは過去篇で遭遇した際に問答無用で攻撃を仕掛けました。武器としてのエルシィとは戦闘を避けた彼女ですが、悪魔としてのエルシィなら、少なくとも戦って勝つ自信があったのでしょう。
でも、それは戦闘を行わずに放置するという選択肢がなかったことの表れでもあります。悪魔のエルシィが本当に無害な存在なら、急な遭遇に驚いたとはいえ、先制攻撃を仕掛けるほどではないはず。なのに、リュミエルは即座に相手の無力化を図った。エルシィに対する、かなりの警戒心が伺えます。
そう考えると、やはり無力な人間になった方が今後のためのようにも思えるんだけど……人間になったからって、呼び出されないとも限らないんだよね。エルシィは確かに桂木えりとなったけど、それで物事が全て解決したと思うのは、早計すぎやしないだろうか?
エルシィ自身、「だから今回は、もうおしまいです!!」と言っている。今回、つまり、次回があるかもしれないのだ。
結論としては、エルシィ関係はこれといって解決してないし、そもそも人間になったのかもわからないね、という感じでしょうか。周囲というか、一般的な感想でもエルシィは人間になったと書かれていたから、私もついついそういう認識になっていましたけど、改めて最終巻を読み直してみると、名言はなされてない。
エルシィとえりには最大の違いというほどの違いもないし、大体103話ぐらいで桂馬と遊園地デートしたときも、あんな感じの髪型でしたよ。あのときのエルシィとえりに、一体どれほど差があるというのか? 私には、あまり違いや差があるようには感じられませんでした。
実際のところ、本当のところはどうなっているのか、いつか語られる日は来るのだろうか……
そんな訳で、エルシィに関するあれやこれでした。またなにか思いついたり、思い至ったりしたら書きますが、そろそろ自家通販していたオンリーの本を再製本しないといけないので、また暫く潜ることにします。夏コミの準備もあるし、予定も詰まっているので、神のみのアニメとCD流しっぱなしにしながらコミックスを読み返すのは、当分先になりそう。
完結記念にギャルゲ化とかしてくれないかなぁ……最終巻の裏表紙を実行するには、もうそれしかないはずだ。
神のみぞ知るセカイ コミックス第26巻 考察篇
2014年6月19日 神のみぞ知るセカイ
神のみぞ知るセカイ26巻発売と言うことでね、今日は最終巻の考察をしようかと思います。まあ、最終巻と言うよりは最終回なんだけど、結構な加筆修正もあったし、作者の言うとおりニュアンスが大分変わったので、そこら辺を踏まえた上で神のみという作品のラストについて書いていこうかなと。ただ、一部キャラクターのファンには、あんまり嬉しくない話や内容になるので、神のみ最高だった! このエンディングは素晴らしい! なんて人は、回れ右をオススメします。
検索等から来た人は、先に26巻の感想の方をどうぞ。
URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201406180001416250/
さて、幾つか書きたいことはあるんですが、先に26巻とは関係ないところで……26巻と最終巻、表現のブレが気になりますね。どちらも間違っちゃいないんだけど、ややこしいから26巻と言うことにしますか。まあ、それはともかく、実はツイッターに存在していた鮎川天理のアカウントが、この度botとしてリニューアルを果たしました。元々、作者が作ったアカウントであり、ネットにおける神のみ関係のイベントを取り仕切る存在だったんだけど、神のみ自体が終わると言うこともあって、その去就というか、存続については不明確なところがありました。
そこで、思い切って天理はどうなるのか訊ねたんだけど、bot化を考えていると言うことで、それが宣言通り実行された形になります。神のみの連載は終わったけど、天理とディアナはbotという形で存在し続ける。天理好きとしては、ホッとする結果になったと言えます。
天理botはツイッターbotによくある登録された台詞を2時間ごとにランダムで呟く形式を取っているのだけど、原作の台詞をそのまま呟くのではなくて、その全てがオリジナルです。非公式の二次創作ならまだしも、このアカウントは作者の所有物ですから、その呟きは限りなく公式に近いか、公式そのものと言ってもいいでしょう。
天理が、あるいはディアナの呟きは神のみ本編とリンクする部分があり、時間設定は連載中であることがそのツイートから見て取れます。その一言一言は日々の何気ない暮らしぶりや、天理の数少ない友人である榛原七香とのことなど、微笑ましいものばかりですが、いくつか気になる点が存在するのも事実です。例えば、以下の呟き。
(天理のことは私でも時々知らないことがあります…天理は何をしてるのでしょう?)— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 15
これはディアナのツイートになりますが、ここから読み取れるのはディアナが天理の全てを把握しているわけではない、という事実です。如何にディアナといえど、自分と出会う前の天理のことは知らないはずであり、それ故に過去篇のことは天理の口から聞くまで分からなかったのだ、と言われていましたが、天理はもしかするとディアナと出会って以降も影で色々やっていた可能性が高いです。
その証拠に、天理はこのようなことを呟いています。
ドーちゃん、学校の先生ちゃんとやってるのかな?— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 13
あ、白鳥のおじいさんだ…いつもかっこいい車に乗ってるなぁ。— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 14
天理は過去篇で桂馬と別れて以降も、彼の手紙に従い様々なことをしてきました。そうした中で一種の協力関係になっていたのがドーちゃんことドクロウと、白鳥のじいさんこと白鳥正太郎になります。特に後者は、天理の指示に従ってあれこれと手配したことが本人の口から語られていますし、天理はディアナの知らないところで、ドクロウや白鳥のじいさんとあれこれする機会を持っていたと考えるべきでしょう。
勿論、それは直接会ってとは限りません。ディアナが四六時中天理の行動を見守っているのかは知りませんが、七香や、よく吠える犬の一件を考えれば、普段からかなり天理を大切にしていることが分かります。であるなら、ドクロウや白鳥のじいさんに会っていたことをディアナが知らない、気付かないというのは無理がある。
では、どのように連絡を取っていたのか? そのヒントも、天理とディアナのツイッターにあります。
(でんわの仕組みがよくわかりません)— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 16
そう、電話です。天界の生まれで、しかも人間界の情報は300年前というディアナにとって、電話とは文明の利器どことか、まさしく未知の機械でしょう。女神全員がそうだとは限らないけど、古風な性格のディアナが電話を解さないというのは決して不自然な話ではありません。勿論、ディアナは仕組みと言っていますから、電話の用途自体は分かっているはずだけど、彼女がそれを使う機会はまずないだけに、天理にとっては抜け道の一つと言えるでしょう。
また、連絡手段は電話だけとは限りません。手紙は時間が掛かるからともかく、ファックスという手もあるだろうし、他にも現代人にとってはオーソドックスな、こんな方法もある。
榛原さんにメールしとこっと。— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 17
天理が七香とメールのやり取りをする関係というのは意外でしたが、それはともかくとしてメールです。天理の部屋にパソコンはありませんが、自宅のどこかにはあるかも知れないし、そもそも携帯のメールがあります。ディアナがどこまで天理と視界を共有しているのか知りませんが、携帯メールをこっそり打ち込んで連絡を取るぐらいは決して不可能ではないでしょう。
勿論、10年という長い時間を考えれば、何回か顔を合わせる機会もあっただろうけど、天理は電話やメールと言った手段を用いて、ドクロウや白鳥のじいさんと連絡を取り合っていたのではないか? 書いてみると実に単純な、当たり前の話のように思えますけど、一つの答えにはなっているかなと。それにターニングポイントといえるほど大きな出来事はそれほどなかったはずだし、案外連絡頻度は少なかったのかも知れない。
天理botから考察する天理の10年間はこんな感じだけど、後はOVA主題歌だったヒカリノキセキとか、最終回のタイトルにもなった未来への扉の歌詞なんかは、改めて聴いてみると深いよね。どちらも天理を象徴する歌であり、ヒカリノキセキは桂馬との関係を日々と、想い出を歌っている。
過去篇に置いて、天理は自分と桂馬のことを「運命だ」と言いました。しかし、26巻で天理が語ったように、25巻で桂馬が口にしたとおり、桂馬自身は「運命じゃない」と否定した。でも、天理本人は……やはり、運命だと思っていたのではないでしょうか?
運命だと信じているからとは、まさに天理のそうした気持ちを歌っている歌詞のように感じます。
そして、未来への扉は……改めて歌詞を読むと、驚くほど最終回にリンクしています。タイトルにするぐらいですから、作者はこの歌詞から最終回の内容を、情景を構想したのではないかと思うほどであり、生まれたての想いがあふれてくとは、まさしく最終回に天理が流した涙そのものだった。桂馬に告白することが出来なかった天理。それは彼女が、踏み出して傷付くことを恐れていたなんじゃないか?
なんて、そんなことを考えてしまいます。
26巻の考察と言いつつも天理のことばかりですが、ここからはちょっときつい話になります。最終巻、最終回に満足して、最高のエンディングだったとか思っている人はお帰り下さい。まあ、別にエンディングがどうこう言うつもりはないんだけど、昨日からずっと考えていたことがあるというか、思い至ったことがありまして。
勿体付けるのもあれなんで書きますけど、桂馬って本当にちひろのことが好きなんですかね?
いきなりなにを言い出すんだと言われるかも知れないけど、割と真面目に書いてます。根拠と言えるものも、一応はあると思います。
まず最初に、どうしてそんなことを考えたのかというと、やはり最終回で加筆修正された、ちひろとの一連のやり取り。本誌掲載時にあった桂馬はちひろに恋してますみたいな表情が改められて、酷くクールな顔付きになったこと。別にちひろが嫌いになったとか、興味がなくなったなんてことはないだろうけど、あるいはそこに恋愛感情が存在しないのだとすれば、どうだろうか?
思えば桂馬はちひろが好きというのは、ドクロウと、そして天理が示唆していることであって、桂馬自身は否定も肯定もしていません。確かに告白はしたけれど、それはされた当人であるちひろがそうであるように、簡単に信じられるものではない。だけど連載時なら、あの如何にもといった表情が桂馬の恋心を物語っており、口に出さずとも本音であり、本心だと言うことが見て取れました。
だけど、今やそうした恋する少年の桂木桂馬はどこかに消えてしまった。更に重要な加筆修正として、結のシーンがある。
「桂馬くんがボクらと仲良くしないのは…ボクらが好きだからさ!!」
「つまり!! ボクにもチャンスがあるってこと!!」
昨日の感想にも載せた台詞であるが、連載時より前向きに、そして一途に桂馬のことを想っている結の言葉には、一つ気になるところがある。というのも、結は「ボクらが好きだから」とは言っているが、「ボクらのことも好きだから」とは言ってないのだ。桂馬の想い人がちひろであるという事前情報があるにもかかわらず、結は敢えてボクら=女神の宿主に絞っているのだ。
更に、これは掲載時から変わっていないが、結は桂馬に好きな人がいたという事実を意外という風に捉えていて、心底驚いていた。つまり、ドクロウや天理と違い、結にとっては桂馬がちひろを好きだということは半信半疑なのだろう。それどころか、上記の言葉を考えれば信じていない可能性すらあり得てくる。
ではもし、結の言葉が100%真実だったとすればどうだろうか? 桂馬は天理含めた宿主たちのことが好き。それが紛れもない事実だったとしよう。そんなまさかと思うかも知れないが、同じく26巻では、天理と歩美がこんな会話をしている。
「私は本気で好きになっちゃったんだよ!! どうしたらいいの!?」
「それは…桂馬くんも同じだよ!!」
「だから今、桂馬くんも悲しいんだよ!!」
この台詞が掲載されたとき、私は天理の発言を宿主から本当に愛されてどうすれば良いのか分からない桂馬のことをさしているのだと思いました。歩美の気持ちに対して同じ、つまり桂馬も歩美のことが好きだとは、露ほどにも考えなかった。だから、これは桂馬の困惑や戸惑いをさしているのだろうと、そんな風に結論づけた。
でも、これが言葉通りの意味だとすれば? 桂馬も同じ、同じように歩美を始めとした宿主のことを好きになっていたのだとすれば、どうでしょうか? 会話の流れからすれば、そちらの方が自然なのは確かだし、もしこれが事実なのであれば、桂馬は宿主を選ばなかったのではなく、選べなかったという可能性さえも出てきます。
最終回の感想か、あるいは考察で書いたと思いますが、桂馬は最終回における一連の流れをシステムだと言いました。自分が独り身であることは不味いから、だからちひろに告白したのだと。それに対して私は、システムだというのならば、より完成度が高いであろう宿主から選んだ方が確実ではないかと書きました。そして、宿主から選ばない時点で、それはちひろの元へ向かう言い訳でしかないと。
あのときは確かにそう思ったけど、今は異なる可能性が存在するのではないか?
もし桂馬が本当に宿主たちのことが好きで、誰か一人を選ぶことが出来なかったのだとすれば、結の台詞や、天理と歩美のやり取りにも一応の辻褄というか、説明がついてしまう。そして、ちひろの元に走った真意すらも。
桂馬は自身が言ったように、物語から女の子たちを解放するシステムのキーとしてのみ、ちひろを求めたのかも知れない。愛する彼女たちを選ぶことが出来ず、しかし、関係を続けることも出来ない。だから、桂馬にはちひろが必要だった。恋愛感情ではなく、合理性。宿主ではない、記憶を失っている攻略ヒロインでもないちひろは、桂馬がシステムを完成させる条件としては、理想的ではないにしても、現実的であった。
そして恋愛感情がないからこそ、「なにも考えてない」のであり、将来像を抱かないからこそ、「どーなるか分からん」のではないか。
作者は最終回掲載時に、あれは桂木桂馬のために作った、桂馬へのお礼であると言いました。その礼が、掲載時に済まされていたのだとすれば? 26巻では、また違う答えと可能性を用意してきたとも考えられなくはないはずだ。それが上記のような極端なものかはともかく、少なくとも加筆修正された最終回が結末を限定しないものになったことは確かだ。故に私は、その幾つかについてこれからも考えを巡らせようと思う。
まあ、考察としてはこんなところでしょうか。最後は随分と逆説的になっている気がするけど、これも一つの考え方ではないかなと。作者がブログで解説すると言っているからには、上記の考察などするまでもなく、疑問、質問はすべからく回収されていくのかも知れませんが、そのときはそのときってことで。
とにもかくにもお疲れ様でした。まだまだ続くらしい神のみプロジェクトに期待しつつ、次のオンリー出だす本のネタでも練ることにしましょう。
※6月20日更新
エルシィに対する考察論を書きました→http://mlwhlw.diarynote.jp/201406201455467809/
検索等から来た人は、先に26巻の感想の方をどうぞ。
URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201406180001416250/
さて、幾つか書きたいことはあるんですが、先に26巻とは関係ないところで……26巻と最終巻、表現のブレが気になりますね。どちらも間違っちゃいないんだけど、ややこしいから26巻と言うことにしますか。まあ、それはともかく、実はツイッターに存在していた鮎川天理のアカウントが、この度botとしてリニューアルを果たしました。元々、作者が作ったアカウントであり、ネットにおける神のみ関係のイベントを取り仕切る存在だったんだけど、神のみ自体が終わると言うこともあって、その去就というか、存続については不明確なところがありました。
そこで、思い切って天理はどうなるのか訊ねたんだけど、bot化を考えていると言うことで、それが宣言通り実行された形になります。神のみの連載は終わったけど、天理とディアナはbotという形で存在し続ける。天理好きとしては、ホッとする結果になったと言えます。
天理botはツイッターbotによくある登録された台詞を2時間ごとにランダムで呟く形式を取っているのだけど、原作の台詞をそのまま呟くのではなくて、その全てがオリジナルです。非公式の二次創作ならまだしも、このアカウントは作者の所有物ですから、その呟きは限りなく公式に近いか、公式そのものと言ってもいいでしょう。
天理が、あるいはディアナの呟きは神のみ本編とリンクする部分があり、時間設定は連載中であることがそのツイートから見て取れます。その一言一言は日々の何気ない暮らしぶりや、天理の数少ない友人である榛原七香とのことなど、微笑ましいものばかりですが、いくつか気になる点が存在するのも事実です。例えば、以下の呟き。
(天理のことは私でも時々知らないことがあります…天理は何をしてるのでしょう?)— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 15
これはディアナのツイートになりますが、ここから読み取れるのはディアナが天理の全てを把握しているわけではない、という事実です。如何にディアナといえど、自分と出会う前の天理のことは知らないはずであり、それ故に過去篇のことは天理の口から聞くまで分からなかったのだ、と言われていましたが、天理はもしかするとディアナと出会って以降も影で色々やっていた可能性が高いです。
その証拠に、天理はこのようなことを呟いています。
ドーちゃん、学校の先生ちゃんとやってるのかな?— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 13
あ、白鳥のおじいさんだ…いつもかっこいい車に乗ってるなぁ。— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 14
天理は過去篇で桂馬と別れて以降も、彼の手紙に従い様々なことをしてきました。そうした中で一種の協力関係になっていたのがドーちゃんことドクロウと、白鳥のじいさんこと白鳥正太郎になります。特に後者は、天理の指示に従ってあれこれと手配したことが本人の口から語られていますし、天理はディアナの知らないところで、ドクロウや白鳥のじいさんとあれこれする機会を持っていたと考えるべきでしょう。
勿論、それは直接会ってとは限りません。ディアナが四六時中天理の行動を見守っているのかは知りませんが、七香や、よく吠える犬の一件を考えれば、普段からかなり天理を大切にしていることが分かります。であるなら、ドクロウや白鳥のじいさんに会っていたことをディアナが知らない、気付かないというのは無理がある。
では、どのように連絡を取っていたのか? そのヒントも、天理とディアナのツイッターにあります。
(でんわの仕組みがよくわかりません)— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 16
そう、電話です。天界の生まれで、しかも人間界の情報は300年前というディアナにとって、電話とは文明の利器どことか、まさしく未知の機械でしょう。女神全員がそうだとは限らないけど、古風な性格のディアナが電話を解さないというのは決して不自然な話ではありません。勿論、ディアナは仕組みと言っていますから、電話の用途自体は分かっているはずだけど、彼女がそれを使う機会はまずないだけに、天理にとっては抜け道の一つと言えるでしょう。
また、連絡手段は電話だけとは限りません。手紙は時間が掛かるからともかく、ファックスという手もあるだろうし、他にも現代人にとってはオーソドックスな、こんな方法もある。
榛原さんにメールしとこっと。— 鮎川天理 (@angelfrench_tnr) 2014, 6月 17
天理が七香とメールのやり取りをする関係というのは意外でしたが、それはともかくとしてメールです。天理の部屋にパソコンはありませんが、自宅のどこかにはあるかも知れないし、そもそも携帯のメールがあります。ディアナがどこまで天理と視界を共有しているのか知りませんが、携帯メールをこっそり打ち込んで連絡を取るぐらいは決して不可能ではないでしょう。
勿論、10年という長い時間を考えれば、何回か顔を合わせる機会もあっただろうけど、天理は電話やメールと言った手段を用いて、ドクロウや白鳥のじいさんと連絡を取り合っていたのではないか? 書いてみると実に単純な、当たり前の話のように思えますけど、一つの答えにはなっているかなと。それにターニングポイントといえるほど大きな出来事はそれほどなかったはずだし、案外連絡頻度は少なかったのかも知れない。
天理botから考察する天理の10年間はこんな感じだけど、後はOVA主題歌だったヒカリノキセキとか、最終回のタイトルにもなった未来への扉の歌詞なんかは、改めて聴いてみると深いよね。どちらも天理を象徴する歌であり、ヒカリノキセキは桂馬との関係を日々と、想い出を歌っている。
過去篇に置いて、天理は自分と桂馬のことを「運命だ」と言いました。しかし、26巻で天理が語ったように、25巻で桂馬が口にしたとおり、桂馬自身は「運命じゃない」と否定した。でも、天理本人は……やはり、運命だと思っていたのではないでしょうか?
運命だと信じているからとは、まさに天理のそうした気持ちを歌っている歌詞のように感じます。
そして、未来への扉は……改めて歌詞を読むと、驚くほど最終回にリンクしています。タイトルにするぐらいですから、作者はこの歌詞から最終回の内容を、情景を構想したのではないかと思うほどであり、生まれたての想いがあふれてくとは、まさしく最終回に天理が流した涙そのものだった。桂馬に告白することが出来なかった天理。それは彼女が、踏み出して傷付くことを恐れていたなんじゃないか?
なんて、そんなことを考えてしまいます。
26巻の考察と言いつつも天理のことばかりですが、ここからはちょっときつい話になります。最終巻、最終回に満足して、最高のエンディングだったとか思っている人はお帰り下さい。まあ、別にエンディングがどうこう言うつもりはないんだけど、昨日からずっと考えていたことがあるというか、思い至ったことがありまして。
勿体付けるのもあれなんで書きますけど、桂馬って本当にちひろのことが好きなんですかね?
いきなりなにを言い出すんだと言われるかも知れないけど、割と真面目に書いてます。根拠と言えるものも、一応はあると思います。
まず最初に、どうしてそんなことを考えたのかというと、やはり最終回で加筆修正された、ちひろとの一連のやり取り。本誌掲載時にあった桂馬はちひろに恋してますみたいな表情が改められて、酷くクールな顔付きになったこと。別にちひろが嫌いになったとか、興味がなくなったなんてことはないだろうけど、あるいはそこに恋愛感情が存在しないのだとすれば、どうだろうか?
思えば桂馬はちひろが好きというのは、ドクロウと、そして天理が示唆していることであって、桂馬自身は否定も肯定もしていません。確かに告白はしたけれど、それはされた当人であるちひろがそうであるように、簡単に信じられるものではない。だけど連載時なら、あの如何にもといった表情が桂馬の恋心を物語っており、口に出さずとも本音であり、本心だと言うことが見て取れました。
だけど、今やそうした恋する少年の桂木桂馬はどこかに消えてしまった。更に重要な加筆修正として、結のシーンがある。
「桂馬くんがボクらと仲良くしないのは…ボクらが好きだからさ!!」
「つまり!! ボクにもチャンスがあるってこと!!」
昨日の感想にも載せた台詞であるが、連載時より前向きに、そして一途に桂馬のことを想っている結の言葉には、一つ気になるところがある。というのも、結は「ボクらが好きだから」とは言っているが、「ボクらのことも好きだから」とは言ってないのだ。桂馬の想い人がちひろであるという事前情報があるにもかかわらず、結は敢えてボクら=女神の宿主に絞っているのだ。
更に、これは掲載時から変わっていないが、結は桂馬に好きな人がいたという事実を意外という風に捉えていて、心底驚いていた。つまり、ドクロウや天理と違い、結にとっては桂馬がちひろを好きだということは半信半疑なのだろう。それどころか、上記の言葉を考えれば信じていない可能性すらあり得てくる。
ではもし、結の言葉が100%真実だったとすればどうだろうか? 桂馬は天理含めた宿主たちのことが好き。それが紛れもない事実だったとしよう。そんなまさかと思うかも知れないが、同じく26巻では、天理と歩美がこんな会話をしている。
「私は本気で好きになっちゃったんだよ!! どうしたらいいの!?」
「それは…桂馬くんも同じだよ!!」
「だから今、桂馬くんも悲しいんだよ!!」
この台詞が掲載されたとき、私は天理の発言を宿主から本当に愛されてどうすれば良いのか分からない桂馬のことをさしているのだと思いました。歩美の気持ちに対して同じ、つまり桂馬も歩美のことが好きだとは、露ほどにも考えなかった。だから、これは桂馬の困惑や戸惑いをさしているのだろうと、そんな風に結論づけた。
でも、これが言葉通りの意味だとすれば? 桂馬も同じ、同じように歩美を始めとした宿主のことを好きになっていたのだとすれば、どうでしょうか? 会話の流れからすれば、そちらの方が自然なのは確かだし、もしこれが事実なのであれば、桂馬は宿主を選ばなかったのではなく、選べなかったという可能性さえも出てきます。
最終回の感想か、あるいは考察で書いたと思いますが、桂馬は最終回における一連の流れをシステムだと言いました。自分が独り身であることは不味いから、だからちひろに告白したのだと。それに対して私は、システムだというのならば、より完成度が高いであろう宿主から選んだ方が確実ではないかと書きました。そして、宿主から選ばない時点で、それはちひろの元へ向かう言い訳でしかないと。
あのときは確かにそう思ったけど、今は異なる可能性が存在するのではないか?
もし桂馬が本当に宿主たちのことが好きで、誰か一人を選ぶことが出来なかったのだとすれば、結の台詞や、天理と歩美のやり取りにも一応の辻褄というか、説明がついてしまう。そして、ちひろの元に走った真意すらも。
桂馬は自身が言ったように、物語から女の子たちを解放するシステムのキーとしてのみ、ちひろを求めたのかも知れない。愛する彼女たちを選ぶことが出来ず、しかし、関係を続けることも出来ない。だから、桂馬にはちひろが必要だった。恋愛感情ではなく、合理性。宿主ではない、記憶を失っている攻略ヒロインでもないちひろは、桂馬がシステムを完成させる条件としては、理想的ではないにしても、現実的であった。
そして恋愛感情がないからこそ、「なにも考えてない」のであり、将来像を抱かないからこそ、「どーなるか分からん」のではないか。
作者は最終回掲載時に、あれは桂木桂馬のために作った、桂馬へのお礼であると言いました。その礼が、掲載時に済まされていたのだとすれば? 26巻では、また違う答えと可能性を用意してきたとも考えられなくはないはずだ。それが上記のような極端なものかはともかく、少なくとも加筆修正された最終回が結末を限定しないものになったことは確かだ。故に私は、その幾つかについてこれからも考えを巡らせようと思う。
まあ、考察としてはこんなところでしょうか。最後は随分と逆説的になっている気がするけど、これも一つの考え方ではないかなと。作者がブログで解説すると言っているからには、上記の考察などするまでもなく、疑問、質問はすべからく回収されていくのかも知れませんが、そのときはそのときってことで。
とにもかくにもお疲れ様でした。まだまだ続くらしい神のみプロジェクトに期待しつつ、次のオンリー出だす本のネタでも練ることにしましょう。
※6月20日更新
エルシィに対する考察論を書きました→http://mlwhlw.diarynote.jp/201406201455467809/
神のみぞ知るセカイ コミックス第26巻 感想
2014年6月18日 神のみぞ知るセカイ
神のみこと神のみぞ知るセカイも最終巻ということで、今回はすべての店舗特典を押さえました。今後、画集やらパーフェクトブック的なものが出るとは限らないし、手に入れておかないと不味い気がして。店舗特典は天理を除く宿主たちのカラーイラストで、最後を飾るに相応しい面々ですね。特典が付く店舗数の問題からか、かのんだけはSSS特典という形になってますが、天理だけ作者自らサイン入りのペーパーを郵送してくれるらしい。サイズにもよるけど、同じようなイラストカードとして印刷するのもありかもしれませんね。
ちなみに限定ペーパーの情報が出る前に、天理は裏表紙ではないかという話もありましたけど、裏表紙は女神の宿主全員でした。まさしく、作品のラストを飾るべき少女たちでしょう。ただ、この裏表紙、一つだけ気になることがあって……うん、これはこの感想の最後に書きます。
そんな訳で最終巻ですが……まあ、加筆10Pがあるといったところで、話の内容がガラリと変わるわけではありません。作者はブログかツイッターで、結構ニュアンスの違いが出たみたいな、受ける印象の差について触れていましたけど、確かにその点は理解出来ました。加筆、あるいは修正されたのはなにも最終回だけではありませんが、やっぱり目立つのは最終回と、その前辺りでしょうか。
まだ本誌と照らし合わせてないので、具体的に10P分がどのように振り分けられているのか、明確に書くことは出来ませんが、私が気付いた箇所に基づき、今回の加筆修正について書いていこうかなと。思えば、最終回が掲載された当所、コミックスでの加筆修正は最終回未登場キャラに当てられる可能性が高いみたいなことを書いた気がします。攻略ヒロインもそうですが、白鳥家の皆さんとか、リューネとか、終盤までガッツリ出番がありながら、最終回に登場しなかったキャラというのは結構いますし、加筆は描ききれなかったキャラの出番に当てられると考えるのは別段不思議なことではなかったでしょう。
しかし、結論から言えば最終回の登場人物に変化はありません。攻略ヒロインは数が多いので仕方ないにしても、白鳥家のその後が描かれることもなければ、逆襲のリューネなんてことにもならず、うららや香織といった過去篇の重要キャラクラーが再登場することもありませんでした。二人とも本当に過去篇限定のキャラクターみたいな扱いで、成長した姿を見てみたかった身としては残念でなりません。うららは勿論ですが、香織なんて色々な意味で今現在なにしてるか気になるじゃないですか。てっきり、リューネのバディとして、ズタボロのリューネを適当に看病してる姿でも描かれるかと思ったのだけど……
まあ、リューネ自身はカバーの見返しで生存が確認されたからいいんだけどさ。ここしか場所がなかったんだ、という感じの描かれ方だけど、フライドチキンをパクついて血肉を補給しているようです。あれだけの激闘を繰り広げながら、「あー、しぬかとおもったー」で済んでしまう辺り、エルシィよりもよっぽどラスボスっぽいですね。羽衣も復活してますし、罪に問われるとかそういうことはないみたい。
それでまあ、最終回の加筆についてなのだけど、かのんは結局セリフ付きでは登場しませんでしたね。あくまでモニター越し、アイドル活動頑張ってますよ的な描かれ方で、中川かのんという少女のスタンスというか、立ち位置のようなものが垣間見えてくる気がします。もっとも、かのんの場合は再告白したとはいえ、明確に桂馬から振られている身ですから、最初から覚悟があったというか、気持ちの切り替えは難しくなかったのかもしれません。失恋でアイドル稼業を投げやりにするようなタイプではないし、敢えて心情には踏み込まず、台詞なしで描いた方が映えると考えたのかもしれない。
月夜と栞のシーンも取り立てて変化はなく、この二人の関係性は連載時に完成されたと考えて良さそうです。月夜は栞にべったりしすぎにも見えるけど、元々誰かに依存することがなかった娘であることを考えれば、これぐらいは可愛いものといえるでしょう。あしらうというか、熱中しすぎて聞こえてない栞と合わせれば、程よく吊り合いも取れていますし。
歩美と結のシーンですが、ここには分かりやすいシーンの加筆と修正がありました。歩美は帰還後の桂馬とのやりとりについて、以下の様な台詞で触れています。
「普通はもー少し愛想よくするもんでしょ!! 助けてもらって何よあの態度!! あの悪人!!」
一応、帰還後にありがとうという感謝の言葉を掛けている桂馬ですが、その後のやりとりは決して明るいものではなかったようです。本誌掲載時よりも手厳しい歩美の言葉通りだとすれば、桂馬はかなり冷淡に宿主たちを突き放した可能性が高く、結構酷い振り方をしているのかもしれない。歩美が直情的というのはあるのだろうけど、少なくとも桂馬が愛想の一つも見せず、宿主たちを労ったりしなかったのは事実らしい。最終回掲載直後はページの都合で描かれていないだけで、桂馬はちゃんと宿主たちにちゃんと説明したはずだみたいな意見もありましたけど、ここを読む限り、そういう感じではなさそうです。
一方で、結の台詞も加筆されており、彼女は笑顔を見せつつも、「歩美はわかっていないなー!!」と、不満タラタラの歩美に自分の考えを話し始めます。
「桂馬くんがボクらと仲良くしないのは…ボクらが好きだからさ!!」
「つまり!! ボクにもチャンスがあるってこと!!」
この台詞、本誌掲載時は「こんなすごい恋、もう二度とないかも知れないじゃないか!!」というものでした。次いで桂馬を諦めないと結は言うのですが、コミックスではそれが上記の台詞に差し替わった形になります。本誌掲載時の台詞のままだと、結はあたかも桂馬以外との恋も考えているかのような発言でしたが、コミックスではあくまで桂馬一筋、自分にもまだチャンスはあると張り切っています。
楽観的というか、前向きな考えに歩美は本誌と同じく「おいおい」とツッコミを入れますが、結のこうした思考というか、結論自体は別段おかしくありません。というより、ある意味では真実の一端を掴んでいるのではと思います。
結に限らず、女神の宿主というのはただ一人を除いて、桂馬から攻略と再攻略をされた相手になります。桂馬と恋愛をして、彼を愛し、愛された。彼女たちは自分が桂馬から愛されたという自覚があるはずで、結は桂馬から貰った愛情、向けられた好意は本物であるという確信があるのでしょう。嘘っぱちの気持ちで女神の翼が出るはずはないし、結には結なりの根拠があります。現に、手紙の中でも桂馬は結の在り方を好きだと言ってますし、決して拡大解釈ではないはずです。
結は正しいと思うことに全力で立ち向かえる人です。だからこそ、彼女は自分の想いも桂馬の気持ちも正しいものであるとして、諦めずに進むことが出来る。実に結らしい、素敵な結末だと思いました。
でも、歩美はそこまで前向きにはなれない。ここは本誌から変わってないけど、なにせ相手が相手です。幼馴染で親友に対しての遠慮、しがらみ。女神篇でも一度は身を引いたし、桂馬の手紙にもあったように、歩美は本当にいい子なのでしょう。だから、自分の気持よりも相手の気持を優先させてしまう。ある意味で戦う勇気がないとも言えるのだけど、それは決して彼女が弱いからじゃない。ここでのギブアップも、歩美らしい決断だったと言えるでしょう。
桂馬とちひろの邂逅シーン。本誌掲載時は、ちひろと遭遇した桂馬が頬を赤らめて、そんな彼に対してちひろがお茶に誘うという、シンプルな内容でした。このときの桂馬の表情はとても純朴であり、それを持って桂馬は普通の恋する男の子になったという見解を示す人が多かったように思います。駆け魂狩りや、それ以上の役目から解放されたことで、落とし神じゃなくなったことで、桂馬は平凡な恋する男子高校生になった。確かに、あの表情を見せられればそう思わずにはいられないし、あれは明らかにちひろのことを意識している顔でした。
しかし、最終巻の加筆修正でそうした純朴な表情はすべて描き直されていました。恋する少年、普通の男の子はどこに消えたのか、桂馬はとても冷静で、ちひろに対する視線や表情はクールそのもの。冷淡とは言わないまでも口調は酷く淡々としており、どこか突き放した感じさえ見受けられます。
ちひろの台詞も加筆されており、彼女は桂馬に告白の真意を問いただします。当たり前の話、女神篇での手痛い経験があるちひろとしては、桂馬の告白を馬鹿正直に信じられるはずもないし、何の疑問もなく受け入れることなど出来ないのでしょう。桂馬が本当に恋する少年だったなら、不器用にもここでなにかしらのフォローをするはずです。自分が本気であることを、難しくても伝えるのが普通だと思う。
けれど、桂馬はそんなちひろの問いかけにどこまでも淡々としていました。
「あれ、なんなのさ…何考えてんのあんた?」
「何も考えてない」
「だから、ボクもどーなるかわからん!!」
「なんだそりゃ!!」
ここで桂馬が頬を赤らめて、照れ隠しのように上記の台詞を言ったなら、微笑ましいシーンか、あるいはギャグシーンにでもなったんだろうけど、桂馬はぶっきらぼうというよりは無感情にも等しいほど表情の変化を見せません。好きな人を前にしているはずなのに、まるでそれが伝わってこない。これでもまだ桂馬が普通の、純朴な、等身大の男の子になったんだと言う人がいるのなら、それは流石に無理があると思います。
作者がどうしてこのような加筆と修正を加えたのか、桂馬の台詞からも分かるように、先が見えないことを強調したかったのではないでしょうか? 後にあるディアナの台詞にも繋がる話ですが、桂馬が連載時のまま、頬を赤らめた恋する少年でいると、結局は何だかんだ言ってちひろと付き合う未来が想像に難しくありません。でも、そうすると結末が決まっているようなものであり、それを否定したディアナの考えと矛盾します。
結が言ったようにチャンスはまだあるはずで、それは他の宿主たちもそうだし、彼女たち以外の攻略ヒロイン、あるいはこれから登場する誰かかもしれない。ディアナの言った「私たちは決められた結末のために生きているのではない」とはそういうことであり、だからこそ、桂馬は恋する少年ではいられなかったのではないか? 彼は作品の今後に、可能性を残さなければならなかったから。結と、そしてディアナが示した可能性。桂馬には主人公として、それを守る義務があったのでしょう。
そうなってくると、ちひろは確かにお茶へと誘ったけど、「とりあえず、どこかで腰を落ち着けて詳しい話を聞かせてもらおうか」以上の意味はないような気もします。少なくとも、今の時点では。
天理とディアナのページにも、加筆がなされていました。本誌掲載時にはやけに物分かりがいいと言われていたディアナですが、最終巻の加筆によって桂馬への怒りを露わにしていました。考えて見れば、ディアナの性格からして怒らない方が不自然であり、この加筆はまあ予想出来ていました。予め天理から説明があって納得していたのかと思いきや、全然そんなことはなかったんですね。
「納得行きません!! 天理は10年もこの時を待っていたのに……!!」
ディアナの発言は天理ファンの共通見解みたいなものであり、まさにファンの気持ちを代弁していると思います。まあ、これが天理に対するフォローというわけじゃないんだろうけど、10年間にも渡る想いと献身が報われなかったことに対して、不満が渦巻いていたことは否定出来ない。
でも、天理にはわかっていたことだった。桂馬が予め手紙に全部書いていたから、桂馬がちひろのところへ帰りたがっていたのに気付いていたから。
――天理、最後に確認しておく。
――ぼくとお前とのエンディングはない。
すべてが終わった今だからこそ、天理は桂馬が手紙に書き記した言葉の理由がわかる。
――ボクらはすべてが終わったら、別々のルートを歩いて行くんだ。
かつて言われた言葉。当時は意味が分からなくても、今ならわかる。わかってしまう。
「桂馬くんはずっと苦しんでいたんだよ…だから…」
「終わって…よかったよ……」
以前、天理にはまともに告白する機会すら与えられなかったと書きました。
しかし、真実は違いました。天理は桂馬に、告白したくてもすることが出来なかったのです。自分がそれを選択すれば、桂馬を苦しめてしまうと彼女は理解していたから。10年に渡る想い、献身、あるいは天理が泣いてすがれば、桂馬はこれを突き放すことが出来なかったかもしれない。それだけ大きな借りが、天理に対してはある。
だけど天理は、自分の気持で桂馬を縛りたくはなかった、苦しめたくなかった。故に彼女は気持ちを封印して、違う結末を夢見ることで、僅かな望みを繋いだのです。
天理は結を始めとした宿主と違って、桂馬に攻略されたことがありません。一度だけキスはしてますが、あれは完全にお芝居だと分かり切っていたことですし、だからこそ、天理は結のように前向きになることが出来ない。恐らく彼女は、桂馬から愛されている、好意を向けられているという実感がなかったのかもしれない。頼られている、という自覚はあったかもしれないけど、事実として桂馬は天理を愛さなかったわけですからね。
そう考えると、天理は本当に残酷なルートを歩いていたように感じます。天理の生き様や考え方は、まさしく女神といえるだけの慈愛に満ちたものだったけど、それは彼女が報われることのない、ただ一人、想い人の幸せだけを祈るものだった……
ディアナの言葉は天理に対する励ましであり、有り体に言えば「諦めるな!」と言ってくれているわけですが、ディアナ自身の気持ちはどうなったのか、それは不明のままでした。天理に対する仕打ちを考えれば愛想を尽かしてもおかしくはないけど、惚れた弱みという言葉が似合いそうな女神ですし、未練はあるような気がするんだよね。なので、天理への励ましであると同時に、自分に対しての言葉だったのかもしれないと、そう思うことがある。
だからこそ、「私たちには未来があるのです!!」と、ディアナは自分と天理の未来について、二人分の想いを空に羽ばたかせることが出来たのかもしれない。
ハクアに関しても、一応の加筆がありました。メインキャラ、ヒロインの一角だったことを考えると本当に小さい扱いですが、ハクアは相変わらずエルシィのことを思い出せないようです。なにかに気付いた表情はしてましたが、それが記憶の復活に繋がるのかは不明ですし、まあ、ハクアとしてはこれが無難な幕引きなのかなと思います。余韻も、そう悪くないものではないし。
ただ、エルシィに関しては……「ごめんね、ハクア…」と、心のなかで謝ってるんですよね。ここは結構重要な加筆で、エルシィが駆け魂レーダーを持っていたことを考えると、桂木えりとは歴史改変によって生まれた存在ではないことが伺えます。元々存在したエルシィという悪魔を桂木えりという人間の転生体に置き換えて、関係各所の記憶を書き換えた、といったところか。麻里さんがお腹を痛めて産んだ娘ってわけではなさそう。
でも、それ以上に重要なのはエルシィがハクアに、面と向かってではないにせよ謝罪してしまったことです。最終回一話前が掲載された後、エルシィの決断とエンディングに対してある種の非難が起こりました。親友のハクアはどうしたんだ、と。
私も書いたと思いますが、エルシィは人間になることでハクアを、如いては地獄との繋がりを断ち切っているんですね。幾らなんでも親友に対して非情すぎやしないか、それでいいのかエルシィと、そんな感じです。しかも、ハクアは桂馬に恋していたこともあり、エルシィの記憶を失ったことで、そうした恋心も消えてしまった可能性が高い。結局、告白することもなく、気持ちを伝えることも出来ず、この仕打はあんまりだという嘆きがあって当然のことでしょう。
そうしたエルシィの行いについて、こんなフォローというか、擁護がありました。曰く、エルシィはポンコツだからハクアのことまで深く考えていなかったと。それはそれでどうなんだという意見ですが、エルシィが謝罪したことによって、この可能性は消えました。エルシィはこうなることを分かった上で、エルシィとして生き続けるのではなく、桂木えりとして生まれ変わることを選んだんです。だから、彼女はどこまでも確信犯なんですね。
エルシィはハクアの桂馬に対する気持ちに感づいていたこともあり、それを考えるとかなり酷いことをしてしまったんだけど、そこはまあ、エルシィの私欲だからしょうがない。親友ハクアとの関係や、彼女の抱えていた気持ちよりも、自分が桂馬の実妹になることのほうが大事だったとしか言い様がない。謝って許されるのかは分かりませんけど。
ざっちと読んで、ざっと書いた限りではこんな感じですね。エルシィの行いに対するフォローが弱いにように感じましたけど、後は概ね理解しています。満足したか、納得したのかと言われると悩みどころですが、これ以上なにが出来たのかと言われると、今はまだなにも思い浮かばないので。女神のその後とか、解き明かされなかった謎についてはブログでの解説を待つことにして、次の日記ではちょっとした考察に入ろうと思います。
ところで、最初に書いた裏表紙の件なんですが……宿主たちがそれぞれ英単語を並べてるんですよね。
歩美:See、栞:You、かのん:in、月夜:Another Time、天理:Another、結:Routeとなり、繋げてみるとSee You in Another Time Another Routeになります。
私はそれほど英語に強い方ではありませんが、要するにまた別のルートで会おうねということであり、個別ルート、個別エンディングの暗示なのではないかと、そんな期待を一瞬抱いたりしました。まあ、実際はまた次の作品でお目に掛かりましょうとか、そんな意味なのだろうけど。帯ではドクロ室長が、「ご愛読ありがとうございました! 若木先生の次回作にご期待ください」と言ってるからね。
神のみの企画はまだ幾つか進行中ということですが、コミックスの帯に書かれているのは既存の情報、発売中の関連商品についてが全てであり、新規情報のようなものはありませんでした。コミックスにはあとがきもありませんでしたし、本編の加筆のみに尽力したのが伺えます。今後神のみがどうなるのか、果たして本当にすべてが終わったのかはまだ分かりませんが、一つ言えることがあるとすれば、私の中ではまだまだ続いていると言うことです。こうしてコミックスを読むことで、それを再認識しました。
けどまあ、とりあえず、神のみぞ知るセカイ最終巻、26巻の感想はここまで。天理とディアナに、そして女神と宿主に史上最高の祝福を。
ちなみに限定ペーパーの情報が出る前に、天理は裏表紙ではないかという話もありましたけど、裏表紙は女神の宿主全員でした。まさしく、作品のラストを飾るべき少女たちでしょう。ただ、この裏表紙、一つだけ気になることがあって……うん、これはこの感想の最後に書きます。
そんな訳で最終巻ですが……まあ、加筆10Pがあるといったところで、話の内容がガラリと変わるわけではありません。作者はブログかツイッターで、結構ニュアンスの違いが出たみたいな、受ける印象の差について触れていましたけど、確かにその点は理解出来ました。加筆、あるいは修正されたのはなにも最終回だけではありませんが、やっぱり目立つのは最終回と、その前辺りでしょうか。
まだ本誌と照らし合わせてないので、具体的に10P分がどのように振り分けられているのか、明確に書くことは出来ませんが、私が気付いた箇所に基づき、今回の加筆修正について書いていこうかなと。思えば、最終回が掲載された当所、コミックスでの加筆修正は最終回未登場キャラに当てられる可能性が高いみたいなことを書いた気がします。攻略ヒロインもそうですが、白鳥家の皆さんとか、リューネとか、終盤までガッツリ出番がありながら、最終回に登場しなかったキャラというのは結構いますし、加筆は描ききれなかったキャラの出番に当てられると考えるのは別段不思議なことではなかったでしょう。
しかし、結論から言えば最終回の登場人物に変化はありません。攻略ヒロインは数が多いので仕方ないにしても、白鳥家のその後が描かれることもなければ、逆襲のリューネなんてことにもならず、うららや香織といった過去篇の重要キャラクラーが再登場することもありませんでした。二人とも本当に過去篇限定のキャラクターみたいな扱いで、成長した姿を見てみたかった身としては残念でなりません。うららは勿論ですが、香織なんて色々な意味で今現在なにしてるか気になるじゃないですか。てっきり、リューネのバディとして、ズタボロのリューネを適当に看病してる姿でも描かれるかと思ったのだけど……
まあ、リューネ自身はカバーの見返しで生存が確認されたからいいんだけどさ。ここしか場所がなかったんだ、という感じの描かれ方だけど、フライドチキンをパクついて血肉を補給しているようです。あれだけの激闘を繰り広げながら、「あー、しぬかとおもったー」で済んでしまう辺り、エルシィよりもよっぽどラスボスっぽいですね。羽衣も復活してますし、罪に問われるとかそういうことはないみたい。
それでまあ、最終回の加筆についてなのだけど、かのんは結局セリフ付きでは登場しませんでしたね。あくまでモニター越し、アイドル活動頑張ってますよ的な描かれ方で、中川かのんという少女のスタンスというか、立ち位置のようなものが垣間見えてくる気がします。もっとも、かのんの場合は再告白したとはいえ、明確に桂馬から振られている身ですから、最初から覚悟があったというか、気持ちの切り替えは難しくなかったのかもしれません。失恋でアイドル稼業を投げやりにするようなタイプではないし、敢えて心情には踏み込まず、台詞なしで描いた方が映えると考えたのかもしれない。
月夜と栞のシーンも取り立てて変化はなく、この二人の関係性は連載時に完成されたと考えて良さそうです。月夜は栞にべったりしすぎにも見えるけど、元々誰かに依存することがなかった娘であることを考えれば、これぐらいは可愛いものといえるでしょう。あしらうというか、熱中しすぎて聞こえてない栞と合わせれば、程よく吊り合いも取れていますし。
歩美と結のシーンですが、ここには分かりやすいシーンの加筆と修正がありました。歩美は帰還後の桂馬とのやりとりについて、以下の様な台詞で触れています。
「普通はもー少し愛想よくするもんでしょ!! 助けてもらって何よあの態度!! あの悪人!!」
一応、帰還後にありがとうという感謝の言葉を掛けている桂馬ですが、その後のやりとりは決して明るいものではなかったようです。本誌掲載時よりも手厳しい歩美の言葉通りだとすれば、桂馬はかなり冷淡に宿主たちを突き放した可能性が高く、結構酷い振り方をしているのかもしれない。歩美が直情的というのはあるのだろうけど、少なくとも桂馬が愛想の一つも見せず、宿主たちを労ったりしなかったのは事実らしい。最終回掲載直後はページの都合で描かれていないだけで、桂馬はちゃんと宿主たちにちゃんと説明したはずだみたいな意見もありましたけど、ここを読む限り、そういう感じではなさそうです。
一方で、結の台詞も加筆されており、彼女は笑顔を見せつつも、「歩美はわかっていないなー!!」と、不満タラタラの歩美に自分の考えを話し始めます。
「桂馬くんがボクらと仲良くしないのは…ボクらが好きだからさ!!」
「つまり!! ボクにもチャンスがあるってこと!!」
この台詞、本誌掲載時は「こんなすごい恋、もう二度とないかも知れないじゃないか!!」というものでした。次いで桂馬を諦めないと結は言うのですが、コミックスではそれが上記の台詞に差し替わった形になります。本誌掲載時の台詞のままだと、結はあたかも桂馬以外との恋も考えているかのような発言でしたが、コミックスではあくまで桂馬一筋、自分にもまだチャンスはあると張り切っています。
楽観的というか、前向きな考えに歩美は本誌と同じく「おいおい」とツッコミを入れますが、結のこうした思考というか、結論自体は別段おかしくありません。というより、ある意味では真実の一端を掴んでいるのではと思います。
結に限らず、女神の宿主というのはただ一人を除いて、桂馬から攻略と再攻略をされた相手になります。桂馬と恋愛をして、彼を愛し、愛された。彼女たちは自分が桂馬から愛されたという自覚があるはずで、結は桂馬から貰った愛情、向けられた好意は本物であるという確信があるのでしょう。嘘っぱちの気持ちで女神の翼が出るはずはないし、結には結なりの根拠があります。現に、手紙の中でも桂馬は結の在り方を好きだと言ってますし、決して拡大解釈ではないはずです。
結は正しいと思うことに全力で立ち向かえる人です。だからこそ、彼女は自分の想いも桂馬の気持ちも正しいものであるとして、諦めずに進むことが出来る。実に結らしい、素敵な結末だと思いました。
でも、歩美はそこまで前向きにはなれない。ここは本誌から変わってないけど、なにせ相手が相手です。幼馴染で親友に対しての遠慮、しがらみ。女神篇でも一度は身を引いたし、桂馬の手紙にもあったように、歩美は本当にいい子なのでしょう。だから、自分の気持よりも相手の気持を優先させてしまう。ある意味で戦う勇気がないとも言えるのだけど、それは決して彼女が弱いからじゃない。ここでのギブアップも、歩美らしい決断だったと言えるでしょう。
桂馬とちひろの邂逅シーン。本誌掲載時は、ちひろと遭遇した桂馬が頬を赤らめて、そんな彼に対してちひろがお茶に誘うという、シンプルな内容でした。このときの桂馬の表情はとても純朴であり、それを持って桂馬は普通の恋する男の子になったという見解を示す人が多かったように思います。駆け魂狩りや、それ以上の役目から解放されたことで、落とし神じゃなくなったことで、桂馬は平凡な恋する男子高校生になった。確かに、あの表情を見せられればそう思わずにはいられないし、あれは明らかにちひろのことを意識している顔でした。
しかし、最終巻の加筆修正でそうした純朴な表情はすべて描き直されていました。恋する少年、普通の男の子はどこに消えたのか、桂馬はとても冷静で、ちひろに対する視線や表情はクールそのもの。冷淡とは言わないまでも口調は酷く淡々としており、どこか突き放した感じさえ見受けられます。
ちひろの台詞も加筆されており、彼女は桂馬に告白の真意を問いただします。当たり前の話、女神篇での手痛い経験があるちひろとしては、桂馬の告白を馬鹿正直に信じられるはずもないし、何の疑問もなく受け入れることなど出来ないのでしょう。桂馬が本当に恋する少年だったなら、不器用にもここでなにかしらのフォローをするはずです。自分が本気であることを、難しくても伝えるのが普通だと思う。
けれど、桂馬はそんなちひろの問いかけにどこまでも淡々としていました。
「あれ、なんなのさ…何考えてんのあんた?」
「何も考えてない」
「だから、ボクもどーなるかわからん!!」
「なんだそりゃ!!」
ここで桂馬が頬を赤らめて、照れ隠しのように上記の台詞を言ったなら、微笑ましいシーンか、あるいはギャグシーンにでもなったんだろうけど、桂馬はぶっきらぼうというよりは無感情にも等しいほど表情の変化を見せません。好きな人を前にしているはずなのに、まるでそれが伝わってこない。これでもまだ桂馬が普通の、純朴な、等身大の男の子になったんだと言う人がいるのなら、それは流石に無理があると思います。
作者がどうしてこのような加筆と修正を加えたのか、桂馬の台詞からも分かるように、先が見えないことを強調したかったのではないでしょうか? 後にあるディアナの台詞にも繋がる話ですが、桂馬が連載時のまま、頬を赤らめた恋する少年でいると、結局は何だかんだ言ってちひろと付き合う未来が想像に難しくありません。でも、そうすると結末が決まっているようなものであり、それを否定したディアナの考えと矛盾します。
結が言ったようにチャンスはまだあるはずで、それは他の宿主たちもそうだし、彼女たち以外の攻略ヒロイン、あるいはこれから登場する誰かかもしれない。ディアナの言った「私たちは決められた結末のために生きているのではない」とはそういうことであり、だからこそ、桂馬は恋する少年ではいられなかったのではないか? 彼は作品の今後に、可能性を残さなければならなかったから。結と、そしてディアナが示した可能性。桂馬には主人公として、それを守る義務があったのでしょう。
そうなってくると、ちひろは確かにお茶へと誘ったけど、「とりあえず、どこかで腰を落ち着けて詳しい話を聞かせてもらおうか」以上の意味はないような気もします。少なくとも、今の時点では。
天理とディアナのページにも、加筆がなされていました。本誌掲載時にはやけに物分かりがいいと言われていたディアナですが、最終巻の加筆によって桂馬への怒りを露わにしていました。考えて見れば、ディアナの性格からして怒らない方が不自然であり、この加筆はまあ予想出来ていました。予め天理から説明があって納得していたのかと思いきや、全然そんなことはなかったんですね。
「納得行きません!! 天理は10年もこの時を待っていたのに……!!」
ディアナの発言は天理ファンの共通見解みたいなものであり、まさにファンの気持ちを代弁していると思います。まあ、これが天理に対するフォローというわけじゃないんだろうけど、10年間にも渡る想いと献身が報われなかったことに対して、不満が渦巻いていたことは否定出来ない。
でも、天理にはわかっていたことだった。桂馬が予め手紙に全部書いていたから、桂馬がちひろのところへ帰りたがっていたのに気付いていたから。
――天理、最後に確認しておく。
――ぼくとお前とのエンディングはない。
すべてが終わった今だからこそ、天理は桂馬が手紙に書き記した言葉の理由がわかる。
――ボクらはすべてが終わったら、別々のルートを歩いて行くんだ。
かつて言われた言葉。当時は意味が分からなくても、今ならわかる。わかってしまう。
「桂馬くんはずっと苦しんでいたんだよ…だから…」
「終わって…よかったよ……」
以前、天理にはまともに告白する機会すら与えられなかったと書きました。
しかし、真実は違いました。天理は桂馬に、告白したくてもすることが出来なかったのです。自分がそれを選択すれば、桂馬を苦しめてしまうと彼女は理解していたから。10年に渡る想い、献身、あるいは天理が泣いてすがれば、桂馬はこれを突き放すことが出来なかったかもしれない。それだけ大きな借りが、天理に対してはある。
だけど天理は、自分の気持で桂馬を縛りたくはなかった、苦しめたくなかった。故に彼女は気持ちを封印して、違う結末を夢見ることで、僅かな望みを繋いだのです。
天理は結を始めとした宿主と違って、桂馬に攻略されたことがありません。一度だけキスはしてますが、あれは完全にお芝居だと分かり切っていたことですし、だからこそ、天理は結のように前向きになることが出来ない。恐らく彼女は、桂馬から愛されている、好意を向けられているという実感がなかったのかもしれない。頼られている、という自覚はあったかもしれないけど、事実として桂馬は天理を愛さなかったわけですからね。
そう考えると、天理は本当に残酷なルートを歩いていたように感じます。天理の生き様や考え方は、まさしく女神といえるだけの慈愛に満ちたものだったけど、それは彼女が報われることのない、ただ一人、想い人の幸せだけを祈るものだった……
ディアナの言葉は天理に対する励ましであり、有り体に言えば「諦めるな!」と言ってくれているわけですが、ディアナ自身の気持ちはどうなったのか、それは不明のままでした。天理に対する仕打ちを考えれば愛想を尽かしてもおかしくはないけど、惚れた弱みという言葉が似合いそうな女神ですし、未練はあるような気がするんだよね。なので、天理への励ましであると同時に、自分に対しての言葉だったのかもしれないと、そう思うことがある。
だからこそ、「私たちには未来があるのです!!」と、ディアナは自分と天理の未来について、二人分の想いを空に羽ばたかせることが出来たのかもしれない。
ハクアに関しても、一応の加筆がありました。メインキャラ、ヒロインの一角だったことを考えると本当に小さい扱いですが、ハクアは相変わらずエルシィのことを思い出せないようです。なにかに気付いた表情はしてましたが、それが記憶の復活に繋がるのかは不明ですし、まあ、ハクアとしてはこれが無難な幕引きなのかなと思います。余韻も、そう悪くないものではないし。
ただ、エルシィに関しては……「ごめんね、ハクア…」と、心のなかで謝ってるんですよね。ここは結構重要な加筆で、エルシィが駆け魂レーダーを持っていたことを考えると、桂木えりとは歴史改変によって生まれた存在ではないことが伺えます。元々存在したエルシィという悪魔を桂木えりという人間の転生体に置き換えて、関係各所の記憶を書き換えた、といったところか。麻里さんがお腹を痛めて産んだ娘ってわけではなさそう。
でも、それ以上に重要なのはエルシィがハクアに、面と向かってではないにせよ謝罪してしまったことです。最終回一話前が掲載された後、エルシィの決断とエンディングに対してある種の非難が起こりました。親友のハクアはどうしたんだ、と。
私も書いたと思いますが、エルシィは人間になることでハクアを、如いては地獄との繋がりを断ち切っているんですね。幾らなんでも親友に対して非情すぎやしないか、それでいいのかエルシィと、そんな感じです。しかも、ハクアは桂馬に恋していたこともあり、エルシィの記憶を失ったことで、そうした恋心も消えてしまった可能性が高い。結局、告白することもなく、気持ちを伝えることも出来ず、この仕打はあんまりだという嘆きがあって当然のことでしょう。
そうしたエルシィの行いについて、こんなフォローというか、擁護がありました。曰く、エルシィはポンコツだからハクアのことまで深く考えていなかったと。それはそれでどうなんだという意見ですが、エルシィが謝罪したことによって、この可能性は消えました。エルシィはこうなることを分かった上で、エルシィとして生き続けるのではなく、桂木えりとして生まれ変わることを選んだんです。だから、彼女はどこまでも確信犯なんですね。
エルシィはハクアの桂馬に対する気持ちに感づいていたこともあり、それを考えるとかなり酷いことをしてしまったんだけど、そこはまあ、エルシィの私欲だからしょうがない。親友ハクアとの関係や、彼女の抱えていた気持ちよりも、自分が桂馬の実妹になることのほうが大事だったとしか言い様がない。謝って許されるのかは分かりませんけど。
ざっちと読んで、ざっと書いた限りではこんな感じですね。エルシィの行いに対するフォローが弱いにように感じましたけど、後は概ね理解しています。満足したか、納得したのかと言われると悩みどころですが、これ以上なにが出来たのかと言われると、今はまだなにも思い浮かばないので。女神のその後とか、解き明かされなかった謎についてはブログでの解説を待つことにして、次の日記ではちょっとした考察に入ろうと思います。
ところで、最初に書いた裏表紙の件なんですが……宿主たちがそれぞれ英単語を並べてるんですよね。
歩美:See、栞:You、かのん:in、月夜:Another Time、天理:Another、結:Routeとなり、繋げてみるとSee You in Another Time Another Routeになります。
私はそれほど英語に強い方ではありませんが、要するにまた別のルートで会おうねということであり、個別ルート、個別エンディングの暗示なのではないかと、そんな期待を一瞬抱いたりしました。まあ、実際はまた次の作品でお目に掛かりましょうとか、そんな意味なのだろうけど。帯ではドクロ室長が、「ご愛読ありがとうございました! 若木先生の次回作にご期待ください」と言ってるからね。
神のみの企画はまだ幾つか進行中ということですが、コミックスの帯に書かれているのは既存の情報、発売中の関連商品についてが全てであり、新規情報のようなものはありませんでした。コミックスにはあとがきもありませんでしたし、本編の加筆のみに尽力したのが伺えます。今後神のみがどうなるのか、果たして本当にすべてが終わったのかはまだ分かりませんが、一つ言えることがあるとすれば、私の中ではまだまだ続いていると言うことです。こうしてコミックスを読むことで、それを再認識しました。
けどまあ、とりあえず、神のみぞ知るセカイ最終巻、26巻の感想はここまで。天理とディアナに、そして女神と宿主に史上最高の祝福を。
神のみオンリー新刊「女神たちのユウウツ」自家通販開始
2014年6月7日 神のみぞ知るセカイサイトの方で、1日の神のみオンリーで発行したコピー本新刊の自家通販を開始しました。身内と協議の結果、別にコピー本でも欲しい人がいるのなら自家通販してもいいのではないかという結論に至り、期間限定で開催中です。在庫の方は自分の分含めてイベントで売り切ってしまったから、今回は再販というか、注文後に改めて製本する受注生産となっており、そのためいつもとは少し勝手が違います。
既にサイトでは詳細を書いていますが、ここにも一応記載しておきましょう。
ちなみに自家通販分は第二版ということになりますので、誤字脱字等は修正を開始しています。致命的なミスが一つ発覚したんだけど、外校共々気付かなかったというね。時間がない中でも、校正はしっかりしたつもりだったんですが……一つ、二つは毎回残ってしまうという。まあ、それ以外にも表現を若干変えたりしているので、内容は全く変わらないとはいえ、重版分らしい形になるんじゃないかなと。
神のみオンリー自体は次回開催が決まっていて10月に行われるそうですね。会場は同じ川崎ということで、一応参加を検討しています。他にも、11月の.hackオンリーも昨年に続けて興味が合ったりもするから、コミケ以外だとこの二つの即売会が検討中ってことになるのかな。
直近ではごちうさのオンリーが15日あるわけですが、こちらはもうスペース番号等が公開されています。会場は蒲田のPioで、即売会の会場としてはメジャーなところですね。また改めて告知はしますけど、一般参加ならまだしも、サークル参加では初めての会場になるから今から楽しみです。隣ではkeyオンリーもやっているとかで、時間があったらそっちも覗けないかなと思っていたり。コミ1以降、Kanonに対する気持ちがぶり返してましてね。素敵なKanon本でもあれば、と考えてるんだけど、流石に時代じゃないというか、ざっと見た感じでは殆どリトバスオンリーみたいな感じになってました。私はリトバスに関してはエクスタシーとわふたーをかじった程度の人なので、実はそれほど詳しくないんだよね……Rewriteなんて買ってすらいないし。基本、CLANNADまでの男です。
Kanon熱が復活した理由はコミ1でとても素敵な本を読んだからなんだけど、そういえばKanonでなにかを書いたりしたことってなかったなぁと思ったり。私があの作品でもっとも好きなのは美汐になるんだけど、私が美汐を好きなのって本編がどうのこうのじゃなくて、ラジオドラマのキャラが良かったからなんだよね。
なんでか最後はKanonの話になってしまいましたが、まあ、ギャルゲーの話だからいいよねってことで、神のみ本の自家通販よろしくお願いします。コピー本の場合、紙代とインク代の方が売り上げよりも高くつくなんてことが珍しくないから、注文が来ないことには赤字だという……前にも書いたかもしれませんが、表紙の印刷でやたらとインクを消費したり、紙の相性が良くないのか給紙に失敗して印刷エラーが起きたりと、もう散々で。後者は絶対に失敗しないだろう方法を見つけたので、とりあえずそれを試そうと思いますが、思った以上にインクの減りが早いのは相変わらず。
当分、コピー本は作りたくないけれど、次に作るときはもう少し色々工夫したいですね。なにをどう工夫すればいいのかはサッパリですが。
既にサイトでは詳細を書いていますが、ここにも一応記載しておきましょう。
女神たちのユウウツまあ、サイトにある文章のほとんどコピペですけど、自家通販そのものは4日から始めてます。約2週間の予定で、注文期間が終わってからの製本となります。ちらほら注文も来ていますが、神のみファンなのか、うちのサークルのファンなのかはよく分からない。何故か、九州地方からの注文が多いのだけど……はて、九州なんて一度コミックシティで福岡に行ったぐらいだな。そう考えると、九州には神のみファンが多いと考えた方が自然なのかしら。
発行日:2014年6月1日
イベント名:落とし神 Fall in love FLAG 2.0
ジャンル:神のみぞ知るセカイ
自家通販価格:500円
総ページ数:40P
サイズ:A5判
収録内容
表題作「女神たちのユウウツ」収録。女神&宿主本です。
備考:コピー本になります。
通販期間:2014年6月 4日(水)~6月18日(水)
発送予定:2014年6月20日(金)以降
自家通販ページ:http://www.usamimi.info/~mlwhlw/cgi-bin/order/index.cgi
注意事項
在庫通販ではなく通販期間終了後に改めて製本を行う受注生産になるため、通常の自家通販よりも発送まで時間が掛かります。
又、グッズタペストリーとの同梱・同封注文は出来ません。それぞれ別送料の個別発送となります。
ちなみに自家通販分は第二版ということになりますので、誤字脱字等は修正を開始しています。致命的なミスが一つ発覚したんだけど、外校共々気付かなかったというね。時間がない中でも、校正はしっかりしたつもりだったんですが……一つ、二つは毎回残ってしまうという。まあ、それ以外にも表現を若干変えたりしているので、内容は全く変わらないとはいえ、重版分らしい形になるんじゃないかなと。
神のみオンリー自体は次回開催が決まっていて10月に行われるそうですね。会場は同じ川崎ということで、一応参加を検討しています。他にも、11月の.hackオンリーも昨年に続けて興味が合ったりもするから、コミケ以外だとこの二つの即売会が検討中ってことになるのかな。
直近ではごちうさのオンリーが15日あるわけですが、こちらはもうスペース番号等が公開されています。会場は蒲田のPioで、即売会の会場としてはメジャーなところですね。また改めて告知はしますけど、一般参加ならまだしも、サークル参加では初めての会場になるから今から楽しみです。隣ではkeyオンリーもやっているとかで、時間があったらそっちも覗けないかなと思っていたり。コミ1以降、Kanonに対する気持ちがぶり返してましてね。素敵なKanon本でもあれば、と考えてるんだけど、流石に時代じゃないというか、ざっと見た感じでは殆どリトバスオンリーみたいな感じになってました。私はリトバスに関してはエクスタシーとわふたーをかじった程度の人なので、実はそれほど詳しくないんだよね……Rewriteなんて買ってすらいないし。基本、CLANNADまでの男です。
Kanon熱が復活した理由はコミ1でとても素敵な本を読んだからなんだけど、そういえばKanonでなにかを書いたりしたことってなかったなぁと思ったり。私があの作品でもっとも好きなのは美汐になるんだけど、私が美汐を好きなのって本編がどうのこうのじゃなくて、ラジオドラマのキャラが良かったからなんだよね。
なんでか最後はKanonの話になってしまいましたが、まあ、ギャルゲーの話だからいいよねってことで、神のみ本の自家通販よろしくお願いします。コピー本の場合、紙代とインク代の方が売り上げよりも高くつくなんてことが珍しくないから、注文が来ないことには赤字だという……前にも書いたかもしれませんが、表紙の印刷でやたらとインクを消費したり、紙の相性が良くないのか給紙に失敗して印刷エラーが起きたりと、もう散々で。後者は絶対に失敗しないだろう方法を見つけたので、とりあえずそれを試そうと思いますが、思った以上にインクの減りが早いのは相変わらず。
当分、コピー本は作りたくないけれど、次に作るときはもう少し色々工夫したいですね。なにをどう工夫すればいいのかはサッパリですが。
唐突ですが、明日、川崎で開催される神のみぞ知るセカイのオンリーイベントにサークル参加してきます。前々から参加することは決まっていたんですが、新刊が用意できるか微妙だったので告知が前日というかほぼ当日になってしまいましたが、おかげさまでなんとかオンリー用の本を作ることが出来ました。
以下、イベントでの出し物になります。
新刊は色々書きたい話があったし、この日記で書いた感想を纏めようか、みたいな話しもした気がしますけど、最終的に女神&宿主本にしました。誰が主役、主人公という構成ではないんだけど、一応私の好みも合って、天理とディアナがメインという意識があります。勿論、女神と宿主は全員出ますので、彼女たちが好きだという方は是非お手に取ってみてください。
それでは短いですが、この辺で。明日はよろしくお願いします。
以下、イベントでの出し物になります。
イベント名:神のみぞ知るセカイオンリーイベント「落とし神 Fall in love FLAG 2.0」オンリーに持って行くのはあれなんですが、既刊としてごちうさ本も少し持って行きます。新刊の神のみ本だけじゃ机の上が寂しいので……新刊も既刊もそれほど数がある訳じゃないので、完売したら手早く撤収しちゃうかも知れません。
日時:2014年6月1日(日)
会場:川崎市産業振興会館
スペース№:[神13]シャリテクロワール
新刊
女神たちのユウウツ
ジャンル:神のみぞ知るセカイ
ページ数:40P
サイズ:A5判
備考:女神&宿主本です。
既刊1
シャロちゃんの休日
発行日:2014年4月29日
イベント名:COMIC1☆8新刊
ジャンル:ご注文はうさぎですか?
イベント価格:500円
総ページ数:43P
備考:シャロこと桐間紗路本
既刊2
HONEY SO SWEETS
発行日:2013年12月29日
イベント名:コミックマーケット85
ジャンル:ご注文はうさぎですか?
イベント価格:500円
総ページ数:48P
サイズ:A5判
備考:オールキャラ本「ココアとチノのスイーツ大会」
諸注意
当日は釣り銭不足が予想されます。お会計はなるべくピッタリでお願いします。
新刊は色々書きたい話があったし、この日記で書いた感想を纏めようか、みたいな話しもした気がしますけど、最終的に女神&宿主本にしました。誰が主役、主人公という構成ではないんだけど、一応私の好みも合って、天理とディアナがメインという意識があります。勿論、女神と宿主は全員出ますので、彼女たちが好きだという方は是非お手に取ってみてください。
それでは短いですが、この辺で。明日はよろしくお願いします。
神のみぞ知るセカイ FLAG268「未来への扉」 再考察
2014年4月24日 神のみぞ知るセカイ コメント (4)
検索等で来られた方は、
先に感想その1&その2&おまけをお読み下さい。
その1→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230057509989/
その2→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230121171653/
おまけ→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404231546152015/
神のみぞ知るセカイの最終回、連載終了、作品完結から一夜明けて、昨日はお疲れ様でした。コミックスの発売がまだあるので気分は早くもそちらの方に傾いているのですが、実はまだ少し語り足りない部分があります。あれだけ書いて、しかも、おまけまで付け足したのに、これ以上なにを追加するんだよ、という感じですが、幾つかの疑問点を整理したくなりまして。
本当は少し時間を置いたほうが良いのかもしれないけど、まあ、まとめておかないと忘れてしまいそうなので、とりあえず書いておくことにします。
感想その1とその2、そしておまけは元々Word上で打ったクソ長い論文みたいな文章を、日記用に編集し、分割投稿してたものですが、今回は少し日記サイトへの直打ちをします。なので、昨日の感想集とは書き方やレイアウトのようなものが違うと思いますけど、その点はご了承ください。むしろ、こっちの方が読みやすいんじゃないかな? 感想論文みたいなあれも、今回書くのと合わせて一纏めにしたいとは考えてるんだけど、なにせまだ最終巻も出てないし、ブログでの解説もあるそうだから、当分は先になる気がします。
さて、そんな私が語り尽くしていない、自分の中で結論が出ていないと思うのは主に3つ。
天理に宛てた手紙と、女神たちの今後、そして桂馬は何故ちひろ選んだのか? という3点になります。新規項目としては、ちひろのことでしょうか? 思えば前回の感想ではちひろの件にはこれといって触れませんでしたが、これは何も私がちひろを嫌いだからとか、興味が無いからというわけではなく、彼女の場合は話の本筋に絡んでいないことと、未来が桂馬と同じく明確すぎるので、特に書くことがなかったというのが本当のところです。まあ、興味や関心がないってのも嘘じゃないんだけど。
ちひろに関して言えば、ちひろはまあ、幸せになったんだからそれでいいじゃないと、そこで話を済ませることが出来てしまうんですよね。天理を筆頭に話が終わっていないキャラの方が多いから、そっちの今後にばかり気が向いてしまう。なにせ、彼女たちは語られることはあっても、描かれることはないと分かっていますから、それだけに思い入れも強くなる。
では、再考察に入るわけですが、まず最初は天理に宛てた手紙について。
これの何が気になっているかというと、やはり最後の一文が何通目の手紙に書かれていたのか、その真実です。私は感想1において心情的な問題と、それ以外の理由からも、あの酷薄とした文章は2通目に書かれたのではないかと思いました。そうでないとおかしいというよりは、そうであって欲しいという結論付けでしたが、改めて考えを巡らせてみると、3通目でも成立させることは可能なんじゃないかと気付きまして。
あの手紙が2通目でないかもしれない理由の一つは、なんといっても漢字で書かれているところです。桂馬は天理に宛てた3通の手紙の内、小学生天理が読むことになる1通目と2通目は、ほぼ漢字を使っていません。それに引き換え、あの手紙は確認事項等、漢字を多用しています。
そして歩美から手紙を読ませた際に隠した部分、それがこの一文だったとするなら、あの手紙の内容からして3通目である可能性は高い。となれば、やはりあの一文が書かれているのは1通目や2通目でなく、3通目なのか? しかし、そうなると桂馬の心情がよく分からない。3通目は天理と自分が再会したときに読んで欲しいと言っていた。天理のことだ、きちんと言いつけを守っていたことだろう。言いつけを守り、桂馬と再会するその日まで、手紙を封印していたはずです。
ここで問題になってくるのは、桂馬自身は天理と自分が再会したシチュエーション及び、その後の関係を知っているというところです。ノーラとの間に一騒動あったことも、芝居ではあるがキスしたことも知っている。そんな経験をした天理に対し、いきなりエンディングがないことを、手紙とはいえ告げることが出来るだろうか? 天理が10年間、桂馬への想いや恋頃でルートを歩んできたのだとすれば、手紙にそんなことが書いってあった日には、その場で心が砕け散ってディアナが永遠に力を失ったかもしれない。そんな危険を、桂馬が敢えて選択するのか?
しかし、もし順序が逆であるのなら? 桂馬の確認事項が、以前伝えたことがある言葉に対するものだとしたら? 話は大きく変わってきます。
――ボクらは全てが終わったら、別々のルートを歩いて行くんだ。
これは最終回で天理が回想した、子供桂馬から発せられた言葉です。勿論、中身は10年後の高校生桂馬な訳ですが、この姿が天理のイメージ映像などではなく、初恋にしてもっとも印象残っていた桂馬の姿だからとかではなく、実際に言われた時のものだとすれば? 桂馬が学校か、あるいは洞窟の中でもいいから、上記の台詞を天理に告げていたのだとすれば……一連の疑問に対する説明は付くんだよね。
手紙の一文が先に出てきたから錯覚しがちですが、もし桂馬が予め自分と天理に同じルートが存在しないことを教えていたのだとすれば、あの手紙に書いてある確認事項という言葉も理解できます。桂馬は文字通り、確認したんですよ。
10年前も言ったと思うが、ボクとお前との間にルートはないという意味で、あの文章書いたんです。これならあの酷い一文が3通目目でも成立しますし、桂馬の感覚としては一度伝えたことの再確認に過ぎません。それはそれで人としてどうなんだと思いますが、確認事項という情を感じさせない言葉を使ってしまったのも、本当に確認しただけなのだとすれば、納得はできなくても理解は出来てしまうのです。
無論、それによって桂馬が許されるのか、認められるのかは別問題でしょう。彼のやり方に情が欠けているのは事実ですし、その点は否定できるものではありません。
ただ、上記の用に手紙を結論づけたとき、そこからまた新たな疑問が生まれてきます。即ち、天理は一体どのタイミングで手紙を読んだのか? 2通目ではなく3通目なら、天理はいつ手紙を読むことが出来たのか。それが問題になってきます。
手紙なんて別にいつでも読めると言われそうですが、桂馬と再会した時点で、天理の中には女神ディアナが宿っています。彼女は天理と意識を共有させており、その視線や目線は天理と同じであると推測されます。勿論、鏡など自分を映し出せるなにかを用いることで、客観的、多角的な視線を得ることは可能ですが、基本的に天理が見たものは、全てディアナにも見えている、と考えるべきでしょう。
メリクリウスを見れば分かるように、女神にも睡眠という概念はあるらしいから、ディアナが眠っているときにこっそりと読んだ、という可能性は否定できません。しかし、天理のことを常に気に掛けているディアナが、天理より先に眠ったりするものでしょうか? 天理にはディアナが喋らないからといって、本当に眠っているかどうかは分かりませんし、内容が内容です。愛情の変化に機敏な女神が心の動揺を察知できないとは思いにくいし、天理が隠し通せたとも思えない。
これが2通目だったのなら、ディアナは自分の知らない情報、記憶を共有することは出来ませんから、天理が黙ってさえいれば、ディアナは手紙の内容を知ることが出来ません。現にディアナは、愛情とは違うところにある、天理の考えていることまでは分かりませんでしたからね。しかし、3通目であるのなら、ディアナが気付かないはずはないと思うのだけど……あるいは手品で培った高等技術を使ったのかもしれませんが、それにしたってあの内容だからなぁ。
ディアナが手紙の内容を把握したのは、女神会議での発言を忘れれば女神篇だとは思います。今後のことを話し合う中で、天理は僅かな可能性に、ほんの少しの夢に希望を見出していると語ったのかもしれません。そんな彼女の直向きさにディアナは心を打たれたのかもしれないし、天理が挑んだある種の賭けに、ディアナも乗っかったのではないか。
天理にとってディアナが大切な友達なら、ディアナにとっても天理は大事な存在です。宿主だからとか、そんな理由ではない、もっと強い絆が二人にはある。
結論が出たのかどうかは分かりませんが、手紙の件については以上です。3通目でも大丈夫なのではないかと、いや、内容的には全然大丈夫じゃないのだけど、自分の中で一つの答えをだすことは出来たから、この件に関しては解説が来るのを待つことにしましょう。
次に取り上げるのは、女神たちの今後について。
女神は未だいるのか、それとも既にいないのかという話は前回の感想で散々しましたけど、そもそも女神って行く宛はあるんですかね? ディアナが言うところによると、彼女たちは元々古代の天界の王であるユピテルの血筋を引く王族のようなものだったそうです。まあ、有り体に言えばお姫様という奴で、アポロがご先祖様も~とか言ってるのはこの為ですね。王族の中で霊力の高かった姉妹たちが志願し、古悪魔を封印したというのが、アルマゲマキナ終結の直接的な要因でした。
「ユピテルの姉妹…地獄の地に殉じた人柱……」
女神たちはその高い霊力を用い、自らを犠牲にして古悪魔たちを封じ込みました。そして、ディアナ以外は人間の宿主たちの中で目覚めるまで、長い年月を要することになります。それはそれで仕方ないのですが、では何故、女神たちが覚醒して以降、天界はこれを保護するための行動に移らなかったのでしょうか? 女神篇でアポロがフィオーレに、アニメではリューネでしたが、これに敗れたとき、彼女が空高く警告サインを出していました。他の姉妹に充てたものではありますが、天界がこれを把握していなかったとは思えないし、把握していたのなら、すぐに女神救出のために動いても良いはずです。
ディアナは霊力に自信があったから女神になったといいます。ましてや元々が王族であるならば、天界での地位も相当だったはずです。しかし、いえ、地位が高いからこそ、彼女たちの存在が忌避されているのだとすれば?
確かに旧地獄と古悪魔の暴走、そして戦争への対抗手段として女神の力は必須だったでしょう。けれど、一度戦争が終わればどうでしょうか? 古悪魔たちを封印し、眠りについた女神たち。眠っている分にはいくらでも功績をたたえ、人柱として殉じたその伝説を語り継ぎますけど、それがもし復活してしまったら? 古悪魔たちを一網打尽に出来る実力と、地獄の兵器をも寄せ付けない最強の存在が覚醒したとき、天界の、特に権力構造の上にいる連中はどう感じたでしょうか? 果たして、女神たちを歓呼の嵐で呼び戻すことが出来たのか。
天界に政治構造や権力構造が存在し、それが地獄と大差ないものなのだとすれば、復活した女神の力は明らかに脅威です。ましてや王族と言った権力闘争の見本みたいなものが存在しているのなら、現在天界で支配体制を築いている側からすれば、女神はそれを一撃で崩されかねない存在と言っていいでしょう。女神たちにその気があるかないかではなく、この場合は出来るか出来ないかであり、女神たちにはそれをするだけの力が確かにあった。
女神篇における天界の腰の重さは、世界に平和をもたらした女神たちに対するものとしては、物足りないどころの騒ぎではありませんでした。あるいは天界には人間界や地獄に干渉できない法則でもあるのかもしれませんが、女神たちがアルマゲマキナに終止符を打った時点で、それはあり得ないでしょう。となれば、天界は意図的に今回の事件を見逃していた可能性が高い。
あるいは天界には女神を救い出すだけの余力がないのかもしれませんが……三界において天界だけが疲弊している理由が分かりませんし、地獄だって焦土から一応の復興は遂げているのです。同じく300年以上の時間はあったはずの天界が、一方的に衰弱しているというのはどうにも考えづらい。であるとすれば、仮に女神が宿主の体から離れたとしても天界には帰れない、もしくは居場所がないということもあるかもしれません。
まあ、そうなったときは地上で宿主と宜しくやっていれば良いような気もしますけど、やはり女神たちの今後が気になるところです。
それでは最後に、桂馬は何故ちひろを選んだのか? という話。
この件に関しては桂馬がいつちひろを好きになったのか分かりにくい、という話がありますけど、私は別にその点はどうでもいいと思ってます。天理の発言から推測するに女神篇じゃないかな、と予想はしていますけど、別に攻略時でも構いませんし、時期は大した問題じゃないんですよ。
問題は何故ちひろだったのか? 天理や宿主、エルシィやハクア、その他攻略女子ではなくちひろでなければならなかったのか。作品的な都合とか、そういうのではなくて、桂馬はなどうしてちひろを好きになったのか、その理由ですね。
好きなことに理由がなければいけないのかと言われるかもしれませんが、では逆に、どうして天理や宿主たちが選ばれなかったのか、それを考えることによって、自然とちひろに対する答えも出てくるのではないでしょうか?
何故、桂馬はちひろに恋することが出来たのに、天理や他の宿主ではダメだったのか? 天理については、感想でも書いたとおりです。では、他の娘は? 歩美やかのん、栞や月夜、結の場合はどうしてダメだったんでしょうか? 彼女たちは桂馬も評したようにそれぞれの分野で才覚ある、個性豊かでとても魅力的な少女たちです。こんな子を彼女に出来ればどんなに良いかとは、誰もが思うことでしょう。
しかし、まさにそんな彼女たちの魅力が原因だとしたら?
桂馬は確かに優れたプレイヤーです。落とし神と呼ばれ、自身もそう名乗っているだけあって、攻略対象の望む主人公に彼はなることが出来る。それが最も顕著だったのはスミレ編で、彼女を攻略した際は家業であるラーメン屋のバイトになるという、かなり本人の事情に反ったキャラクターへと自分を変えています。また、二人目の攻略ヒロインである、美生のときも社長令嬢を続けたい彼女の意志に沿い、付き人のようなキャラになりましたね。又、榛原七香を攻略したときも、彼女の心の隙間が出来た原因である将棋に着目し、自らが将棋指しになりました。
このように、桂馬は基本的に攻略女子の悩み、心の隙間に嵌まるよう自分自身を自由自在に変えることが出来るんです。ラーメン屋のバイトも出来れば、社長令嬢の付き人にも慣れて、将棋だって指せる。でも、そのすべてが本当の桂木桂馬ではありません。本物の桂木桂馬ではあるけど、本当の彼自身ではないんです。
そして素の桂木桂馬は、果たして魅力あるヒロインたちと釣り合う少年でしょうか? 確かに桂馬は何事もそつなくこなせるし、運動はともかく勉強だって出来ます。しかし、彼は基本的にギャルゲー廃人ですし、ギャルゲー以外にはこれといった能が無い。魅力あるヒロインたちに匹敵するだけのものを、普段の彼は持ってないんです。
別にラーメン好きじゃなくてもラーメン屋の一人娘とは付き合えるし、将棋が趣味じゃなくても、将棋指しと付き合うことは可能でしょう。しかし、桂馬の恋愛観はギャルゲー基準ですから、彼氏たるプレイヤーは常に相手の望む姿でいなければいけないはず。
桂馬にはそれが出来る。出来るけど……それは対等な関係じゃありません。
ちひろと他ヒロインの違いはそこであり、彼女が「攻略されていない」と言われる所以でもあるんですね。女神篇でのちひろは確かに攻略時の記憶を持っていませんでした。しかし、そもそも桂馬はちひろを攻略したことなどあったでしょうか? 所謂、ちひろ編、桂馬はちひろを、彼女の想い人と思われたイケメンとくっつけるために奔走し、彼女自身を攻略しようとはしませんでした。
けれど、ちひろは桂馬と交流を重ねるうち、段々と彼に惹かれていき、最終的には彼のことを好きになります。故にちひろは、ただの一度だって桂馬に攻略はされてないし、桂馬自身、ちひろのためのなにかだったことがないないんですよね。彼はちひろのためのイケメン男子を演じた訳でもないし、始終落とし神としての自分しか見せていない。なのに、ちひろは彼に惹かれ、恋をした。
だから、桂馬とちひろは対等だった。
勿論、攻略をしていないキャラはちひろに限った話ではありません。
妹のエルシィを除けば、天理にディアナ、そしてハクアが該当します。ドクロウは攻略したも同じですから省きますが、少なくともちひろの他に3人が、攻略とは関係なく桂馬に惹かれ、彼を愛していた訳です。
では、彼女たちと桂馬は対等な関係ではないのか? ディアナは確かに女神だし、ハクアも悪魔です。しかし、それは人種の違いみたいなもので、決定的な差にはなりません。仮にこれが問題になるのだとしても、天理は女神を宿している以外は普通の女の子ですからね。ちょっと桂馬に対する観察眼と洞察力が凄いだけで。
攻略していないのなら条件は同じだし、一見するとなんの問題もないように思える。けれど、そこには明確な、決定的な違いが存在しました。
「だから、好きになったんだろう?」
二階堂が言ったこの台詞。ちひろは桂馬の言うとおりにしない。だからこそ、桂馬はちひろを好きになった。受け入れるだけでは、そこには何も生まれない。天理のときに書いたと思いますが、ディアナにしろ、ハクアにせよ、彼女たちは基本的に桂馬を受け入れる側の存在なんです。彼の態度に不平不満を覚えることはあっても、その知力や行動力を信頼している面があり、桂馬の考えや行いに反することはないんですよね。配慮のない性格や、ラッキースケベに怒ることはあっても、大きな部分で彼を否定することがない。
多分、桂馬にはそれが物足りない。
桂馬が自分の思い通りにならない存在に惹かれるなら、天理は勿論、ディアナやハクアであっても、彼に刺激を与える存在にはなり得ないんですよ。だからこそ、桂馬はちひろに惹かれてしまう。そしてもっと言えば、彼にとってちひろは未知の存在なんです。
女神篇のアニメ、第1話で桂馬はこんなことを言ってました。
「下級生、ラーメン屋、幽霊、将棋指し、姉キャラ等々……リアルで攻略した女子たちについては最早迷う気がしない!」
これは主にアニメ2期と女神篇の間に飛ばされたヒロインたちについての解説だが、逆に言えばこれは、こういったヒロインがギャルゲーには珍しくないとも言える。桂馬はみなみを攻略する際、かなり詳細なパターンを持って正確に攻略して見せました。月夜のときなどにあったような、失敗が存在しない。
無論、桂馬がリアルでの攻略に手慣れてきたというのもあるでしょうが、それ以上に後輩キャラそのものの攻略法を熟知していたのだと思います。エルシィに色々語っていたりもしましたからね。だから、あんなにもあっさり、綺麗に攻略を済ませることが出来た。
他所の失敗はあれど、桂馬にとって攻略ヒロインたちは既知の存在でしかなかった。だから、ギャルゲー理論を応用しての攻略が可能だったのです。それは宿主だって同じことで、彼女たちは桂馬にとって未知の存在ではなかったから。
でも、ちひろは違います。桂馬はちひろ編の際、彼女をモブキャラだと言いました。ヒロインでもサブキャラでもなく、単なるモブキャラ。ゲームでは顔グラフィックもないような、攻略対象には絶対ならない相手。
そして桂馬には、当然モブキャラなど攻略したことはなかった。だからこそ、彼はちひろ編において変則的な方法を取らざるを得なかったのです。
未知の存在は、人にとっての好奇心を煽ります。
言ってしまえば、桂馬にとってちひろは宇宙人やUMAみたいなものなんでしょう。
分からないからこそ知りたい、知らないからこそ惹かれる。桂馬にとって、ちひろは自分自身に強い刺激を与えて来るのだと思います。
天理やディアナ、そしてハクアから得られない刺激を、ちひろだけは持っていた。
これが桂馬の、ちひろに惹かれた理由ではないかな。どうして他の攻略女子ではダメなのかも、一応の説明もつきます。彼は自分をさらけ出し、対等でありながらも反発し合える関係を望んでいた。彼が欲したのは、既知でなく未知だった。それが、天理に届かなかったものの正体でしょう。
ただ、桂馬が本当に刺激を求める意味でちひろに惚れているのなら、その関係は意外に早く終わってしまうかも知れない。というのも刺激って言うのはね、慣れるんですよ。慣れるとね、飽きちゃうんだよ。かつて小松左京がショートショートで、刺激のなくなった近未来というのを書いていました。あらゆる娯楽、快楽が発達した世界において、並大抵のことは人々の心も体も刺激しなくなってしまったという話です。酒にも麻薬にも、そしてセックスにも飽きた若者たちは、自分の体に直接電流を流して刺激を味わうようになるんですが、年齢が上の大人たちが取った行動は違うもの。
刺激に慣れ、飽き果てた彼らが次に求めたのは……癒やしだった。
そう考えたとき、まだ天理には少しぐらいチャンスもあるんじゃ無いかなと思えるようになった。つまり、桂馬の女の趣味嗜好が変わるようなことがあったら、そのとき彼と対等なのは天理だけだろうしね。まあ、そんな機会があればの話だけど。
勿論、他の宿主だって可能性が皆無な訳ではありません。月夜は自分にとっての桂木桂馬という存在ではなく、本当の彼を知ろうと、歩み寄ろうとしていました。だからまあ、諦める必要なんてないんですよ。理不尽なリアルでも、未来は等しく訪れるんだから。
先に感想その1&その2&おまけをお読み下さい。
その1→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230057509989/
その2→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230121171653/
おまけ→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404231546152015/
神のみぞ知るセカイの最終回、連載終了、作品完結から一夜明けて、昨日はお疲れ様でした。コミックスの発売がまだあるので気分は早くもそちらの方に傾いているのですが、実はまだ少し語り足りない部分があります。あれだけ書いて、しかも、おまけまで付け足したのに、これ以上なにを追加するんだよ、という感じですが、幾つかの疑問点を整理したくなりまして。
本当は少し時間を置いたほうが良いのかもしれないけど、まあ、まとめておかないと忘れてしまいそうなので、とりあえず書いておくことにします。
感想その1とその2、そしておまけは元々Word上で打ったクソ長い論文みたいな文章を、日記用に編集し、分割投稿してたものですが、今回は少し日記サイトへの直打ちをします。なので、昨日の感想集とは書き方やレイアウトのようなものが違うと思いますけど、その点はご了承ください。むしろ、こっちの方が読みやすいんじゃないかな? 感想論文みたいなあれも、今回書くのと合わせて一纏めにしたいとは考えてるんだけど、なにせまだ最終巻も出てないし、ブログでの解説もあるそうだから、当分は先になる気がします。
さて、そんな私が語り尽くしていない、自分の中で結論が出ていないと思うのは主に3つ。
天理に宛てた手紙と、女神たちの今後、そして桂馬は何故ちひろ選んだのか? という3点になります。新規項目としては、ちひろのことでしょうか? 思えば前回の感想ではちひろの件にはこれといって触れませんでしたが、これは何も私がちひろを嫌いだからとか、興味が無いからというわけではなく、彼女の場合は話の本筋に絡んでいないことと、未来が桂馬と同じく明確すぎるので、特に書くことがなかったというのが本当のところです。まあ、興味や関心がないってのも嘘じゃないんだけど。
ちひろに関して言えば、ちひろはまあ、幸せになったんだからそれでいいじゃないと、そこで話を済ませることが出来てしまうんですよね。天理を筆頭に話が終わっていないキャラの方が多いから、そっちの今後にばかり気が向いてしまう。なにせ、彼女たちは語られることはあっても、描かれることはないと分かっていますから、それだけに思い入れも強くなる。
では、再考察に入るわけですが、まず最初は天理に宛てた手紙について。
これの何が気になっているかというと、やはり最後の一文が何通目の手紙に書かれていたのか、その真実です。私は感想1において心情的な問題と、それ以外の理由からも、あの酷薄とした文章は2通目に書かれたのではないかと思いました。そうでないとおかしいというよりは、そうであって欲しいという結論付けでしたが、改めて考えを巡らせてみると、3通目でも成立させることは可能なんじゃないかと気付きまして。
あの手紙が2通目でないかもしれない理由の一つは、なんといっても漢字で書かれているところです。桂馬は天理に宛てた3通の手紙の内、小学生天理が読むことになる1通目と2通目は、ほぼ漢字を使っていません。それに引き換え、あの手紙は確認事項等、漢字を多用しています。
そして歩美から手紙を読ませた際に隠した部分、それがこの一文だったとするなら、あの手紙の内容からして3通目である可能性は高い。となれば、やはりあの一文が書かれているのは1通目や2通目でなく、3通目なのか? しかし、そうなると桂馬の心情がよく分からない。3通目は天理と自分が再会したときに読んで欲しいと言っていた。天理のことだ、きちんと言いつけを守っていたことだろう。言いつけを守り、桂馬と再会するその日まで、手紙を封印していたはずです。
ここで問題になってくるのは、桂馬自身は天理と自分が再会したシチュエーション及び、その後の関係を知っているというところです。ノーラとの間に一騒動あったことも、芝居ではあるがキスしたことも知っている。そんな経験をした天理に対し、いきなりエンディングがないことを、手紙とはいえ告げることが出来るだろうか? 天理が10年間、桂馬への想いや恋頃でルートを歩んできたのだとすれば、手紙にそんなことが書いってあった日には、その場で心が砕け散ってディアナが永遠に力を失ったかもしれない。そんな危険を、桂馬が敢えて選択するのか?
しかし、もし順序が逆であるのなら? 桂馬の確認事項が、以前伝えたことがある言葉に対するものだとしたら? 話は大きく変わってきます。
――ボクらは全てが終わったら、別々のルートを歩いて行くんだ。
これは最終回で天理が回想した、子供桂馬から発せられた言葉です。勿論、中身は10年後の高校生桂馬な訳ですが、この姿が天理のイメージ映像などではなく、初恋にしてもっとも印象残っていた桂馬の姿だからとかではなく、実際に言われた時のものだとすれば? 桂馬が学校か、あるいは洞窟の中でもいいから、上記の台詞を天理に告げていたのだとすれば……一連の疑問に対する説明は付くんだよね。
手紙の一文が先に出てきたから錯覚しがちですが、もし桂馬が予め自分と天理に同じルートが存在しないことを教えていたのだとすれば、あの手紙に書いてある確認事項という言葉も理解できます。桂馬は文字通り、確認したんですよ。
10年前も言ったと思うが、ボクとお前との間にルートはないという意味で、あの文章書いたんです。これならあの酷い一文が3通目目でも成立しますし、桂馬の感覚としては一度伝えたことの再確認に過ぎません。それはそれで人としてどうなんだと思いますが、確認事項という情を感じさせない言葉を使ってしまったのも、本当に確認しただけなのだとすれば、納得はできなくても理解は出来てしまうのです。
無論、それによって桂馬が許されるのか、認められるのかは別問題でしょう。彼のやり方に情が欠けているのは事実ですし、その点は否定できるものではありません。
ただ、上記の用に手紙を結論づけたとき、そこからまた新たな疑問が生まれてきます。即ち、天理は一体どのタイミングで手紙を読んだのか? 2通目ではなく3通目なら、天理はいつ手紙を読むことが出来たのか。それが問題になってきます。
手紙なんて別にいつでも読めると言われそうですが、桂馬と再会した時点で、天理の中には女神ディアナが宿っています。彼女は天理と意識を共有させており、その視線や目線は天理と同じであると推測されます。勿論、鏡など自分を映し出せるなにかを用いることで、客観的、多角的な視線を得ることは可能ですが、基本的に天理が見たものは、全てディアナにも見えている、と考えるべきでしょう。
メリクリウスを見れば分かるように、女神にも睡眠という概念はあるらしいから、ディアナが眠っているときにこっそりと読んだ、という可能性は否定できません。しかし、天理のことを常に気に掛けているディアナが、天理より先に眠ったりするものでしょうか? 天理にはディアナが喋らないからといって、本当に眠っているかどうかは分かりませんし、内容が内容です。愛情の変化に機敏な女神が心の動揺を察知できないとは思いにくいし、天理が隠し通せたとも思えない。
これが2通目だったのなら、ディアナは自分の知らない情報、記憶を共有することは出来ませんから、天理が黙ってさえいれば、ディアナは手紙の内容を知ることが出来ません。現にディアナは、愛情とは違うところにある、天理の考えていることまでは分かりませんでしたからね。しかし、3通目であるのなら、ディアナが気付かないはずはないと思うのだけど……あるいは手品で培った高等技術を使ったのかもしれませんが、それにしたってあの内容だからなぁ。
ディアナが手紙の内容を把握したのは、女神会議での発言を忘れれば女神篇だとは思います。今後のことを話し合う中で、天理は僅かな可能性に、ほんの少しの夢に希望を見出していると語ったのかもしれません。そんな彼女の直向きさにディアナは心を打たれたのかもしれないし、天理が挑んだある種の賭けに、ディアナも乗っかったのではないか。
天理にとってディアナが大切な友達なら、ディアナにとっても天理は大事な存在です。宿主だからとか、そんな理由ではない、もっと強い絆が二人にはある。
結論が出たのかどうかは分かりませんが、手紙の件については以上です。3通目でも大丈夫なのではないかと、いや、内容的には全然大丈夫じゃないのだけど、自分の中で一つの答えをだすことは出来たから、この件に関しては解説が来るのを待つことにしましょう。
次に取り上げるのは、女神たちの今後について。
女神は未だいるのか、それとも既にいないのかという話は前回の感想で散々しましたけど、そもそも女神って行く宛はあるんですかね? ディアナが言うところによると、彼女たちは元々古代の天界の王であるユピテルの血筋を引く王族のようなものだったそうです。まあ、有り体に言えばお姫様という奴で、アポロがご先祖様も~とか言ってるのはこの為ですね。王族の中で霊力の高かった姉妹たちが志願し、古悪魔を封印したというのが、アルマゲマキナ終結の直接的な要因でした。
「ユピテルの姉妹…地獄の地に殉じた人柱……」
女神たちはその高い霊力を用い、自らを犠牲にして古悪魔たちを封じ込みました。そして、ディアナ以外は人間の宿主たちの中で目覚めるまで、長い年月を要することになります。それはそれで仕方ないのですが、では何故、女神たちが覚醒して以降、天界はこれを保護するための行動に移らなかったのでしょうか? 女神篇でアポロがフィオーレに、アニメではリューネでしたが、これに敗れたとき、彼女が空高く警告サインを出していました。他の姉妹に充てたものではありますが、天界がこれを把握していなかったとは思えないし、把握していたのなら、すぐに女神救出のために動いても良いはずです。
ディアナは霊力に自信があったから女神になったといいます。ましてや元々が王族であるならば、天界での地位も相当だったはずです。しかし、いえ、地位が高いからこそ、彼女たちの存在が忌避されているのだとすれば?
確かに旧地獄と古悪魔の暴走、そして戦争への対抗手段として女神の力は必須だったでしょう。けれど、一度戦争が終わればどうでしょうか? 古悪魔たちを封印し、眠りについた女神たち。眠っている分にはいくらでも功績をたたえ、人柱として殉じたその伝説を語り継ぎますけど、それがもし復活してしまったら? 古悪魔たちを一網打尽に出来る実力と、地獄の兵器をも寄せ付けない最強の存在が覚醒したとき、天界の、特に権力構造の上にいる連中はどう感じたでしょうか? 果たして、女神たちを歓呼の嵐で呼び戻すことが出来たのか。
天界に政治構造や権力構造が存在し、それが地獄と大差ないものなのだとすれば、復活した女神の力は明らかに脅威です。ましてや王族と言った権力闘争の見本みたいなものが存在しているのなら、現在天界で支配体制を築いている側からすれば、女神はそれを一撃で崩されかねない存在と言っていいでしょう。女神たちにその気があるかないかではなく、この場合は出来るか出来ないかであり、女神たちにはそれをするだけの力が確かにあった。
女神篇における天界の腰の重さは、世界に平和をもたらした女神たちに対するものとしては、物足りないどころの騒ぎではありませんでした。あるいは天界には人間界や地獄に干渉できない法則でもあるのかもしれませんが、女神たちがアルマゲマキナに終止符を打った時点で、それはあり得ないでしょう。となれば、天界は意図的に今回の事件を見逃していた可能性が高い。
あるいは天界には女神を救い出すだけの余力がないのかもしれませんが……三界において天界だけが疲弊している理由が分かりませんし、地獄だって焦土から一応の復興は遂げているのです。同じく300年以上の時間はあったはずの天界が、一方的に衰弱しているというのはどうにも考えづらい。であるとすれば、仮に女神が宿主の体から離れたとしても天界には帰れない、もしくは居場所がないということもあるかもしれません。
まあ、そうなったときは地上で宿主と宜しくやっていれば良いような気もしますけど、やはり女神たちの今後が気になるところです。
それでは最後に、桂馬は何故ちひろを選んだのか? という話。
この件に関しては桂馬がいつちひろを好きになったのか分かりにくい、という話がありますけど、私は別にその点はどうでもいいと思ってます。天理の発言から推測するに女神篇じゃないかな、と予想はしていますけど、別に攻略時でも構いませんし、時期は大した問題じゃないんですよ。
問題は何故ちひろだったのか? 天理や宿主、エルシィやハクア、その他攻略女子ではなくちひろでなければならなかったのか。作品的な都合とか、そういうのではなくて、桂馬はなどうしてちひろを好きになったのか、その理由ですね。
好きなことに理由がなければいけないのかと言われるかもしれませんが、では逆に、どうして天理や宿主たちが選ばれなかったのか、それを考えることによって、自然とちひろに対する答えも出てくるのではないでしょうか?
何故、桂馬はちひろに恋することが出来たのに、天理や他の宿主ではダメだったのか? 天理については、感想でも書いたとおりです。では、他の娘は? 歩美やかのん、栞や月夜、結の場合はどうしてダメだったんでしょうか? 彼女たちは桂馬も評したようにそれぞれの分野で才覚ある、個性豊かでとても魅力的な少女たちです。こんな子を彼女に出来ればどんなに良いかとは、誰もが思うことでしょう。
しかし、まさにそんな彼女たちの魅力が原因だとしたら?
桂馬は確かに優れたプレイヤーです。落とし神と呼ばれ、自身もそう名乗っているだけあって、攻略対象の望む主人公に彼はなることが出来る。それが最も顕著だったのはスミレ編で、彼女を攻略した際は家業であるラーメン屋のバイトになるという、かなり本人の事情に反ったキャラクターへと自分を変えています。また、二人目の攻略ヒロインである、美生のときも社長令嬢を続けたい彼女の意志に沿い、付き人のようなキャラになりましたね。又、榛原七香を攻略したときも、彼女の心の隙間が出来た原因である将棋に着目し、自らが将棋指しになりました。
このように、桂馬は基本的に攻略女子の悩み、心の隙間に嵌まるよう自分自身を自由自在に変えることが出来るんです。ラーメン屋のバイトも出来れば、社長令嬢の付き人にも慣れて、将棋だって指せる。でも、そのすべてが本当の桂木桂馬ではありません。本物の桂木桂馬ではあるけど、本当の彼自身ではないんです。
そして素の桂木桂馬は、果たして魅力あるヒロインたちと釣り合う少年でしょうか? 確かに桂馬は何事もそつなくこなせるし、運動はともかく勉強だって出来ます。しかし、彼は基本的にギャルゲー廃人ですし、ギャルゲー以外にはこれといった能が無い。魅力あるヒロインたちに匹敵するだけのものを、普段の彼は持ってないんです。
別にラーメン好きじゃなくてもラーメン屋の一人娘とは付き合えるし、将棋が趣味じゃなくても、将棋指しと付き合うことは可能でしょう。しかし、桂馬の恋愛観はギャルゲー基準ですから、彼氏たるプレイヤーは常に相手の望む姿でいなければいけないはず。
桂馬にはそれが出来る。出来るけど……それは対等な関係じゃありません。
ちひろと他ヒロインの違いはそこであり、彼女が「攻略されていない」と言われる所以でもあるんですね。女神篇でのちひろは確かに攻略時の記憶を持っていませんでした。しかし、そもそも桂馬はちひろを攻略したことなどあったでしょうか? 所謂、ちひろ編、桂馬はちひろを、彼女の想い人と思われたイケメンとくっつけるために奔走し、彼女自身を攻略しようとはしませんでした。
けれど、ちひろは桂馬と交流を重ねるうち、段々と彼に惹かれていき、最終的には彼のことを好きになります。故にちひろは、ただの一度だって桂馬に攻略はされてないし、桂馬自身、ちひろのためのなにかだったことがないないんですよね。彼はちひろのためのイケメン男子を演じた訳でもないし、始終落とし神としての自分しか見せていない。なのに、ちひろは彼に惹かれ、恋をした。
だから、桂馬とちひろは対等だった。
勿論、攻略をしていないキャラはちひろに限った話ではありません。
妹のエルシィを除けば、天理にディアナ、そしてハクアが該当します。ドクロウは攻略したも同じですから省きますが、少なくともちひろの他に3人が、攻略とは関係なく桂馬に惹かれ、彼を愛していた訳です。
では、彼女たちと桂馬は対等な関係ではないのか? ディアナは確かに女神だし、ハクアも悪魔です。しかし、それは人種の違いみたいなもので、決定的な差にはなりません。仮にこれが問題になるのだとしても、天理は女神を宿している以外は普通の女の子ですからね。ちょっと桂馬に対する観察眼と洞察力が凄いだけで。
攻略していないのなら条件は同じだし、一見するとなんの問題もないように思える。けれど、そこには明確な、決定的な違いが存在しました。
「だから、好きになったんだろう?」
二階堂が言ったこの台詞。ちひろは桂馬の言うとおりにしない。だからこそ、桂馬はちひろを好きになった。受け入れるだけでは、そこには何も生まれない。天理のときに書いたと思いますが、ディアナにしろ、ハクアにせよ、彼女たちは基本的に桂馬を受け入れる側の存在なんです。彼の態度に不平不満を覚えることはあっても、その知力や行動力を信頼している面があり、桂馬の考えや行いに反することはないんですよね。配慮のない性格や、ラッキースケベに怒ることはあっても、大きな部分で彼を否定することがない。
多分、桂馬にはそれが物足りない。
桂馬が自分の思い通りにならない存在に惹かれるなら、天理は勿論、ディアナやハクアであっても、彼に刺激を与える存在にはなり得ないんですよ。だからこそ、桂馬はちひろに惹かれてしまう。そしてもっと言えば、彼にとってちひろは未知の存在なんです。
女神篇のアニメ、第1話で桂馬はこんなことを言ってました。
「下級生、ラーメン屋、幽霊、将棋指し、姉キャラ等々……リアルで攻略した女子たちについては最早迷う気がしない!」
これは主にアニメ2期と女神篇の間に飛ばされたヒロインたちについての解説だが、逆に言えばこれは、こういったヒロインがギャルゲーには珍しくないとも言える。桂馬はみなみを攻略する際、かなり詳細なパターンを持って正確に攻略して見せました。月夜のときなどにあったような、失敗が存在しない。
無論、桂馬がリアルでの攻略に手慣れてきたというのもあるでしょうが、それ以上に後輩キャラそのものの攻略法を熟知していたのだと思います。エルシィに色々語っていたりもしましたからね。だから、あんなにもあっさり、綺麗に攻略を済ませることが出来た。
他所の失敗はあれど、桂馬にとって攻略ヒロインたちは既知の存在でしかなかった。だから、ギャルゲー理論を応用しての攻略が可能だったのです。それは宿主だって同じことで、彼女たちは桂馬にとって未知の存在ではなかったから。
でも、ちひろは違います。桂馬はちひろ編の際、彼女をモブキャラだと言いました。ヒロインでもサブキャラでもなく、単なるモブキャラ。ゲームでは顔グラフィックもないような、攻略対象には絶対ならない相手。
そして桂馬には、当然モブキャラなど攻略したことはなかった。だからこそ、彼はちひろ編において変則的な方法を取らざるを得なかったのです。
未知の存在は、人にとっての好奇心を煽ります。
言ってしまえば、桂馬にとってちひろは宇宙人やUMAみたいなものなんでしょう。
分からないからこそ知りたい、知らないからこそ惹かれる。桂馬にとって、ちひろは自分自身に強い刺激を与えて来るのだと思います。
天理やディアナ、そしてハクアから得られない刺激を、ちひろだけは持っていた。
これが桂馬の、ちひろに惹かれた理由ではないかな。どうして他の攻略女子ではダメなのかも、一応の説明もつきます。彼は自分をさらけ出し、対等でありながらも反発し合える関係を望んでいた。彼が欲したのは、既知でなく未知だった。それが、天理に届かなかったものの正体でしょう。
ただ、桂馬が本当に刺激を求める意味でちひろに惚れているのなら、その関係は意外に早く終わってしまうかも知れない。というのも刺激って言うのはね、慣れるんですよ。慣れるとね、飽きちゃうんだよ。かつて小松左京がショートショートで、刺激のなくなった近未来というのを書いていました。あらゆる娯楽、快楽が発達した世界において、並大抵のことは人々の心も体も刺激しなくなってしまったという話です。酒にも麻薬にも、そしてセックスにも飽きた若者たちは、自分の体に直接電流を流して刺激を味わうようになるんですが、年齢が上の大人たちが取った行動は違うもの。
刺激に慣れ、飽き果てた彼らが次に求めたのは……癒やしだった。
そう考えたとき、まだ天理には少しぐらいチャンスもあるんじゃ無いかなと思えるようになった。つまり、桂馬の女の趣味嗜好が変わるようなことがあったら、そのとき彼と対等なのは天理だけだろうしね。まあ、そんな機会があればの話だけど。
勿論、他の宿主だって可能性が皆無な訳ではありません。月夜は自分にとっての桂木桂馬という存在ではなく、本当の彼を知ろうと、歩み寄ろうとしていました。だからまあ、諦める必要なんてないんですよ。理不尽なリアルでも、未来は等しく訪れるんだから。
神のみぞ知るセカイ FLAG268「未来への扉」 感想 おまけ
2014年4月23日 神のみぞ知るセカイ コメント (5)
検索等で来られた方は、先に感想その1&その2をお読み下さい。
その1→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230057509989/
その2→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230121171653/
本日、神のみぞ知るセカイが完結し、連載終了となったわけですが、早くも作者である若木民喜先生のブログが更新されましたね。
単行本作業が忙しいようなので簡潔な内容でしたが、所謂積み残しについては、また単行本が発売された時期にブログにポツリポツリと書かれていくそうです。
私が今回の更新で着目したというか、目を引いたのは、若木先生が前回と今回の話を主人公桂木桂馬のために作ったと書かれていたところです。長年主人公を務めてきた彼に対する、一つのお礼であると。
一つ前の感想2で、私は桂馬のやや物足りない対応は作者なりの意趣返しだったのでは? と書きました。しかし、若木先生自身はお礼を言いたいと書かれているわけですから、それは違うことになりますね。
ただ、私は前回と今回……最終回ですが、それが桂馬のために書かれているというのはよく分かっているつもりです。天理とディアナが幕引きをしたとはいえ、作中で完全に物語を終えることが出来たのは彼だけですし、もっと言えば幸せな結末を迎えることが出来たのは彼と、後はエルシィぐらいなものでしょう。
たとえば前回は基本的に桂馬の視点で物語が書かれていますし、まあ、エルシィのエンディング云々はありましたが、やはり、桂馬のベストエンディングと比較すれば、あくまで前座みたいなものです。エルシィが桂馬にとってのエンディングなら、エルシィが妹に、家族になってよかったね、で話が終わるわけですからね。なので、エルシィは桂馬的に自分の目指したベストエンディングの、謂わばおまけみたいなものです。彼自身、エルシィが本当の妹になったことは予期していませんでしたし。
更に言えば、桂木えりとなったエルシィが桂馬に発したこの言葉。
「にーさまは、どうしますか?」
何気ない質問ですが、これはギャルゲでいう所の選択肢出現シーンみたいなものです。
つまり、桂馬がエルシィからこの質問を投げかけられたとき、彼の目の前には選択肢があった。
A.ちひろの家に行く
B.ちひろの家には行かない
あるいはもっと直接的に、ちひろに告白するか否か、だったかもしれません。
現にちひろの家の前で待つ桂馬のゲーム画面には、YESかNOか、ただそれだけの選択肢が映っていましたからね。そしてそれは、桂馬が自分自身の物語を完結させるための選択肢でもあった。
そう考えると、作品を締めくくったのは確かに天理とディアナですが、最終回そのものが彼女たちのために用意されていたわけではありません。だって、天理は泣いて終わっているわけですし、他の宿主にしたって未来は見通すことが出来ても、幸せは掴んでいませんからね。やはり、桂馬のためにあった最終回と考えるのが自然でしょう。
私自身の感想もそうですが、最終回の桂馬は読者目線から言えば、「それってどうなの?」という部分が多々あります。やはり桂馬には天理や宿主と向き合って欲しかったし、その点に関しては今も変わりません。ただ、外部の反響を意識せずに読むと、桂馬の迎えたエンディングはそれなりにスッキリとしています。自分に課せられた使命を果たし、契約を解除し、好きな人とほぼ結ばれたわけですからね。これ以上のハッピーエンドは、まずあり得ないと言っていい。桂馬は最後の最後に自分の幸せと恋を追求し、それを勝ち得たのですから、意趣返しというよりは親心と言った方が、しっくり来るのかもしれません。
しかし、そのための犠牲になったものもある。犠牲という表現が必ずしも正しいか分からないので、ここは作者に習って積み残しと書いてみますが、とりあえず桂馬の話を終わらせたことを優先したため、最終回では描ききれなかった箇所が結構あるという訳です。勿論、それが宿主や天理とのあれこれとは限りませんし、単純に未回収の伏線を指しているのかもしれません。作者自身もブログに書いてますが、たとえば過去篇の最初で桂馬とちび桂馬が出会ってるシーンは、その後は描かれませんでしたね。感傷的な表情を桂馬がしてましたけど、あれは結局なんだったのでしょう。
それに、昨日の考察で推論立てたディアナの翼。あれだって、本当のところはもっと違う理由で出現したのかもしれません。女神たちの現在だって想像することは出来ても、それが真実に結びつくとは限りませんからね。
こうした積み残しが単行本の加筆で補足されるとは限りません。単行本が出た頃にポツポツと語っていくということは、加筆10Pでは書ききれない可能性があります。少し前のブログをみても、単行本の加筆は最終回のボリュームアップも兼ねているようですし。
前回、ハクアのバディある雪枝さんが、「天気もいいから出かけてこい」みたいなことをハクアとノーラの二人に言ってましたし、散歩にでも出かけたら桂馬かえりにバッタリ、なんてイベントが待っているかもしれません。そういえば、ハクアはこれから新地獄の再建に乗り出すのだと思いますが、いつまで雪枝さんちにいるんですかね? 雪枝さんは実の娘みたいに可愛がってくれてますし、それこそ自分の家から嫁に出すぐらいのことは考えてそうですが、しばらくは新地獄と地上の往復を続けるのだろうか?
まあ、それはいいとしても、他に加筆で描かれそうなこととして、最終回もしくはその付近に登場していないキャラが出てくるかもしれません。何気に生死不明の白鳥じいさんとか、後はリューネなんかもそうですね。ほとんど人間らしいドクロウの傷が治りかけということは、純悪魔であるリューネは今頃完治しているかもしれないわけで、あれで死んだとは考えにくいものがあります。サテュロスが一網打尽にならなかったことを考えると、リューネはリューネで再起を図っているのかもしれません。
過去篇で登場したうららや香織の10年後、それに、登場することなく終わったかつての攻略ヒロインたち。作品を締めくくる上では顔見せぐらいして欲しい面々もいることですし、やっぱり回収しきれない部分、積み残してしまう箇所はあると思うんですよ。そのためのブログという訳ですが、作者はそんな日のために読者からの質問、お便りを募集しているようです。だから、質問さえあればいつか答えくれることがあるかもしれない、ということですね。
私自身、栞ではありませんがまだまだ知りたいこと、探求を続けたいことがこの作品には山ほどあります。単行本の発売は約2ヵ月後ということになりますが、それまでには、もう少し自分の考えをまとめることが出来ればな、と思っています。これ以上なにを書くんだよ、という感じでもありますが。
けどまあ、折角最終回を迎えたことではありますし、もう一度1巻からじっくりと読み直すのもありだと思いますね。それに、アニメを観たり、CDを聴くのもいいでしょう。最終回のタイトルである「未来の扉」にしても、OVAの天理篇と重なるものですから。最終巻が出るまでに、振り返ってみるのもいいかもしれません。
多分、神のみは私が自分の中にある熱情を注ぐ、最後の作品だったと思います。それが終わってしまったのは悲しいですが、過去より未来に目を向けて、これからも進んでいきたいものです。
本当に長くなりましたがこの辺で。というか、これを全部読んだ人はいるんだろうか……?
※4月24日更新
個人的にしっくり来なかった部分を再考察しました。まだまだ読めるよ、という人は再考察までお進み下さい。
「未来への扉」 再考察→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404250132323429/
その1→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230057509989/
その2→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230121171653/
本日、神のみぞ知るセカイが完結し、連載終了となったわけですが、早くも作者である若木民喜先生のブログが更新されましたね。
単行本作業が忙しいようなので簡潔な内容でしたが、所謂積み残しについては、また単行本が発売された時期にブログにポツリポツリと書かれていくそうです。
私が今回の更新で着目したというか、目を引いたのは、若木先生が前回と今回の話を主人公桂木桂馬のために作ったと書かれていたところです。長年主人公を務めてきた彼に対する、一つのお礼であると。
一つ前の感想2で、私は桂馬のやや物足りない対応は作者なりの意趣返しだったのでは? と書きました。しかし、若木先生自身はお礼を言いたいと書かれているわけですから、それは違うことになりますね。
ただ、私は前回と今回……最終回ですが、それが桂馬のために書かれているというのはよく分かっているつもりです。天理とディアナが幕引きをしたとはいえ、作中で完全に物語を終えることが出来たのは彼だけですし、もっと言えば幸せな結末を迎えることが出来たのは彼と、後はエルシィぐらいなものでしょう。
たとえば前回は基本的に桂馬の視点で物語が書かれていますし、まあ、エルシィのエンディング云々はありましたが、やはり、桂馬のベストエンディングと比較すれば、あくまで前座みたいなものです。エルシィが桂馬にとってのエンディングなら、エルシィが妹に、家族になってよかったね、で話が終わるわけですからね。なので、エルシィは桂馬的に自分の目指したベストエンディングの、謂わばおまけみたいなものです。彼自身、エルシィが本当の妹になったことは予期していませんでしたし。
更に言えば、桂木えりとなったエルシィが桂馬に発したこの言葉。
「にーさまは、どうしますか?」
何気ない質問ですが、これはギャルゲでいう所の選択肢出現シーンみたいなものです。
つまり、桂馬がエルシィからこの質問を投げかけられたとき、彼の目の前には選択肢があった。
A.ちひろの家に行く
B.ちひろの家には行かない
あるいはもっと直接的に、ちひろに告白するか否か、だったかもしれません。
現にちひろの家の前で待つ桂馬のゲーム画面には、YESかNOか、ただそれだけの選択肢が映っていましたからね。そしてそれは、桂馬が自分自身の物語を完結させるための選択肢でもあった。
そう考えると、作品を締めくくったのは確かに天理とディアナですが、最終回そのものが彼女たちのために用意されていたわけではありません。だって、天理は泣いて終わっているわけですし、他の宿主にしたって未来は見通すことが出来ても、幸せは掴んでいませんからね。やはり、桂馬のためにあった最終回と考えるのが自然でしょう。
私自身の感想もそうですが、最終回の桂馬は読者目線から言えば、「それってどうなの?」という部分が多々あります。やはり桂馬には天理や宿主と向き合って欲しかったし、その点に関しては今も変わりません。ただ、外部の反響を意識せずに読むと、桂馬の迎えたエンディングはそれなりにスッキリとしています。自分に課せられた使命を果たし、契約を解除し、好きな人とほぼ結ばれたわけですからね。これ以上のハッピーエンドは、まずあり得ないと言っていい。桂馬は最後の最後に自分の幸せと恋を追求し、それを勝ち得たのですから、意趣返しというよりは親心と言った方が、しっくり来るのかもしれません。
しかし、そのための犠牲になったものもある。犠牲という表現が必ずしも正しいか分からないので、ここは作者に習って積み残しと書いてみますが、とりあえず桂馬の話を終わらせたことを優先したため、最終回では描ききれなかった箇所が結構あるという訳です。勿論、それが宿主や天理とのあれこれとは限りませんし、単純に未回収の伏線を指しているのかもしれません。作者自身もブログに書いてますが、たとえば過去篇の最初で桂馬とちび桂馬が出会ってるシーンは、その後は描かれませんでしたね。感傷的な表情を桂馬がしてましたけど、あれは結局なんだったのでしょう。
それに、昨日の考察で推論立てたディアナの翼。あれだって、本当のところはもっと違う理由で出現したのかもしれません。女神たちの現在だって想像することは出来ても、それが真実に結びつくとは限りませんからね。
こうした積み残しが単行本の加筆で補足されるとは限りません。単行本が出た頃にポツポツと語っていくということは、加筆10Pでは書ききれない可能性があります。少し前のブログをみても、単行本の加筆は最終回のボリュームアップも兼ねているようですし。
前回、ハクアのバディある雪枝さんが、「天気もいいから出かけてこい」みたいなことをハクアとノーラの二人に言ってましたし、散歩にでも出かけたら桂馬かえりにバッタリ、なんてイベントが待っているかもしれません。そういえば、ハクアはこれから新地獄の再建に乗り出すのだと思いますが、いつまで雪枝さんちにいるんですかね? 雪枝さんは実の娘みたいに可愛がってくれてますし、それこそ自分の家から嫁に出すぐらいのことは考えてそうですが、しばらくは新地獄と地上の往復を続けるのだろうか?
まあ、それはいいとしても、他に加筆で描かれそうなこととして、最終回もしくはその付近に登場していないキャラが出てくるかもしれません。何気に生死不明の白鳥じいさんとか、後はリューネなんかもそうですね。ほとんど人間らしいドクロウの傷が治りかけということは、純悪魔であるリューネは今頃完治しているかもしれないわけで、あれで死んだとは考えにくいものがあります。サテュロスが一網打尽にならなかったことを考えると、リューネはリューネで再起を図っているのかもしれません。
過去篇で登場したうららや香織の10年後、それに、登場することなく終わったかつての攻略ヒロインたち。作品を締めくくる上では顔見せぐらいして欲しい面々もいることですし、やっぱり回収しきれない部分、積み残してしまう箇所はあると思うんですよ。そのためのブログという訳ですが、作者はそんな日のために読者からの質問、お便りを募集しているようです。だから、質問さえあればいつか答えくれることがあるかもしれない、ということですね。
私自身、栞ではありませんがまだまだ知りたいこと、探求を続けたいことがこの作品には山ほどあります。単行本の発売は約2ヵ月後ということになりますが、それまでには、もう少し自分の考えをまとめることが出来ればな、と思っています。これ以上なにを書くんだよ、という感じでもありますが。
けどまあ、折角最終回を迎えたことではありますし、もう一度1巻からじっくりと読み直すのもありだと思いますね。それに、アニメを観たり、CDを聴くのもいいでしょう。最終回のタイトルである「未来の扉」にしても、OVAの天理篇と重なるものですから。最終巻が出るまでに、振り返ってみるのもいいかもしれません。
多分、神のみは私が自分の中にある熱情を注ぐ、最後の作品だったと思います。それが終わってしまったのは悲しいですが、過去より未来に目を向けて、これからも進んでいきたいものです。
本当に長くなりましたがこの辺で。というか、これを全部読んだ人はいるんだろうか……?
※4月24日更新
個人的にしっくり来なかった部分を再考察しました。まだまだ読めるよ、という人は再考察までお進み下さい。
「未来への扉」 再考察→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404250132323429/
神のみぞ知るセカイ FLAG268「未来への扉」 感想 その2
2014年4月23日 神のみぞ知るセカイ
検索等で来られた方は、先に感想その1をお読み下さい。
感想その1→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230057509989/
さて、こうして神のみぞ知るセカイは完結を迎えたわけですが、私にはいくつか思うところがあります。根本的なことを言ってしまえば、選ばれることのなかった天理への悲哀ですが、それ以上に、最終回の桂馬に対する非難の気持ちが強い。
何も別に、桂馬がちひろと結ばれたことに異を唱えるつもりはありません。出来れば天理が良かったという想いがないかといえば、そういった感情も確かにあるのだと思いますが、それは他ヒロインのファンだって、大なり小なり似たようなものでしょう。
私が桂馬に対し不可解に、いや、不快感を覚えているのはそういうことじゃなくて、彼が最終回で見せた異様なほどの非情さと、そっけなさについてです。非情さというのは、言うまでもなく天理に宛てた手紙について。先週の時点で、私は天理のエンディングが存在しないことをある程度覚悟していました。所謂、幼馴染のジンクスというのがあったし、TOYOTAや将来の結婚相手にしたところで、所詮はゲーム理論に過ぎなかったから。
それに……天理はシンデレラではなくジュリエットだった。天理は自らを犠牲にする短剣は持っていたけど、王子様が迎えに来てくれるガラスの靴は、持っていなかった。
桂馬はちひろとのエンディングを迎えるにあたって、一方的に宿主達との関係を切り捨てています。二階堂も自分勝手な理論だと言っていますが、桂馬自身、彼女たちとの関係を強制終了したと言っているのです。ベストでもベターでもなく、誠実さの欠片もない、強制的な関係の破綻。桂馬は宿主達を、6人同時に振りました。
もっとも、この方法自体は女神篇の時点で桂馬が考えていたことではあります。
6股関係を精算する方法として、すべてを暴露して嫌われる。浅はかですが、他にやりようもなかったのでしょう。女神篇までなら、確かにこのやり方でも良かったと思います。桂馬は女神と宿主を助けた側ですし、貸し借りの意味では貸しがあるわけですからね。彼がすべてを投げ出そうとしても、無責任とは言いづらかったかもしれません。
しかし、過去編を、ユピテル篇を経験してしまうと、事情は大きく異なります。女神の宿主である少女たちに穴を開けたのは桂馬で、桂馬が現代に戻って来られたのは、天理の献身と、宿主達の尽力があってこそ。貸し借りの面で言うなら、チャラになったか、今度は桂馬が借りを作ったといえるでしょう。
そんな相手に対して、桂馬はどこまで誠意を見せたのか? ベストを尽くすことは出来たのか? ハッキリ言って、それはノーです。桂馬は何一つ、やるべきことをやりませんでした。だって本人からして、強制終了したと言っているぐらいですからね。ちひろへの想いを打ち明けることによって、最低限の事を果たしたかのように見えますが、歩美の言うようにいつもの桂馬だったというなら、そこに誠実さがあったのかどうかも怪しいものです。
私としては、桂馬には強制終了などして欲しくはありませんでした。別に責任取って全員と付き合えとか、ハーレムルートを切り開けなどと言うつもりはないです。私が今回の桂馬の行動で許せないのは、天理に宛てた手紙の非情さもさることながら、宿主の少女たちに対する扱いの軽さにもあると思います。
桂馬は確かに宿主の少女たちを振りました。ちひろへの想いという明確な理由をつけて、彼なりの結論は出したのかもしれません。しかし、何故それを6人同時に行うのでしょうか? どうして、彼は宿主一人一人と、天理と向き合うことをしなかったのか。
強制終了というのは、言わば切り捨ても同じです。エルシィがエルシィという存在を強制的になかったものにしたように、桂馬もまた、関係性を強制的に寸断することで、宿主達を突き放しました。確かに桂馬がちひろのことを好きな以上、彼が宿主達を幸せにすることは不可能です。
けれど、何も突き放すことはなかったんじゃないかと思うのです。突き放すのと、背中を押すのでは、受ける印象も、桂馬に対するイメージも大分変わります。それぞれの宿主と向き合い、話し、自分の本音や本気の気持ちがあるのなら、一人ずつそれを語って納得させ、最終的に振るのだとしても、宿主が新しい道を歩きやすいように背中を押してやる……桂馬には、その責任があったのではないかと考えています。
桂馬は最低限のことはしたのかもしれません。でも、それは決して男らしい決断ではないし、けじめの付け方としては、本当に粗雑なものでした。
私が個々の宿主と向き合うことに拘るのは、彼女たちと桂馬の関係に起因します。
確かに桂馬からすれば、宿主は数いる攻略ヒロインの一人であり、それが女神持ちという関連性を帯びただけにすぎないのかもしれません。しかし、前述のとおり、あの日白鳥家に集まった宿主の少女たちは、桂馬のためならばすべてを投げ出せる気持ちの持ち主でした。
そして何より重要なのは、彼女たちは女神の宿主であるという共通点は持っていても、桂馬への想いそのものを共有しているわけではないのです。
彼女たちはそれぞれが桂馬と違う出会い方をして、異なる恋をした一個人なんです。そんな相手を6人一纏めに考えて、一度に突き放すなんて、酷いじゃ話じゃないですか。
ましてや、桂馬のちひろルートの扉を開いたのは天理です。そして、桂馬が現代に帰ってこられたのは、宿主の少女たちが持っていた、彼に対する強い愛の力です。にもかかわらず、桂馬は躊躇うことも、考慮も配慮もすることなく、一方的に終了させた。これが非難に当たらなくて、なんだというのでしょうか。
運命をぶち壊すと、かつて桂馬は天理に告げました。しかし、彼が天理に歩かせた10年は、エンディングのない、横道にそれることの出来ないものでした。結末は確定していて、覆すことは出来ない。天理と桂馬が結ばれなかったのは、このルートにおける運命なのだと言っても、別に間違ってはいないはずです。
あの薄情な手紙にしても、桂馬には今一度天理と向き合う必要はあったはずです。ルートの扉を開き、ここまで自分を導いてくれた少女に対し、感謝の意を示し、労をねぎらい、その上で決別を告げることも出来たはずなんです。なのに、桂馬はそれをしなかった。彼は最後の最後になって、天理と向き合うことから逃げたのです。
手紙には、天理の労苦に対するねぎらいの言葉も、10年の献身に対する感謝の一文もありませんでした。あるいはどこかに書かれているのかもしれませんが、読者の目に映らない以上は同じことです。桂馬の誠意や誠実さなど、感じようがありません。
最終回の桂馬は、意外な二面性を有しています。
それはちひろに見せた純粋さと、天理に見せた非情さ。宿主達に見せたそっけなさも加えれば三面になりますが、この事実は、最終回を終えた桂馬に対し、素直に祝福が出来ない異様な状況を作り出しています。どうして作者は、桂馬の物語をこのように書き上げたのでしょうか? たとえばギャグ調でもいいから、宿主達との関係解消に奔走する桂馬みたいのを、1ページでいいから描いておけば、大分印象は違ったと思います。
勿論、天理とだけは真剣に向き合わなければいけないのでしょうが、少なくとも桂馬が宿主達のために最後の務めを、責任を果たしたことが分かれば、もっと素直におめでとうとか、お疲れ様という言葉を掛けてあげることが出来たはずなんです。
桂馬にそこまでする義務があるかどうかは、意見が分かれるところでしょう。桂馬自身、攻略は自らの命を守るためにやってきたことですし、桂馬もまた巻き込まれたのだといえば、それは確かにその通り。けれど、桂馬が巻き込まれ、本意ではない攻略を行ったのだとしても、桂馬は攻略女子に対して真剣だったではないですか。真剣に少女たちの悩みや問題と向き合い、時には体を張って、心の隙間を埋めてきたのです。だからこそ、少女たちも桂馬に恋し、愛することが出来た。
後輩である生駒みなみの攻略を行ったとき、桂馬はどこか感傷的な物言いをしていました。
「でも…君も僕を忘れる…」
これは攻略女子と真剣に向き合い、出会いと別れを繰り返してきた桂馬の、寂しさの現れなのだと言われていました。現に桂馬は、女神篇の再攻略時にみなみと再会し、やはり自分のことを覚えていなかった事実に、言い知れぬショックを感じていました。
「いくつもの終わりがあって、いくつもの新しい世界を見て…」
「ボクら…大人になるんだ」
「でも安心して…終わっても、残ってる!!」
「すべての終わりが、みなみちゃんの力になる!!」
「ボクもずっと…みなみちゃんを見てる!!」
「だから、心配しないで。前に進むんだ!!」
みなみに対して一種の執着と、そして切なさをみせた桂馬が、何故最終回では攻略女子に対して、こんなにも冷淡な態度がとれたのか。彼女たちは一度記憶を消されても、また同じ人を好きになることが出来た素晴らしい娘さんたちじゃないですか。桂馬はどうして、そんな相手をこうもぞんざいに扱えたのか。
それに強制終了というやり方自体、成功したのかどうか分かりません。天理は手紙という別要因に、桂馬の本心を知り尽くしているという事情がありますから、諦める以外の選択肢は無いのだと思いますが、桂馬が女神篇で想定していたやり方を使いまわしたことについては強い違和感を覚えます。
何故なら、過去編……ユピテル篇の初めに女神達が話し合いの場を設けたとき、ディアナから桂馬のやり口は伝えられていたからです。桂馬はこのようにして関係を精算するつもりだった、と。それに関してはウルカヌスやマルスは不快感を示しますが、しかし、アポロの反応はそれと異なるものでした。
「そういうところは甘いの、ムコ殿も。そんなことでは嫌いになれんぜよ」
女神達を覚醒させることの出来た宿主達の愛は、その程度で潰えるものではない。アポロの言葉は正鵠を射ており、一度振られたから、はい、そうですかと諦めが付くような愛や恋も、彼女たちは最初からしていないのだと思います。桂馬はその辺りを甘く見ているというか、宿主の少女たちの中にある愛を、軽んじているのではないかと感じました。
それに、もし仮に宿主の少女たちが桂馬の言葉にショックを受け、彼のことを嫌いになったとしましょう。そうすると桂馬に向けられていた愛の力が急激に減少し、女神達は翼も輪っかも失い、宿主と入れ替わることすら出来なくなったはずです。女神篇でのメリクリウスがそうであったように、女神達は宿主から離れることが出来ず、封印ないし眠りにつく恐れもありました。これは宿主の少女たちにとって、ある意味ではリスクになったことでしょう。そして最悪の場合、心の隙間が再発した可能性も否定出来ません。ハクア曰く、恋愛での攻略は隙間の再発が起こりやすいそうですし。
あるいは逆に、激情に駆られたら? 宿主の中に桂馬を害そうとする娘はいないと思いますが、振られるとなれば話は別ですし、あるいは中にいる女神が義憤を感じたかもしれません。ウルカヌスやマルス辺りが制裁を、天罰を加えてきたらどうするつもりだったんでしょうか? 桂馬には、為す術がなかったはずです。それとも、死んでもいいぐらいの覚悟があったのか?
桂馬が少女たちの愛をどの程度に見積もっていたのかは分かりませんが、これはまさしく他人の気持ちがわからない桂木桂馬という少年の、明確な落ち度だったでしょう。
問題は何故、桂馬に敢えて非難の余地を残したのかです。
描き方次第では、桂馬は誰からも祝福され、労われ、絶賛される主人公として物語を締めくくることが出来たかもしれません。なのに何故、彼はそれを放棄して敢えて読者から非難される道を選んだのか。ここからは、キャラクターへの考えと、作者の思惑について、二つの理論が入り交ざります。
まず、桂馬が宿主達と一対一での決着を付けなかったのは、単純に尺がなかったというのもあるでしょうが、もっと言えば天理と向き合うことを避けていたのではないでしょうか? 桂馬が手紙通りの冷酷な人間でないのなら、流石に10年間、報われることのない無償の愛を注いだ天理に対し、何らかの感情は沸くはずです。
恋愛感情ではないのだとしても、哀れみか、憐憫か、同情のようなものは抱いてしまうでしょう。もし、天理が縋り付き、いや、縋り付かなくても、桂馬が同情心に負けて彼女に手を差し伸べてしまったら? 同情心で相手を選ぶなんて非常識だ、失礼だという意見もあるでしょう。私だってそう思います。けれど、天理自身がそれを拒まなかったら? 天理は自分に差し出された手なら、それが同情の念からなるものでも、間違いなく掴んだことでしょう。桂馬は恐らく、そうなることを恐れて天理との対話を避けたのです。自分の心の中をすべて見透かされる相手だからこそ、桂馬には天理と向き合うだけの勇気が持てなかった。
そう考えたとき、ちひろという存在は、天理や宿主達からの逃げ道としての側面があったことも分かります。桂馬は照れ隠しのようにシステムだとか言ってましたが、実状としてはちひろが彼の逃げ場として存在していたことが、否定できなくなっています。
どうして桂馬は天理を選ばなかったのか? これに関しては酷く簡単な説明を行うことが出来ます。天理にとっては非常に残酷な話ですが、桂馬は決して天理のことを嫌いだったわけではないと思います。でも、それと同時に興味や関心もなかったのではないでしょうか?
天理は、かつて桂馬と遊園地に出掛けた回でこの様に発言しています。
「桂馬くん、多分…私のことなんとも思ってないよ…」
好きの反対は嫌いではなく無関心。桂馬は恐らく、鮎川天理という幼馴染に、必要以上の関心や興味を抱くことが出来なかった。天理が女神篇で桂馬のことを好きだと言ったときでさえ、さしたる反応を見せなかったことからも、それは窺い知れます。冷淡なように思えますが、実は天理に限った話でもないのです。例えば、ハクアはとある印象的な台詞を桂馬に残しています。
「お前、私に、関心ないの!?」
思いの丈こそ伝えることは出来ませんでしたが、ハクアは桂馬に恋する乙女の一人でした。そんな彼女が、桂馬が自分に対する関心を示さない、無関心だったときに発したのが、上記の言葉です。一見すると恋に空回っているハクアが微笑ましいかのようなシーンですが、実のところハクアの指摘は、大部分で当たっていたのだと思います。
桂馬はハクアに、いや、他人に関心が持てない。ハクアや天理、それにディアナは確かにファンタジーの世界に属していますが、それと同時に現実を生きる存在でもあります。当時の桂馬が、リアルに関心を示すことなどあり得ないのです。だから天理にかぎらず、ハクアであろうとディアナであろうと、桂馬が他者に関心や興味を持つことはない。攻略対象の情報も、攻略に必死なデータとして入手していたに過ぎません。
また、天理は上記の発言に加え、過去編でも桂馬の恋愛観についてこの様に評しています。
「桂馬くんは……誰も好きじゃないもん…」
結局、ちひろのことが好きだったので天理にしては珍しく外れたのかと思いきや、これもまた事実なんです。上記の台詞、これは過去編での台詞になりますが、意味合い的には遊園地でハクアに言った台詞と同じものがあるでしょう。そして、あの時点においては、おそらく桂馬はちひろに対する恋心を抱いていないか、あるいは自覚していなかったに違いありません。しかし、天理は既に手紙を読んだ後だから、桂馬が自分に興味がない、エンディングを求めていないことを知っていた。だからこそ、天理は断言することが出来た。
では、過去編のときはどうでしょうか? 桂馬が上記の言葉にショックを受けたのは、やはりちひろとの一件があったからでしょう。直後に幼少期のちひろに遭遇してしまったというのもありますが、桂馬は自分が抱きかけていたちひろへの気持ちを、事実だった人となりや人間性を指摘されることで、大きく揺れ動かされたのです。だから、桂馬は天理の前から離れようとした。
天理が上記の台詞を言った理由の一つに、彼女がそのときはまだ自分が会話をしている桂馬が、10年後の桂木桂馬であることを知らなかった、というのもあります。故に天理からみた桂木桂馬はいつもゲームをやっている、現実に対する関心の薄い少年に写っていたのでしょう。そして、そんな彼が誰かを好きになることはない。桂馬をよく観察した上での発言だったかと思います。既にちひろへの気持ちを持っていた桂馬としては、ショックというか、痛いところを突かれたとは思いますけど。自分のそうした人間的な欠落や欠如が、今日の事態を招いていたとも考えられますから。しかし、天理はそれと同時に桂馬がいつもと違うことにも気付いていた。うらら篇において、桂馬の嘘泣きをさり気なく見抜いていることからも、基本的に桂馬のことはよく見ている子なんですよね。
では、天理は何故桂馬がちひろに抱いていた恋心を察することが出来たのか?
どうして、ずっとちひろの元に帰りたがっていたのを知っていたのか。
少なくとも、10年前の時点で天理はちひろの存在を認識していないはずです。
手紙にそう書かれていた、という可能性もあります。ちひろの項目もあったようですから、もしかしたらそこに思いの丈が書かれていたのかもしれません。けど、もっと直接的に、天理は桂馬の本心を知る機会があったはずです。
それはいつか? 10年前、桂馬が香織と最後の対決をした時です。
結崎香織はどうしようもない悪党でしたが、その思想と思考は非常に現実的で、極端なリアリストでした。最終回の桂馬に対する批判の一つに、結局香織に言われた通りの結果になってしまったというのがあります。
香織は桂馬に、以下の様な幸福論を語っていました。
「桂馬くんはすごく頭がよくって有能…でも、今のままじゃダメ。なぜだかわかる?」
「他人のために力を使ってるからよ」
「こんな風に人を助けたりする。人生をムダにしてるわ!!」
「人を助けて…何がいけない……?」
「ねぇ、桂馬くん。ゲームってやったことある?」
「ああ……」
「ゲームの世界なら、自分が幸せならみーんなも幸せでしょう?」
「でも世の中は……みんなが自分のゲームを遊んでいるようなものなの!!」
「みんながひしめきあって、幸せを取りあってる!!」
「幸せになるためには、他の人をギセイにしないといけないのよ!!」
断言される香織の幸福論。夢も希望もない極端すぎる現実志向ですが、これは香織の出自にも関係しています。香織は本人の弁によると両親がおらず、ここからは推測ですが、恐らく施設か何かで暮らしているのでしょう。別に親戚の家でもいいですが、彼女が表面的ないい子ちゃんを演じて、内心にあそこまでの鬱憤を積もらせているのは、境遇的に自由のない、我慢を強いられているという事情があったのでしょう。
年下の扱いが上手い、後輩から慕われているところを見ると、やはり施設での集団生活を経験しているような気がしますけど、この境遇や経歴って、誰かに似てますよね?
そう、桂馬の妹として転生したエルシィです。彼女も又、両親や家族がおらず、救命院という施設の出身であることを語っています。
香織は自分が幸せになるため、悪魔の力を借りて他の女子児童を犠牲にしようとしていました。しかし、桂馬はそんな香織の姿勢を否定し、お前はゲームを舐めている、難しいゲームを簡単に済ませようとする奴に、ハッピーエンドは来ないと断罪します。けれど、エルシィはどうだったでしょうか? 彼女が桂馬の妹に、桂木家の家族になったのは、本人の努力というよりはラスボスとしての超常的なパワーを発揮した結果です。
持ち前の力かどうか、というだけで、実のところ香織とやっていることは大差ないのです。勿論、エルシィは他人を害するような方法を取りませんでしたが、それでも彼女が桂木えりに生まれ変わるため、犠牲にされたものはあります。もし、この場面にエルシィが遭遇していたら、一体香織の語る幸福論にどのような感想を抱いたのでしょうか? あるいは、感銘を受けるようなことも、あったかもしれません。
桂馬は香織の幸福論に対し、以下の様なやりとりをしています。このやりとりを持って、結局桂馬は香織の言うとおりの結末になったと言われるのですが、本当にそうでしょうか?
「お前は……間違ってる」
「すべての人が幸せになる結末が……あるはずだ!!」
「夢みたいなこと言うのね、桂馬くんは」
「そうだ…ボクは夢をみてた……」
「でも…見えた気がする…」
「理想のセカイが、どういうものなのか…」
「ボクはたどりつかなくちゃいけない。本当のエンディングに」
「そのために、ボクは元の世界に戻る!!」
この発言から、桂馬はあくまで理想の実現を追求するつもりなのだと思った人が多いことでしょう。すべての人が幸せになれる、理想のセカイ。それが最終回において果たされなかったことから、香織の指摘は正しかったと言われることになりました。
でも、よく考えてみると桂馬は香織の理論自体は否定しましたが、己の理想を正しいとは一言も言ってないのです。むしろ、「夢みたいなこと言うのね」という香織の指摘に対して、「そうだ…ボクは夢をみてた……」と、自分の理想が夢だったことを肯定しています。その上で桂馬が垣間見た理想のセカイとは、本当のエンディングとはなんなのか? 元の世界に帰ることを切望した桂馬。この姿を、天理は目撃していたのです。
ちひろのいる元の世界に帰りたい、本当のエンディングに辿り着く。そんな桂馬の姿を観てしまったからこそ、天理は桂馬がちひろの下に帰りたがっていたと、ハッキリ断言することが出来たのでしょう。
桂馬が理想を追求しなくなったことは事実です。でも、それは彼にとっての理想が一つの変化を遂げたのだと思います。夢に見ていたみんなが幸せになれる結末、それとは違う理想の世界が。それがどういうものか分かったからこそ、彼は今までの夢を捨てて、全く違う理想を追い求めることになった。だからこそ、彼は最終回であんな穴だらけの対応しか出来なかったのだと思います。桂馬がたどり着いた理想と本当のエンディングは、完璧ではなく理不尽な世界だったから。彼は理想の先駆者ではなく、理不尽の体現者になった。宿主達への仕打ちも、理不尽の一言に尽きますからね。
では、どうして桂馬は完璧さを失ったのでしょうか? 宿主達と天理に非情な仕打ちをして、読者から非難されるように仕向けたのか。キャラクターとしての考えは上記のとおりとして、では、作者的にはどうなのか? 主人公を最終回で嫌われるようにする。非難の対象にするというのは、少年漫画の観点から言えば割と珍しいことだと思います。
どうして、最後の最後で敢えてそのような書き方をしたのかといえば、これは完璧さと理想を追求しなくなった桂馬に対する、主人公を辞める彼に対しての、作者なりの意趣返しだったのではないかと、そう感じるのです。そしてもっと言うなら、選ばれなかったヒロインのファンたちへの、一種の礼儀だったのかもしれません。ちひろエンドを否定しないと言ったところで、出来ることなら自分が好きなヒロインとくっついて欲しかったという人はいるだろうし、それが桂馬批判に繋がらないのだとしても、感情として尾を引いていることは間違いありません。そんなファンたちに対しての、けじめのようなものを桂馬に付けさせたのではないでしょうか? 彼はやっとの思いでエンディングに辿り着いたけど、それは万人から祝福されることのない、理不尽なものだった。
このようにすれば、矛先があるだけ、ファンの心理や心情は幾らか軽くなりますからね。天理や宿主ばかりが割りを食ったように思えますが、その実、桂馬やちひろも同じようなものなのです。最終回がこうである限り、二人を素直に祝福できないファンは、少なからずいると思うから。
最後に天理の話をもう一度だけしますが、遂に天理は桂馬に対して本当の告白をすることが出来ませんでした。桂馬自身が、天理にその機会を与えなかったのです。まあ、それは他の宿主に対しても同じなんですが、天理にとって見れば過去から帰ってきた桂馬こそが、彼女が初めて恋し、愛した存在だったとも言えます。
現に、天理が最終回で思い浮かべた桂馬の姿は、台詞の回想だったこともありますが、子供の頃の姿をしていました。天理はどこまでも、過去から来た女だったのです。未来かじりつこうと必死になった桂馬と、過去の想い出を大事にする天理では、それがどんなに美しくても、相容れることはなかったのかもしれません。
天理はどこまでも美しく、そして気高かった。しかし、天理が天理であるが故に、彼女が無償の愛を注げば注ぐほど、桂馬との距離は離れるしかなかった。天理が天理で在り続ける限り、決して結ばれることはないなんて、なんて残酷な話だろうか。
又、月夜のところで書いた天理と月夜の決定的な違いは、友人の存在です。天理には、月夜と違って桂馬のことを、女神の宿主であることを共有する友人がいません。月夜が栞という知己を得たのに対し、天理は他の宿主とは学校が違い、交流を持つことが出来ません。元々が内向的な性格ということもあり、自分から積極的に連絡を取るようなことも、きっと出来ないでしょう。
天理にはディアナが残りました。けれど、逆に言えばディアナしかいないのです。もし、何かの理由でディアナが天理の中から姿を消してしまったら? 天理はきっと、その事実に耐えられないでしょう。また、天理自身も自分にはもうディアナしかいないという、そういう気持ちを抱かざるをえないと思います。つまり、今まで以上にディアナに対する依存心が増し、最終的なディアナ離れが出来なくなるかもしれないのです。
ディアナ自身、天理に対してはかなり過保護な方ですし、この二人が幸せを探すというのは、言葉以上に難しいことなのかもしれません。まあ、一生一緒にいても良いじゃないかと、そういう考え方も出来ますけど。最終的にはディアナと一体化して、天理自身が本当の女神になったりとかね。永遠や究極といった意味では、一つの答えにはなるかと思います。
それから長年の疑問として残っていた、ディアナの翼が出た理由ですが……
恐らく天理はディアナに真実を話し、手紙を見せたのでしょう。まさか、手紙の内容があんなのだとは思っていませんでしたから、女神篇と過去編の頃は天理が好きなのは過去に訪れた桂馬であり、今ここにいる桂馬ではないことを伝えたのかと思いました。好きだけど違う、まだ、自分たちは本当に再会していない。
過去編で、天理が桂馬を過去に飛ばそうとしていたとき。彼女はいつも以上に顔を赤らめ、どこか興奮していたように思います。やっとここまで来たよ、という台詞と、後にドクロウといたときに言った、桂馬くんに追いついたよ、という台詞。天理の消極性は、自分がまだ桂馬と対等でない、本当の桂馬と再会していないからこその遠慮だと感じていました。つまり、帰って来てからが、彼女が積極的になる瞬間なのだと。
でも、現実は違いました。天理が翼を出すために必要な決定的な言葉は、手紙に書かれてなどいなかった。お前を選ぶとも、お前が好きだとも、そんな夢みたいな台詞は、ただの一つも存在しなかった。
女神篇の終盤であった、天理とディアナのやりとり。
「桂馬くんは……」
「て、天理………!! どうしてもっと早く言わないのです」
天理は桂馬に、ディアナと今後のことを話しあったと告げています。つまり、このとき既に天理はディアナに真実を、桂馬の想い人がちひろであることを伝えていたのでしょう。ディアナは自分の翼が出ない理由は、自分の中にある罪悪感が原因だと推測していました。天理の想い人を、自分まで好きになってしまったことへの罪悪感。
でも、天理がもしその相手と自分が結ばれることはないと知っていたら? 天理が捧げていたのが、無償の愛なのだと分かったら? ディアナには罪悪感を覚える必要がなくなります。無論、ディアナ自身も失恋することにはなりますが、天理が持っていた大きすぎる無償の愛か、あるいはディアナ自身に対する親愛の情を、ディアナは感じ取ることが出来たのかもしれません。だから、翼を出すことが出来た。
それに、翼が出なかったのはおそらく罪悪感だけじゃない。天理は自分が桂馬と結ばれない宿命にあることを知っていたから、彼からの愛を得られないこと分かっていたから、消極性や遠慮が、翼を折りたたんでいたのかもしれない。
ただ、そうすると一つの疑問が湧いてきます。今となっては茶番に等しくなった女神会議において、ディアナはとある発言をしています。女神会議は、まあ、会議と言うよりはお菓子を食べながら女神達がだべっている、という感じのものでしたが、議題は桂馬とのことをどうするのか、というものでした。女神達は当然のことながら、桂馬への愛が強い宿主の誰かが、最終的に桂馬と付き合うものだと思っていました。女神の宿主というのは、ある意味で攻略ヒロインたちの振り落としのようなものでしたから、エルシィやハクアを除けば、確かに宿主6人の中から誰かが選ばれるというのは、自然な流れだったのかも知れません。当然のことながら女神達は自分の宿主を推しますが、アポロがそんな現状に対して、こんなことを言いました。
「今さらどーにもならん。成り行きにまかせるぞよ!!」
それに対するディアナの発言は、
「そんな無責任な!! 天理はどーするんです!!」
この様に天理のことを考えた発言をしています。仮にディアナが女神篇の終盤で桂馬の真実を知っていたというのなら、ここでまだ桂馬に対して脈や可能性があると思っているのはおかしな話であり、翼が出たことと矛盾します。それに加えて、この話し合い自体が茶番であることを自覚しているはずです。
勿論、天理がほんの僅かに抱いていた夢や希望にディアナも賭けていたのだと、そういう解釈も出来なくはないのですが……ディアナ自身、上記の台詞を除けば積極的に天理のことを推したりしてないんですよね。もっとも、自分自身が桂馬を好きになってしまった事実を姉妹に突っ込まれたからでもあるんだけど。
女神達は過去に行った桂馬の身体、その占有権について争い、それが過去編の合間に挟まれる現代劇として繰り広げられました。各宿主が、自分の知らない子供の頃の桂馬と接した訳ですが、これもまた、最終回を読んだ後だと茶番になってしまう。これじゃまるで、女神達は、道化を演じていたようなものです。
ちなみにそんな女神達ですが、私は彼女たちがまだいることを前提に感想を書いてきましたが、実は既にいないという可能性もあったりします。女神は動体巨人と戦った後、あかね丸を完全修復しており、確かに登場人物紹介欄では各ヒロインとも女神の宿主として紹介されていますが、少なからずその事実は揺らいでいます。根拠としては月夜がルナを連れていなかったこと、それに加えてディアナ以外の女神が一切登場しなかったことと、ディアナ本人の台詞から。
「天理が幸せにたどりつくまで、私はいつまでも天理のそばにいますよ」
この台詞はディアナが天理の為を思って言った温かみのある言葉ですが、天理が幸せに辿り着くまでそばにいる、ということは、天理が幸せに辿り着きさえすれば、ディアナはいつでも彼女の元を離れることが出来るとも解釈出来ます。つまり、宿主の肉体から出ることが可能なのです。
女神の力というのは、愛の力によって段階的に上がっていきます。まず、初回攻略時の影響で女神の意識が目覚める。そして記憶が戻ることで女神の輪が出現し、宿主の身体を動かすことが出来る。更に翼の出現があった訳ですが、段階としてこれは最終形態という訳ではありません。最終的には女神が宿主の身体を離脱し、女神として完全に復活するまでが、女神の覚醒なのです。
では、最終回までに女神達はどの程度の復活を遂げていたのでしょうか? 女神篇以降、桂馬は一週間引き籠もっていたこともあり、宿主達とは顔を合わせていません。栞がふて腐れ、歩美がイライラを募らせていたのはそれが理由ですし、あまり気にしていなかったのは、多忙なかのんと結、それに月夜ぐらいでしょうか? 月夜はルナことウルカヌスという話し相手がいたので暇をしなかったのかも知れませんが、栞や歩美は明らかに感情面でのばらつきを感じられます。逢えない分だけ想いを募らせて、というならともかく、栞などは名前を聞くのも嫌になっていましたからね。
そう考えると、女神篇以降の宿主達は桂馬に対する愛情が下がることはあっても、上がることはないように思えます。最終回の、少し前までは。
ここで忘れてはいけないのが、宿主達が桂馬を帰還するために使ったのも女神の力、つまり愛情の力であると言うことです。天理は歩美を始めとした宿主の少女たちに桂馬の手紙を見せて、桂馬の考えや、少女たちへの気持ちを伝えることで、愛の力を増幅させました。その結果、時間渡航機は修復されて、桂馬は帰還します。
その後は女神達と動体巨人のバトルが始まる訳ですが、女神はその圧倒的な力でこれを撃ち倒すのです。女神が勝負を決めたのは女神篇も同じですが、あのときは戦闘らしい戦闘を行っていません。精々、敵の本拠地を叩き潰したぐらいです。もし、巨人と戦っていたときの女神が、既に宿主の身体から離脱出来るほどの力を取り戻していたとしたら?
しかし、これには幾つかの無理があります。巨人達との戦いで、女神達は当然のことながら宿主の身体を傷付けないことを前提に敵を片付けることを決めました。もし、女神達がこの時点で宿主の身体を離脱出来たのなら、傷を付ける心配からも、女神として現界して戦えば良いだけの話であり、そう考えると身体を出るほどには力が戻ってはいなかった、という可能性の方が強いのかも知れません。勿論、宿主の身体を放置した状態で巨人とは戦えなかったと考えても良いのですが、そんなの女神の誰か一人が防御に徹して宿主と桂馬を守れば良いだけの話ですし、そもそも巨人は女神が苦戦するような相手ではありません。女神の力が、地上では宿主に宿らなければ発揮出来ないならともかくとして。
いずれにせよ、女神が既にいない、あるいはいつでも宿主から離れることが出来る状態にあることは可能性として決して低くありません。宿主の桂馬に対する愛情が今現在どうなっているかにもよりますが、そうでないと女神は宿主の寿命が尽きるまで、身体を出ることが出来ないかも知れないから。
また別の恋をして、愛の力を貯めれば良いという考えはあるのかも知れませんが、結が言うように「こんなすごい恋、もう二度とないかもしれない」訳ですから、今の時点で身体を抜け出せる状態になければ、後々のチャンスがないと思うんですよね。だからこそ、桂馬には女神が宿主と別れるぐらいまでは、見守っていて欲しかったんだけど……あそこまで行ったなら、後少し背中を押すだけで済んだと思うし。天理はともかくね。
天理のことも含めて、不満があるなら二次創作でやればいい、みたいな意見を見かけます。描かれることのない天理へのフォローや救済を二次創作で、と言う訳ですね。正直言って、簡単に言ってくれるな、という気分です。勿論、そういう事象は多々ありますし、中には原作断罪系なる、原作の展開や結末を否定するためだけに書かれているような、そんな作品もあります。
だけど、それとは全く別の理由で、私は天理を二次創作で救済することに、心理的な抵抗感を覚えています。少し複雑な話になるんですが、私は天理が選ばれなかったこと、桂馬と結ばれなかったことへの悲哀や悲嘆を感じてこそいますが、逆に桂馬が天理を選ばなかったことについては、これといった怒りも憤りも感じてないのです。
先週までは、前回までなら確かにそういう感情もありました。天理の10年の献身を何だと思ってるんだとか、この恩知らずとか、そんなことを桂馬に思ったのも事実です。
けれど、天理に宛てられた手紙を見たとき、
「あぁ、桂木桂馬という男に鮎川天理を幸せにすることは無理なんだな」
というのを直感的に悟ってしまったんです。
天理が桂馬の隣にいる事実に幸せを感じることは出来ても、桂馬が天理を幸せにしてやることは絶対に出来ない。あの手紙が、それを決定づけてしまった。
桂馬は確かに天理の傍だと、ゲームし放題だし、自分をさらけ出して、自分が自分でいられるかもしれません。天理はゲームしてる桂馬くんが好きだと言ってますから。しかし、桂馬はゲームに満足することはあっても、天理が隣にいることへの幸せや喜びは感じないと思います。ましてや、それを与えてあげることなど不可能でしょう。
天理もまた同じです。桂馬の幸せを見守ることは出来ても、彼女自身が桂馬を幸せにすることは今のままではおそらく出来ない。
そして桂馬は、自分の思い通りにならない存在に惹かれる傾向にあります。彼が選んだエンディングがそうですし、基本的に桂馬の言うことはなんでも聞いてしまう天理では、彼の心を動かすことが出来ないのです。過去篇で桂馬が天理に突き動かされたのは、天理が桂馬の言いつけを守らず、彼を自分の意志で引き戻したから。それに桂馬は感銘を受け、天理は彼の心の琴線に触れることが出来たのでしょう。でも、普段の天理にはそれがない。
だからこそ、私は天理を二次創作や同人誌で救済しようとは思いません。あの酷薄とした手紙の文面を読んだ上で、それでも天理と桂馬をくっつけるというのは、捏造や妄想、よく言っても願望にしかならないからです。故に、桂馬×天理も、天理×桂馬もあり得ないのです。それぐらい、私にとっては決定的なものでした。
せめて、もう少し早くロミオとジュリエットの意味に気付くことが出来れば、こんなことにはならなかったかも知れません。なまじ、それより前の回が衝撃的だったから、あの舞台が二人の結ばれない宿命を案じていたことに、気付くのが遅れてしまった。
天理はあの舞台で、これも運命だと言った。桂馬はそれを否定した。運命を壊すために、自分たちは戦うのだと。つまり、このとき桂馬は自分が天理と運命共同体になることを否定しています。故に天理は、あの不思議空間で歩美にこう言いました。
「私…桂馬くんが好きだよ。でも桂馬くんは、こんなの運命じゃないって言った…」
「それでも私は、10年待ってたんだ」
「私は、桂馬くんに会いたいよ!!」
この台詞、この発言、今にして思えば天理は自分に脈がないこと、桂馬とのエンディングがないことを自覚していたのでしょう。読み返せば幾らでも出てきそうですが、天理はそれでも桂馬に会いたかった。僅かな夢に賭けたのか、それとも無償の愛を貫いたのかは分かりませんが、ジュリエットはロミオのために最後まで身を捧げたのです。
だけど、それと同時にこうも思うのです。ロミオはジュリエットの死を嘆き悲しみ、彼女の後を追って死を選びました。桂馬は、自身のジュリエットたる天理に、そこまでの感情を向けてくれたのでしょうか? 天理はロミオである桂馬のために身体を張って、心を開いて接しました。しかし桂馬は、シンデレラにガラスの靴を届けることばかり考えて、天理のことをあまり観ていなかったのではないか。
「それでも私は、10年待ってたんだ」
10年という月日をずっと待ち続け、自分に運命もエンディングもないことを悟りながら、それでも桂馬と本当の再会を果たしたかった天理。
せめて天理がシンデレラだったなら、彼女が持っていたのが剣でなく、ガラスの靴だったなら……きっと結末は、違うものになっていたことでしょう。
勿論、幾つかの希望はあります。
ユピテル篇に入る直前、桂馬が巡った幾つかのパラレルワールド。かのん100%などもあの中に含まれるそうですが、もしかしたら、天理が桂馬と結ばれる世界観もあるのかも知れない。
でも、それはあの浜辺で泣いている天理じゃないんです……
天理の涙を拭うことは、誰にもできません。
ディアナにはそれが出来るかも知れませんが、少なくとも、鮎川天理という少女が涙を流して作品を終えたのは事実です。
しかし、作者である若木民喜が筆を置いた今、世界はディアナの言うとおり結末のないものになりました。用意された結末は終わり、誰もが考え、悩み、まだ見ぬ道を歩いて行く。
かつて、天理が未来への扉を開いたように。
空の向こうにある、未来に向かって。
6年間の連載、お疲れ様でした。
単行本最終巻の発売、楽しみにしています。
※発売日中に作者ブログの方が更新されたので、上記考察に補足を加えるため、おまけを書きました。まだ読んでもいいという人がいたら、おまけにお進みください。
感想おまけ→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404231546152015/
感想その1→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230057509989/
さて、こうして神のみぞ知るセカイは完結を迎えたわけですが、私にはいくつか思うところがあります。根本的なことを言ってしまえば、選ばれることのなかった天理への悲哀ですが、それ以上に、最終回の桂馬に対する非難の気持ちが強い。
何も別に、桂馬がちひろと結ばれたことに異を唱えるつもりはありません。出来れば天理が良かったという想いがないかといえば、そういった感情も確かにあるのだと思いますが、それは他ヒロインのファンだって、大なり小なり似たようなものでしょう。
私が桂馬に対し不可解に、いや、不快感を覚えているのはそういうことじゃなくて、彼が最終回で見せた異様なほどの非情さと、そっけなさについてです。非情さというのは、言うまでもなく天理に宛てた手紙について。先週の時点で、私は天理のエンディングが存在しないことをある程度覚悟していました。所謂、幼馴染のジンクスというのがあったし、TOYOTAや将来の結婚相手にしたところで、所詮はゲーム理論に過ぎなかったから。
それに……天理はシンデレラではなくジュリエットだった。天理は自らを犠牲にする短剣は持っていたけど、王子様が迎えに来てくれるガラスの靴は、持っていなかった。
桂馬はちひろとのエンディングを迎えるにあたって、一方的に宿主達との関係を切り捨てています。二階堂も自分勝手な理論だと言っていますが、桂馬自身、彼女たちとの関係を強制終了したと言っているのです。ベストでもベターでもなく、誠実さの欠片もない、強制的な関係の破綻。桂馬は宿主達を、6人同時に振りました。
もっとも、この方法自体は女神篇の時点で桂馬が考えていたことではあります。
6股関係を精算する方法として、すべてを暴露して嫌われる。浅はかですが、他にやりようもなかったのでしょう。女神篇までなら、確かにこのやり方でも良かったと思います。桂馬は女神と宿主を助けた側ですし、貸し借りの意味では貸しがあるわけですからね。彼がすべてを投げ出そうとしても、無責任とは言いづらかったかもしれません。
しかし、過去編を、ユピテル篇を経験してしまうと、事情は大きく異なります。女神の宿主である少女たちに穴を開けたのは桂馬で、桂馬が現代に戻って来られたのは、天理の献身と、宿主達の尽力があってこそ。貸し借りの面で言うなら、チャラになったか、今度は桂馬が借りを作ったといえるでしょう。
そんな相手に対して、桂馬はどこまで誠意を見せたのか? ベストを尽くすことは出来たのか? ハッキリ言って、それはノーです。桂馬は何一つ、やるべきことをやりませんでした。だって本人からして、強制終了したと言っているぐらいですからね。ちひろへの想いを打ち明けることによって、最低限の事を果たしたかのように見えますが、歩美の言うようにいつもの桂馬だったというなら、そこに誠実さがあったのかどうかも怪しいものです。
私としては、桂馬には強制終了などして欲しくはありませんでした。別に責任取って全員と付き合えとか、ハーレムルートを切り開けなどと言うつもりはないです。私が今回の桂馬の行動で許せないのは、天理に宛てた手紙の非情さもさることながら、宿主の少女たちに対する扱いの軽さにもあると思います。
桂馬は確かに宿主の少女たちを振りました。ちひろへの想いという明確な理由をつけて、彼なりの結論は出したのかもしれません。しかし、何故それを6人同時に行うのでしょうか? どうして、彼は宿主一人一人と、天理と向き合うことをしなかったのか。
強制終了というのは、言わば切り捨ても同じです。エルシィがエルシィという存在を強制的になかったものにしたように、桂馬もまた、関係性を強制的に寸断することで、宿主達を突き放しました。確かに桂馬がちひろのことを好きな以上、彼が宿主達を幸せにすることは不可能です。
けれど、何も突き放すことはなかったんじゃないかと思うのです。突き放すのと、背中を押すのでは、受ける印象も、桂馬に対するイメージも大分変わります。それぞれの宿主と向き合い、話し、自分の本音や本気の気持ちがあるのなら、一人ずつそれを語って納得させ、最終的に振るのだとしても、宿主が新しい道を歩きやすいように背中を押してやる……桂馬には、その責任があったのではないかと考えています。
桂馬は最低限のことはしたのかもしれません。でも、それは決して男らしい決断ではないし、けじめの付け方としては、本当に粗雑なものでした。
私が個々の宿主と向き合うことに拘るのは、彼女たちと桂馬の関係に起因します。
確かに桂馬からすれば、宿主は数いる攻略ヒロインの一人であり、それが女神持ちという関連性を帯びただけにすぎないのかもしれません。しかし、前述のとおり、あの日白鳥家に集まった宿主の少女たちは、桂馬のためならばすべてを投げ出せる気持ちの持ち主でした。
そして何より重要なのは、彼女たちは女神の宿主であるという共通点は持っていても、桂馬への想いそのものを共有しているわけではないのです。
彼女たちはそれぞれが桂馬と違う出会い方をして、異なる恋をした一個人なんです。そんな相手を6人一纏めに考えて、一度に突き放すなんて、酷いじゃ話じゃないですか。
ましてや、桂馬のちひろルートの扉を開いたのは天理です。そして、桂馬が現代に帰ってこられたのは、宿主の少女たちが持っていた、彼に対する強い愛の力です。にもかかわらず、桂馬は躊躇うことも、考慮も配慮もすることなく、一方的に終了させた。これが非難に当たらなくて、なんだというのでしょうか。
運命をぶち壊すと、かつて桂馬は天理に告げました。しかし、彼が天理に歩かせた10年は、エンディングのない、横道にそれることの出来ないものでした。結末は確定していて、覆すことは出来ない。天理と桂馬が結ばれなかったのは、このルートにおける運命なのだと言っても、別に間違ってはいないはずです。
あの薄情な手紙にしても、桂馬には今一度天理と向き合う必要はあったはずです。ルートの扉を開き、ここまで自分を導いてくれた少女に対し、感謝の意を示し、労をねぎらい、その上で決別を告げることも出来たはずなんです。なのに、桂馬はそれをしなかった。彼は最後の最後になって、天理と向き合うことから逃げたのです。
手紙には、天理の労苦に対するねぎらいの言葉も、10年の献身に対する感謝の一文もありませんでした。あるいはどこかに書かれているのかもしれませんが、読者の目に映らない以上は同じことです。桂馬の誠意や誠実さなど、感じようがありません。
最終回の桂馬は、意外な二面性を有しています。
それはちひろに見せた純粋さと、天理に見せた非情さ。宿主達に見せたそっけなさも加えれば三面になりますが、この事実は、最終回を終えた桂馬に対し、素直に祝福が出来ない異様な状況を作り出しています。どうして作者は、桂馬の物語をこのように書き上げたのでしょうか? たとえばギャグ調でもいいから、宿主達との関係解消に奔走する桂馬みたいのを、1ページでいいから描いておけば、大分印象は違ったと思います。
勿論、天理とだけは真剣に向き合わなければいけないのでしょうが、少なくとも桂馬が宿主達のために最後の務めを、責任を果たしたことが分かれば、もっと素直におめでとうとか、お疲れ様という言葉を掛けてあげることが出来たはずなんです。
桂馬にそこまでする義務があるかどうかは、意見が分かれるところでしょう。桂馬自身、攻略は自らの命を守るためにやってきたことですし、桂馬もまた巻き込まれたのだといえば、それは確かにその通り。けれど、桂馬が巻き込まれ、本意ではない攻略を行ったのだとしても、桂馬は攻略女子に対して真剣だったではないですか。真剣に少女たちの悩みや問題と向き合い、時には体を張って、心の隙間を埋めてきたのです。だからこそ、少女たちも桂馬に恋し、愛することが出来た。
後輩である生駒みなみの攻略を行ったとき、桂馬はどこか感傷的な物言いをしていました。
「でも…君も僕を忘れる…」
これは攻略女子と真剣に向き合い、出会いと別れを繰り返してきた桂馬の、寂しさの現れなのだと言われていました。現に桂馬は、女神篇の再攻略時にみなみと再会し、やはり自分のことを覚えていなかった事実に、言い知れぬショックを感じていました。
「いくつもの終わりがあって、いくつもの新しい世界を見て…」
「ボクら…大人になるんだ」
「でも安心して…終わっても、残ってる!!」
「すべての終わりが、みなみちゃんの力になる!!」
「ボクもずっと…みなみちゃんを見てる!!」
「だから、心配しないで。前に進むんだ!!」
みなみに対して一種の執着と、そして切なさをみせた桂馬が、何故最終回では攻略女子に対して、こんなにも冷淡な態度がとれたのか。彼女たちは一度記憶を消されても、また同じ人を好きになることが出来た素晴らしい娘さんたちじゃないですか。桂馬はどうして、そんな相手をこうもぞんざいに扱えたのか。
それに強制終了というやり方自体、成功したのかどうか分かりません。天理は手紙という別要因に、桂馬の本心を知り尽くしているという事情がありますから、諦める以外の選択肢は無いのだと思いますが、桂馬が女神篇で想定していたやり方を使いまわしたことについては強い違和感を覚えます。
何故なら、過去編……ユピテル篇の初めに女神達が話し合いの場を設けたとき、ディアナから桂馬のやり口は伝えられていたからです。桂馬はこのようにして関係を精算するつもりだった、と。それに関してはウルカヌスやマルスは不快感を示しますが、しかし、アポロの反応はそれと異なるものでした。
「そういうところは甘いの、ムコ殿も。そんなことでは嫌いになれんぜよ」
女神達を覚醒させることの出来た宿主達の愛は、その程度で潰えるものではない。アポロの言葉は正鵠を射ており、一度振られたから、はい、そうですかと諦めが付くような愛や恋も、彼女たちは最初からしていないのだと思います。桂馬はその辺りを甘く見ているというか、宿主の少女たちの中にある愛を、軽んじているのではないかと感じました。
それに、もし仮に宿主の少女たちが桂馬の言葉にショックを受け、彼のことを嫌いになったとしましょう。そうすると桂馬に向けられていた愛の力が急激に減少し、女神達は翼も輪っかも失い、宿主と入れ替わることすら出来なくなったはずです。女神篇でのメリクリウスがそうであったように、女神達は宿主から離れることが出来ず、封印ないし眠りにつく恐れもありました。これは宿主の少女たちにとって、ある意味ではリスクになったことでしょう。そして最悪の場合、心の隙間が再発した可能性も否定出来ません。ハクア曰く、恋愛での攻略は隙間の再発が起こりやすいそうですし。
あるいは逆に、激情に駆られたら? 宿主の中に桂馬を害そうとする娘はいないと思いますが、振られるとなれば話は別ですし、あるいは中にいる女神が義憤を感じたかもしれません。ウルカヌスやマルス辺りが制裁を、天罰を加えてきたらどうするつもりだったんでしょうか? 桂馬には、為す術がなかったはずです。それとも、死んでもいいぐらいの覚悟があったのか?
桂馬が少女たちの愛をどの程度に見積もっていたのかは分かりませんが、これはまさしく他人の気持ちがわからない桂木桂馬という少年の、明確な落ち度だったでしょう。
問題は何故、桂馬に敢えて非難の余地を残したのかです。
描き方次第では、桂馬は誰からも祝福され、労われ、絶賛される主人公として物語を締めくくることが出来たかもしれません。なのに何故、彼はそれを放棄して敢えて読者から非難される道を選んだのか。ここからは、キャラクターへの考えと、作者の思惑について、二つの理論が入り交ざります。
まず、桂馬が宿主達と一対一での決着を付けなかったのは、単純に尺がなかったというのもあるでしょうが、もっと言えば天理と向き合うことを避けていたのではないでしょうか? 桂馬が手紙通りの冷酷な人間でないのなら、流石に10年間、報われることのない無償の愛を注いだ天理に対し、何らかの感情は沸くはずです。
恋愛感情ではないのだとしても、哀れみか、憐憫か、同情のようなものは抱いてしまうでしょう。もし、天理が縋り付き、いや、縋り付かなくても、桂馬が同情心に負けて彼女に手を差し伸べてしまったら? 同情心で相手を選ぶなんて非常識だ、失礼だという意見もあるでしょう。私だってそう思います。けれど、天理自身がそれを拒まなかったら? 天理は自分に差し出された手なら、それが同情の念からなるものでも、間違いなく掴んだことでしょう。桂馬は恐らく、そうなることを恐れて天理との対話を避けたのです。自分の心の中をすべて見透かされる相手だからこそ、桂馬には天理と向き合うだけの勇気が持てなかった。
そう考えたとき、ちひろという存在は、天理や宿主達からの逃げ道としての側面があったことも分かります。桂馬は照れ隠しのようにシステムだとか言ってましたが、実状としてはちひろが彼の逃げ場として存在していたことが、否定できなくなっています。
どうして桂馬は天理を選ばなかったのか? これに関しては酷く簡単な説明を行うことが出来ます。天理にとっては非常に残酷な話ですが、桂馬は決して天理のことを嫌いだったわけではないと思います。でも、それと同時に興味や関心もなかったのではないでしょうか?
天理は、かつて桂馬と遊園地に出掛けた回でこの様に発言しています。
「桂馬くん、多分…私のことなんとも思ってないよ…」
好きの反対は嫌いではなく無関心。桂馬は恐らく、鮎川天理という幼馴染に、必要以上の関心や興味を抱くことが出来なかった。天理が女神篇で桂馬のことを好きだと言ったときでさえ、さしたる反応を見せなかったことからも、それは窺い知れます。冷淡なように思えますが、実は天理に限った話でもないのです。例えば、ハクアはとある印象的な台詞を桂馬に残しています。
「お前、私に、関心ないの!?」
思いの丈こそ伝えることは出来ませんでしたが、ハクアは桂馬に恋する乙女の一人でした。そんな彼女が、桂馬が自分に対する関心を示さない、無関心だったときに発したのが、上記の言葉です。一見すると恋に空回っているハクアが微笑ましいかのようなシーンですが、実のところハクアの指摘は、大部分で当たっていたのだと思います。
桂馬はハクアに、いや、他人に関心が持てない。ハクアや天理、それにディアナは確かにファンタジーの世界に属していますが、それと同時に現実を生きる存在でもあります。当時の桂馬が、リアルに関心を示すことなどあり得ないのです。だから天理にかぎらず、ハクアであろうとディアナであろうと、桂馬が他者に関心や興味を持つことはない。攻略対象の情報も、攻略に必死なデータとして入手していたに過ぎません。
また、天理は上記の発言に加え、過去編でも桂馬の恋愛観についてこの様に評しています。
「桂馬くんは……誰も好きじゃないもん…」
結局、ちひろのことが好きだったので天理にしては珍しく外れたのかと思いきや、これもまた事実なんです。上記の台詞、これは過去編での台詞になりますが、意味合い的には遊園地でハクアに言った台詞と同じものがあるでしょう。そして、あの時点においては、おそらく桂馬はちひろに対する恋心を抱いていないか、あるいは自覚していなかったに違いありません。しかし、天理は既に手紙を読んだ後だから、桂馬が自分に興味がない、エンディングを求めていないことを知っていた。だからこそ、天理は断言することが出来た。
では、過去編のときはどうでしょうか? 桂馬が上記の言葉にショックを受けたのは、やはりちひろとの一件があったからでしょう。直後に幼少期のちひろに遭遇してしまったというのもありますが、桂馬は自分が抱きかけていたちひろへの気持ちを、事実だった人となりや人間性を指摘されることで、大きく揺れ動かされたのです。だから、桂馬は天理の前から離れようとした。
天理が上記の台詞を言った理由の一つに、彼女がそのときはまだ自分が会話をしている桂馬が、10年後の桂木桂馬であることを知らなかった、というのもあります。故に天理からみた桂木桂馬はいつもゲームをやっている、現実に対する関心の薄い少年に写っていたのでしょう。そして、そんな彼が誰かを好きになることはない。桂馬をよく観察した上での発言だったかと思います。既にちひろへの気持ちを持っていた桂馬としては、ショックというか、痛いところを突かれたとは思いますけど。自分のそうした人間的な欠落や欠如が、今日の事態を招いていたとも考えられますから。しかし、天理はそれと同時に桂馬がいつもと違うことにも気付いていた。うらら篇において、桂馬の嘘泣きをさり気なく見抜いていることからも、基本的に桂馬のことはよく見ている子なんですよね。
では、天理は何故桂馬がちひろに抱いていた恋心を察することが出来たのか?
どうして、ずっとちひろの元に帰りたがっていたのを知っていたのか。
少なくとも、10年前の時点で天理はちひろの存在を認識していないはずです。
手紙にそう書かれていた、という可能性もあります。ちひろの項目もあったようですから、もしかしたらそこに思いの丈が書かれていたのかもしれません。けど、もっと直接的に、天理は桂馬の本心を知る機会があったはずです。
それはいつか? 10年前、桂馬が香織と最後の対決をした時です。
結崎香織はどうしようもない悪党でしたが、その思想と思考は非常に現実的で、極端なリアリストでした。最終回の桂馬に対する批判の一つに、結局香織に言われた通りの結果になってしまったというのがあります。
香織は桂馬に、以下の様な幸福論を語っていました。
「桂馬くんはすごく頭がよくって有能…でも、今のままじゃダメ。なぜだかわかる?」
「他人のために力を使ってるからよ」
「こんな風に人を助けたりする。人生をムダにしてるわ!!」
「人を助けて…何がいけない……?」
「ねぇ、桂馬くん。ゲームってやったことある?」
「ああ……」
「ゲームの世界なら、自分が幸せならみーんなも幸せでしょう?」
「でも世の中は……みんなが自分のゲームを遊んでいるようなものなの!!」
「みんながひしめきあって、幸せを取りあってる!!」
「幸せになるためには、他の人をギセイにしないといけないのよ!!」
断言される香織の幸福論。夢も希望もない極端すぎる現実志向ですが、これは香織の出自にも関係しています。香織は本人の弁によると両親がおらず、ここからは推測ですが、恐らく施設か何かで暮らしているのでしょう。別に親戚の家でもいいですが、彼女が表面的ないい子ちゃんを演じて、内心にあそこまでの鬱憤を積もらせているのは、境遇的に自由のない、我慢を強いられているという事情があったのでしょう。
年下の扱いが上手い、後輩から慕われているところを見ると、やはり施設での集団生活を経験しているような気がしますけど、この境遇や経歴って、誰かに似てますよね?
そう、桂馬の妹として転生したエルシィです。彼女も又、両親や家族がおらず、救命院という施設の出身であることを語っています。
香織は自分が幸せになるため、悪魔の力を借りて他の女子児童を犠牲にしようとしていました。しかし、桂馬はそんな香織の姿勢を否定し、お前はゲームを舐めている、難しいゲームを簡単に済ませようとする奴に、ハッピーエンドは来ないと断罪します。けれど、エルシィはどうだったでしょうか? 彼女が桂馬の妹に、桂木家の家族になったのは、本人の努力というよりはラスボスとしての超常的なパワーを発揮した結果です。
持ち前の力かどうか、というだけで、実のところ香織とやっていることは大差ないのです。勿論、エルシィは他人を害するような方法を取りませんでしたが、それでも彼女が桂木えりに生まれ変わるため、犠牲にされたものはあります。もし、この場面にエルシィが遭遇していたら、一体香織の語る幸福論にどのような感想を抱いたのでしょうか? あるいは、感銘を受けるようなことも、あったかもしれません。
桂馬は香織の幸福論に対し、以下の様なやりとりをしています。このやりとりを持って、結局桂馬は香織の言うとおりの結末になったと言われるのですが、本当にそうでしょうか?
「お前は……間違ってる」
「すべての人が幸せになる結末が……あるはずだ!!」
「夢みたいなこと言うのね、桂馬くんは」
「そうだ…ボクは夢をみてた……」
「でも…見えた気がする…」
「理想のセカイが、どういうものなのか…」
「ボクはたどりつかなくちゃいけない。本当のエンディングに」
「そのために、ボクは元の世界に戻る!!」
この発言から、桂馬はあくまで理想の実現を追求するつもりなのだと思った人が多いことでしょう。すべての人が幸せになれる、理想のセカイ。それが最終回において果たされなかったことから、香織の指摘は正しかったと言われることになりました。
でも、よく考えてみると桂馬は香織の理論自体は否定しましたが、己の理想を正しいとは一言も言ってないのです。むしろ、「夢みたいなこと言うのね」という香織の指摘に対して、「そうだ…ボクは夢をみてた……」と、自分の理想が夢だったことを肯定しています。その上で桂馬が垣間見た理想のセカイとは、本当のエンディングとはなんなのか? 元の世界に帰ることを切望した桂馬。この姿を、天理は目撃していたのです。
ちひろのいる元の世界に帰りたい、本当のエンディングに辿り着く。そんな桂馬の姿を観てしまったからこそ、天理は桂馬がちひろの下に帰りたがっていたと、ハッキリ断言することが出来たのでしょう。
桂馬が理想を追求しなくなったことは事実です。でも、それは彼にとっての理想が一つの変化を遂げたのだと思います。夢に見ていたみんなが幸せになれる結末、それとは違う理想の世界が。それがどういうものか分かったからこそ、彼は今までの夢を捨てて、全く違う理想を追い求めることになった。だからこそ、彼は最終回であんな穴だらけの対応しか出来なかったのだと思います。桂馬がたどり着いた理想と本当のエンディングは、完璧ではなく理不尽な世界だったから。彼は理想の先駆者ではなく、理不尽の体現者になった。宿主達への仕打ちも、理不尽の一言に尽きますからね。
では、どうして桂馬は完璧さを失ったのでしょうか? 宿主達と天理に非情な仕打ちをして、読者から非難されるように仕向けたのか。キャラクターとしての考えは上記のとおりとして、では、作者的にはどうなのか? 主人公を最終回で嫌われるようにする。非難の対象にするというのは、少年漫画の観点から言えば割と珍しいことだと思います。
どうして、最後の最後で敢えてそのような書き方をしたのかといえば、これは完璧さと理想を追求しなくなった桂馬に対する、主人公を辞める彼に対しての、作者なりの意趣返しだったのではないかと、そう感じるのです。そしてもっと言うなら、選ばれなかったヒロインのファンたちへの、一種の礼儀だったのかもしれません。ちひろエンドを否定しないと言ったところで、出来ることなら自分が好きなヒロインとくっついて欲しかったという人はいるだろうし、それが桂馬批判に繋がらないのだとしても、感情として尾を引いていることは間違いありません。そんなファンたちに対しての、けじめのようなものを桂馬に付けさせたのではないでしょうか? 彼はやっとの思いでエンディングに辿り着いたけど、それは万人から祝福されることのない、理不尽なものだった。
このようにすれば、矛先があるだけ、ファンの心理や心情は幾らか軽くなりますからね。天理や宿主ばかりが割りを食ったように思えますが、その実、桂馬やちひろも同じようなものなのです。最終回がこうである限り、二人を素直に祝福できないファンは、少なからずいると思うから。
最後に天理の話をもう一度だけしますが、遂に天理は桂馬に対して本当の告白をすることが出来ませんでした。桂馬自身が、天理にその機会を与えなかったのです。まあ、それは他の宿主に対しても同じなんですが、天理にとって見れば過去から帰ってきた桂馬こそが、彼女が初めて恋し、愛した存在だったとも言えます。
現に、天理が最終回で思い浮かべた桂馬の姿は、台詞の回想だったこともありますが、子供の頃の姿をしていました。天理はどこまでも、過去から来た女だったのです。未来かじりつこうと必死になった桂馬と、過去の想い出を大事にする天理では、それがどんなに美しくても、相容れることはなかったのかもしれません。
天理はどこまでも美しく、そして気高かった。しかし、天理が天理であるが故に、彼女が無償の愛を注げば注ぐほど、桂馬との距離は離れるしかなかった。天理が天理で在り続ける限り、決して結ばれることはないなんて、なんて残酷な話だろうか。
又、月夜のところで書いた天理と月夜の決定的な違いは、友人の存在です。天理には、月夜と違って桂馬のことを、女神の宿主であることを共有する友人がいません。月夜が栞という知己を得たのに対し、天理は他の宿主とは学校が違い、交流を持つことが出来ません。元々が内向的な性格ということもあり、自分から積極的に連絡を取るようなことも、きっと出来ないでしょう。
天理にはディアナが残りました。けれど、逆に言えばディアナしかいないのです。もし、何かの理由でディアナが天理の中から姿を消してしまったら? 天理はきっと、その事実に耐えられないでしょう。また、天理自身も自分にはもうディアナしかいないという、そういう気持ちを抱かざるをえないと思います。つまり、今まで以上にディアナに対する依存心が増し、最終的なディアナ離れが出来なくなるかもしれないのです。
ディアナ自身、天理に対してはかなり過保護な方ですし、この二人が幸せを探すというのは、言葉以上に難しいことなのかもしれません。まあ、一生一緒にいても良いじゃないかと、そういう考え方も出来ますけど。最終的にはディアナと一体化して、天理自身が本当の女神になったりとかね。永遠や究極といった意味では、一つの答えにはなるかと思います。
それから長年の疑問として残っていた、ディアナの翼が出た理由ですが……
恐らく天理はディアナに真実を話し、手紙を見せたのでしょう。まさか、手紙の内容があんなのだとは思っていませんでしたから、女神篇と過去編の頃は天理が好きなのは過去に訪れた桂馬であり、今ここにいる桂馬ではないことを伝えたのかと思いました。好きだけど違う、まだ、自分たちは本当に再会していない。
過去編で、天理が桂馬を過去に飛ばそうとしていたとき。彼女はいつも以上に顔を赤らめ、どこか興奮していたように思います。やっとここまで来たよ、という台詞と、後にドクロウといたときに言った、桂馬くんに追いついたよ、という台詞。天理の消極性は、自分がまだ桂馬と対等でない、本当の桂馬と再会していないからこその遠慮だと感じていました。つまり、帰って来てからが、彼女が積極的になる瞬間なのだと。
でも、現実は違いました。天理が翼を出すために必要な決定的な言葉は、手紙に書かれてなどいなかった。お前を選ぶとも、お前が好きだとも、そんな夢みたいな台詞は、ただの一つも存在しなかった。
女神篇の終盤であった、天理とディアナのやりとり。
「桂馬くんは……」
「て、天理………!! どうしてもっと早く言わないのです」
天理は桂馬に、ディアナと今後のことを話しあったと告げています。つまり、このとき既に天理はディアナに真実を、桂馬の想い人がちひろであることを伝えていたのでしょう。ディアナは自分の翼が出ない理由は、自分の中にある罪悪感が原因だと推測していました。天理の想い人を、自分まで好きになってしまったことへの罪悪感。
でも、天理がもしその相手と自分が結ばれることはないと知っていたら? 天理が捧げていたのが、無償の愛なのだと分かったら? ディアナには罪悪感を覚える必要がなくなります。無論、ディアナ自身も失恋することにはなりますが、天理が持っていた大きすぎる無償の愛か、あるいはディアナ自身に対する親愛の情を、ディアナは感じ取ることが出来たのかもしれません。だから、翼を出すことが出来た。
それに、翼が出なかったのはおそらく罪悪感だけじゃない。天理は自分が桂馬と結ばれない宿命にあることを知っていたから、彼からの愛を得られないこと分かっていたから、消極性や遠慮が、翼を折りたたんでいたのかもしれない。
ただ、そうすると一つの疑問が湧いてきます。今となっては茶番に等しくなった女神会議において、ディアナはとある発言をしています。女神会議は、まあ、会議と言うよりはお菓子を食べながら女神達がだべっている、という感じのものでしたが、議題は桂馬とのことをどうするのか、というものでした。女神達は当然のことながら、桂馬への愛が強い宿主の誰かが、最終的に桂馬と付き合うものだと思っていました。女神の宿主というのは、ある意味で攻略ヒロインたちの振り落としのようなものでしたから、エルシィやハクアを除けば、確かに宿主6人の中から誰かが選ばれるというのは、自然な流れだったのかも知れません。当然のことながら女神達は自分の宿主を推しますが、アポロがそんな現状に対して、こんなことを言いました。
「今さらどーにもならん。成り行きにまかせるぞよ!!」
それに対するディアナの発言は、
「そんな無責任な!! 天理はどーするんです!!」
この様に天理のことを考えた発言をしています。仮にディアナが女神篇の終盤で桂馬の真実を知っていたというのなら、ここでまだ桂馬に対して脈や可能性があると思っているのはおかしな話であり、翼が出たことと矛盾します。それに加えて、この話し合い自体が茶番であることを自覚しているはずです。
勿論、天理がほんの僅かに抱いていた夢や希望にディアナも賭けていたのだと、そういう解釈も出来なくはないのですが……ディアナ自身、上記の台詞を除けば積極的に天理のことを推したりしてないんですよね。もっとも、自分自身が桂馬を好きになってしまった事実を姉妹に突っ込まれたからでもあるんだけど。
女神達は過去に行った桂馬の身体、その占有権について争い、それが過去編の合間に挟まれる現代劇として繰り広げられました。各宿主が、自分の知らない子供の頃の桂馬と接した訳ですが、これもまた、最終回を読んだ後だと茶番になってしまう。これじゃまるで、女神達は、道化を演じていたようなものです。
ちなみにそんな女神達ですが、私は彼女たちがまだいることを前提に感想を書いてきましたが、実は既にいないという可能性もあったりします。女神は動体巨人と戦った後、あかね丸を完全修復しており、確かに登場人物紹介欄では各ヒロインとも女神の宿主として紹介されていますが、少なからずその事実は揺らいでいます。根拠としては月夜がルナを連れていなかったこと、それに加えてディアナ以外の女神が一切登場しなかったことと、ディアナ本人の台詞から。
「天理が幸せにたどりつくまで、私はいつまでも天理のそばにいますよ」
この台詞はディアナが天理の為を思って言った温かみのある言葉ですが、天理が幸せに辿り着くまでそばにいる、ということは、天理が幸せに辿り着きさえすれば、ディアナはいつでも彼女の元を離れることが出来るとも解釈出来ます。つまり、宿主の肉体から出ることが可能なのです。
女神の力というのは、愛の力によって段階的に上がっていきます。まず、初回攻略時の影響で女神の意識が目覚める。そして記憶が戻ることで女神の輪が出現し、宿主の身体を動かすことが出来る。更に翼の出現があった訳ですが、段階としてこれは最終形態という訳ではありません。最終的には女神が宿主の身体を離脱し、女神として完全に復活するまでが、女神の覚醒なのです。
では、最終回までに女神達はどの程度の復活を遂げていたのでしょうか? 女神篇以降、桂馬は一週間引き籠もっていたこともあり、宿主達とは顔を合わせていません。栞がふて腐れ、歩美がイライラを募らせていたのはそれが理由ですし、あまり気にしていなかったのは、多忙なかのんと結、それに月夜ぐらいでしょうか? 月夜はルナことウルカヌスという話し相手がいたので暇をしなかったのかも知れませんが、栞や歩美は明らかに感情面でのばらつきを感じられます。逢えない分だけ想いを募らせて、というならともかく、栞などは名前を聞くのも嫌になっていましたからね。
そう考えると、女神篇以降の宿主達は桂馬に対する愛情が下がることはあっても、上がることはないように思えます。最終回の、少し前までは。
ここで忘れてはいけないのが、宿主達が桂馬を帰還するために使ったのも女神の力、つまり愛情の力であると言うことです。天理は歩美を始めとした宿主の少女たちに桂馬の手紙を見せて、桂馬の考えや、少女たちへの気持ちを伝えることで、愛の力を増幅させました。その結果、時間渡航機は修復されて、桂馬は帰還します。
その後は女神達と動体巨人のバトルが始まる訳ですが、女神はその圧倒的な力でこれを撃ち倒すのです。女神が勝負を決めたのは女神篇も同じですが、あのときは戦闘らしい戦闘を行っていません。精々、敵の本拠地を叩き潰したぐらいです。もし、巨人と戦っていたときの女神が、既に宿主の身体から離脱出来るほどの力を取り戻していたとしたら?
しかし、これには幾つかの無理があります。巨人達との戦いで、女神達は当然のことながら宿主の身体を傷付けないことを前提に敵を片付けることを決めました。もし、女神達がこの時点で宿主の身体を離脱出来たのなら、傷を付ける心配からも、女神として現界して戦えば良いだけの話であり、そう考えると身体を出るほどには力が戻ってはいなかった、という可能性の方が強いのかも知れません。勿論、宿主の身体を放置した状態で巨人とは戦えなかったと考えても良いのですが、そんなの女神の誰か一人が防御に徹して宿主と桂馬を守れば良いだけの話ですし、そもそも巨人は女神が苦戦するような相手ではありません。女神の力が、地上では宿主に宿らなければ発揮出来ないならともかくとして。
いずれにせよ、女神が既にいない、あるいはいつでも宿主から離れることが出来る状態にあることは可能性として決して低くありません。宿主の桂馬に対する愛情が今現在どうなっているかにもよりますが、そうでないと女神は宿主の寿命が尽きるまで、身体を出ることが出来ないかも知れないから。
また別の恋をして、愛の力を貯めれば良いという考えはあるのかも知れませんが、結が言うように「こんなすごい恋、もう二度とないかもしれない」訳ですから、今の時点で身体を抜け出せる状態になければ、後々のチャンスがないと思うんですよね。だからこそ、桂馬には女神が宿主と別れるぐらいまでは、見守っていて欲しかったんだけど……あそこまで行ったなら、後少し背中を押すだけで済んだと思うし。天理はともかくね。
天理のことも含めて、不満があるなら二次創作でやればいい、みたいな意見を見かけます。描かれることのない天理へのフォローや救済を二次創作で、と言う訳ですね。正直言って、簡単に言ってくれるな、という気分です。勿論、そういう事象は多々ありますし、中には原作断罪系なる、原作の展開や結末を否定するためだけに書かれているような、そんな作品もあります。
だけど、それとは全く別の理由で、私は天理を二次創作で救済することに、心理的な抵抗感を覚えています。少し複雑な話になるんですが、私は天理が選ばれなかったこと、桂馬と結ばれなかったことへの悲哀や悲嘆を感じてこそいますが、逆に桂馬が天理を選ばなかったことについては、これといった怒りも憤りも感じてないのです。
先週までは、前回までなら確かにそういう感情もありました。天理の10年の献身を何だと思ってるんだとか、この恩知らずとか、そんなことを桂馬に思ったのも事実です。
けれど、天理に宛てられた手紙を見たとき、
「あぁ、桂木桂馬という男に鮎川天理を幸せにすることは無理なんだな」
というのを直感的に悟ってしまったんです。
天理が桂馬の隣にいる事実に幸せを感じることは出来ても、桂馬が天理を幸せにしてやることは絶対に出来ない。あの手紙が、それを決定づけてしまった。
桂馬は確かに天理の傍だと、ゲームし放題だし、自分をさらけ出して、自分が自分でいられるかもしれません。天理はゲームしてる桂馬くんが好きだと言ってますから。しかし、桂馬はゲームに満足することはあっても、天理が隣にいることへの幸せや喜びは感じないと思います。ましてや、それを与えてあげることなど不可能でしょう。
天理もまた同じです。桂馬の幸せを見守ることは出来ても、彼女自身が桂馬を幸せにすることは今のままではおそらく出来ない。
そして桂馬は、自分の思い通りにならない存在に惹かれる傾向にあります。彼が選んだエンディングがそうですし、基本的に桂馬の言うことはなんでも聞いてしまう天理では、彼の心を動かすことが出来ないのです。過去篇で桂馬が天理に突き動かされたのは、天理が桂馬の言いつけを守らず、彼を自分の意志で引き戻したから。それに桂馬は感銘を受け、天理は彼の心の琴線に触れることが出来たのでしょう。でも、普段の天理にはそれがない。
だからこそ、私は天理を二次創作や同人誌で救済しようとは思いません。あの酷薄とした手紙の文面を読んだ上で、それでも天理と桂馬をくっつけるというのは、捏造や妄想、よく言っても願望にしかならないからです。故に、桂馬×天理も、天理×桂馬もあり得ないのです。それぐらい、私にとっては決定的なものでした。
せめて、もう少し早くロミオとジュリエットの意味に気付くことが出来れば、こんなことにはならなかったかも知れません。なまじ、それより前の回が衝撃的だったから、あの舞台が二人の結ばれない宿命を案じていたことに、気付くのが遅れてしまった。
天理はあの舞台で、これも運命だと言った。桂馬はそれを否定した。運命を壊すために、自分たちは戦うのだと。つまり、このとき桂馬は自分が天理と運命共同体になることを否定しています。故に天理は、あの不思議空間で歩美にこう言いました。
「私…桂馬くんが好きだよ。でも桂馬くんは、こんなの運命じゃないって言った…」
「それでも私は、10年待ってたんだ」
「私は、桂馬くんに会いたいよ!!」
この台詞、この発言、今にして思えば天理は自分に脈がないこと、桂馬とのエンディングがないことを自覚していたのでしょう。読み返せば幾らでも出てきそうですが、天理はそれでも桂馬に会いたかった。僅かな夢に賭けたのか、それとも無償の愛を貫いたのかは分かりませんが、ジュリエットはロミオのために最後まで身を捧げたのです。
だけど、それと同時にこうも思うのです。ロミオはジュリエットの死を嘆き悲しみ、彼女の後を追って死を選びました。桂馬は、自身のジュリエットたる天理に、そこまでの感情を向けてくれたのでしょうか? 天理はロミオである桂馬のために身体を張って、心を開いて接しました。しかし桂馬は、シンデレラにガラスの靴を届けることばかり考えて、天理のことをあまり観ていなかったのではないか。
「それでも私は、10年待ってたんだ」
10年という月日をずっと待ち続け、自分に運命もエンディングもないことを悟りながら、それでも桂馬と本当の再会を果たしたかった天理。
せめて天理がシンデレラだったなら、彼女が持っていたのが剣でなく、ガラスの靴だったなら……きっと結末は、違うものになっていたことでしょう。
勿論、幾つかの希望はあります。
ユピテル篇に入る直前、桂馬が巡った幾つかのパラレルワールド。かのん100%などもあの中に含まれるそうですが、もしかしたら、天理が桂馬と結ばれる世界観もあるのかも知れない。
でも、それはあの浜辺で泣いている天理じゃないんです……
天理の涙を拭うことは、誰にもできません。
ディアナにはそれが出来るかも知れませんが、少なくとも、鮎川天理という少女が涙を流して作品を終えたのは事実です。
しかし、作者である若木民喜が筆を置いた今、世界はディアナの言うとおり結末のないものになりました。用意された結末は終わり、誰もが考え、悩み、まだ見ぬ道を歩いて行く。
かつて、天理が未来への扉を開いたように。
空の向こうにある、未来に向かって。
6年間の連載、お疲れ様でした。
単行本最終巻の発売、楽しみにしています。
※発売日中に作者ブログの方が更新されたので、上記考察に補足を加えるため、おまけを書きました。まだ読んでもいいという人がいたら、おまけにお進みください。
感想おまけ→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404231546152015/
神のみぞ知るセカイ FLAG268「未来への扉」 感想 その1
2014年4月23日 神のみぞ知るセカイ
何から書いて良いのか。何を書くべきなのか。
それについての悩みは、あまりなかった。最終回を読んだとき、私が書こうと思ったのはやはり天理のことだった。私が天理を好きだから、というのは勿論あるけど、それはこの物語の主人公やヒロインが、最終的な意味で天理だったのではないかと思うからだ。
神のみぞ知るセカイという作品の主人公は桂木桂馬であり、確かに物語全体はごく僅かな例外を除けば彼の物だろう。そしてそれが完結した。
けれど、最後の最後に、彼の物語が終わった後があるのだとしたら? 作品を締めくくるのが誰か、それによって印象は大きく変わってくるはずだ。
とはいえ、天理のことだけを書き始めても意味が通じないので、最初は最終回の流れを普通に追っていくことにする。前回までの流れを簡単におさらいすると、女神とその宿主達の尽力によって現代へと帰還した桂馬は、このゲームを終わらせるためにエンディングを選んだ。相手はちひろ。女神篇で、彼が傷付けてしまった元攻略対象だ。
桂馬が彼女に告白したシーンが物語の引きになり、そして最終回へと続いている。
けれど、最終回はその告白シーン続きから始まっている訳ではない。桂馬が海辺の公園で会っていたのは、彼を電話で呼び出したドクロウ……いや、二階堂だった。彼女は桂馬と対話することで前回から最終回の間に何があり、どうして桂馬がちひろに告白したのかなどを読者へと解き明かしていく。
桂馬曰く、ちひろへの告白は物語を終わらせるための一環。つまり、彼に関わった少女たちを解放するために行ったのだという。宿主の少女たちが自分に気持ちを残したままでは物語を終えることは出来ない。だから自分が誰か一人とくっつき、独り身でなくなれば、関係を終わらせてラブコメを強制終了出来ると考えたようだ。
桂馬の言うシステムに対して、二階堂は「自分勝手な理論だ」と切り捨てる。確かにそうだろう、これは後述することになるが、桂馬はかなり自分勝手な行動を取った。
では、その相手がどうしてちひろだったのか? 誰か一人を選ぶなら、それは宿主の中からでも構わないはずだ。現に女神達は桂馬の帰還後、誰が桂馬の恋人になるのかで揉めていた。それ故、過去編の合間に宿主と桂馬の話が何度も差し込まれたのだし、彼女たちは皆が皆、桂馬のことを愛していた。
宿主の中から選べば角が立つ、という考えは確かにある。だが、桂馬はそれを理由として挙げていないし、女神達も、自分の宿主が選ばれなかったからといって桂馬を殺したり、他の宿主を害したりはしないだろう。彼女たちは神であり、尋常ではない部分も目立ちはするが、思考の上では決して曲がってなどいない。でなければ、女神にはなれない。
そしてそれは、宿主にしても同じだ。例えば……ここで名前を挙げるのは本当に心苦しいが、桂馬が宿主の中から天理を選んだとしよう。宿主の中で天理のことを知っている者はおらず、かのんが見かけたことを除けば、全員が初対面だったはずだ。つまり、宿主達にとって天理とはよく知らない相手であり、どういう存在かが分からない。
ここで重要となってくるのは、ちひろのことを知らない宿主がいると言うことだ。月夜と栞のことであるが、彼女たちは桂馬のクラスメートではなく、又部活動の繋がりもないため、他の宿主と接点が薄い。歩美や結、それにかのんはちひろのことを知っているが、彼女たちはおそらく存在すら認知していなかっただろう。
故に、月夜と栞に限って言えば天理もちひろも存在としての重みや認識度は、それほど大差ないことが伺える。
では、何故桂馬は明確に自分を愛してくれている宿主の少女ではなく、ちひろを選んだのか?
話は前後するが、二階堂との会話の中で桂馬はちひろに振られたことを語っていた。女神篇で桂馬がちひろを突き放したときと違い、随分とギャグ調の描かれ方をしてはいるが、桂馬はちひろに振られたのだ。
これが宿主ならどうだろうか? 桂馬が独り身を止めたいなら、誰か一人とくっつきたいのであれば、宿主から選んだ方がずっと効率が良い。何故なら宿主達は心の底から桂馬を愛しており、選ばれれば拒むことはまずないからだ。すぐ両思いになれる。桂馬が誰かと恋人同士になることがこのエンディングにおけるシステムの一環だというなら、そうすべきだった。
相手がちひろの場合、ちひろが告白を受け入れないことにはこのシステムは完成しないのだ。振られてしまえばそれで終わりに近く、宿主達はそれなら自分がと思ってしまうことだろう。そうなっては、物語はこの先も延々と続いてしまう。
なのに、桂馬は敢えてちひろというシステムの完成に相応しいとは言えない相手を選んだ。桂馬は分かっていない、言うとおりにならないことに文句を垂れていたが、それなら思い通りになる相手を選べば良かっただけの話だ。
「だから、好きになったんだろ?」
桂馬のこうした自己矛盾に対して、二階堂が投げかけた言葉は実にシンプルだった。桂馬はちひろのことが好き。蓋を開けてみれば、なんとも単純な理由があった。何故、桂馬はちひろを選んだのか? 簡単な話、彼は彼女のことが本当に好きだった。それだけのことなのだ。理論や理屈など、本音を隠すための建前でしかない。
桂馬が少女たちを解放しようとしたこと自体は、嘘ではないのだろう。だが、その為にちひろを選んだのは必ずしも本当のことではない。逆なのだ。桂馬は自分の恋を成就させるために宿主達を切り捨てたのだ。それは優しさではなく私欲に近く、発想と方法そのものは前回のエルシィと被るものがある。
話が少しずれてしまうが、前回においてエルシィはラスボスとしての力を発揮し、人間の少女として、桂馬の妹、桂木えりとして転生を果たした。エルシィという悪魔を捨てて、桂木家の家族になることを望んだのだ。
エルシィに関しては予期されていた部分もあったが、ラスボス告白が唐突だったこともあり、何の感慨も湧かなかった、というのが私の正直な感想だ。人間に転生した件に関しても、エルシィは確かに幸せそうであるが、そもそも彼女は別に不幸ではなかったはずだ。確かに戦災孤児という身の上で、救命院の出身というあまり恵まれてない環境ではあっただろうが、彼女自身がそれをトラウマに感じていたり、負い目に思っている描写はほぼ無かったと言っていいだろう。むしろ、駆け魂隊というエリート職に抜擢されたことを誇りに思い、喜んでさえいた。
では、前世はどうなのか? 前世のエルシィは旧地獄における最強の兵器だったという。詳細は明かされてないが、女神達が蹴散らした動体巨人などに比べれば、よっぽど強いのだろう。確かに、前世のエルシィは不幸だったのかも知れない。その最強兵器に本人の意思というものがどこまで存在していたかは疑問だが、本当は嫌々やっていたというのなら、それは災難だったことだろう。
しかし、今のエルシィは違う。エリュシア・デ・ルート・イーマという悪魔に生まれ変わった少女は、決して不幸などではない。彼女には尊敬する姉がいて、同じ身の上の仲間が500人ぐらいいて、彼女のことをとても気に掛けてくれる親友がいた。エルシィはこの世界が好きだと桂馬に言った。その言葉が真実なら、彼女は世界に不満など覚えていなかったことになるし、自分自身に幸福だって感じていたはずなのだ。
なのに、エルシィは自らエルシィという存在を捨て、悪魔から人間になった。彼女は世界を改変したと言うより、周囲の記憶を書き換えたのだと思っているが、その結果として失われたものがある。そう、親友ハクアの記憶だ。
ハクアはエルシィの学生時代の親友であり、客観的に見てもお互いとても仲の良い間柄だった。しかし、エルシィが自分自身の存在を消して、桂木えりという存在と記憶を作った時点で、ハクアからはエルシィの記憶と、そしてかなりの確率で桂馬の記憶も失っている。エルシィという悪魔が最初からいなかったのであれば、ハクアが桂馬に出会った事実さえも存在しなくなるからだ。つまりハクアは、親友と想っていた相手から一方的に切り離され、想い人である桂馬のことさえも忘れてしまったのである。
これはハッキリ言ってハクアにとっては酷な話であるし、特に自分でも気付かぬうちに桂馬の存在と彼に対する想いを消失したのは哀れとしか言い様がない。ハクアはエルシィに捨てられたのだと言っても、決して間違いではないだろう。そしてエルシィには、何が何でも桂木家の家族に、桂馬の妹になるという必然性が存在しない。彼女は確かに両親こそいないが、駆け魂隊という職があり、イーマ家という身よりもある。駆け魂隊はおそらく解散になるだろうとハクアは言っているが、それならば尚のこと、エルシィには親友のハクアと協力して地獄の再興をしていくという選択肢が、エンディングがあったはずなのだ。ましてや、地獄を今みたいな焦土に変えたのは旧地獄時代に最強兵器のエルシィと、英雄ドクロウが戦った結果なのだから、それに対する責任というものもあるだろう。極端な話、エルシィの同胞である500人の孤児達は、エルシィによって親を殺されたも同じなのだから。
しかし、エルシィはそうしたエンディングを選ばなかった。ハクアや生まれ故郷の地獄を切り捨て、桂馬の妹になることを選んだ。これはエルシィの中に天秤があったとして、桂馬の方がハクアよりも重かったと考えるしかない。親友や故郷よりも本当の家族を、桂馬の妹になることの方がエルシィにとっては重要だったのだ。そしてそれは、間違いなくエルシィ自身の中にあった私欲だろう。
話を戻し、最終回の桂馬の発想や行動には上記で挙げたエルシィに近いものがある。エルシィが自らの存在そのものを放棄したように、桂馬は自らの役目を放棄して、物語を強制終了させようとした。彼自身が本当に好きな、ちひろと結ばれるために。宿主のためなどではない、彼は自らの私欲であるちひろとの恋を優先したのだ。
二階堂は言う。ちひろに桂馬の気持ちは伝わっていると。しかし、歩美の件はあるし、結やかのんとも顔見知りというしがらみの多いちひろにとって、答えは簡単に出せるものではない。だが、桂馬は「初めて現実で本気になった」という二階堂の言葉を、否定しようとしなかった。つまり、桂馬はちひろが本気で好きなのだ。
二階堂との別れ。彼女は桂馬にPFPを返却する。今まで取り上げた数、一体いくつあるのかは分からないが、ボクばかり目の敵にと言う桂馬は、やはりまだどこかずれているように思う。だって、教師が授業中にゲームをやってる生徒に注意するのは普通だし、没収するのだって当たり前だろう。二階堂を、ドクロウを助けたのが桂馬だからといって、それは次元の違う話のはずだ。
しかし、これには意外な真実が待っていた。何故、二階堂が桂馬に絡んでいたのか。どうして事あるごとにPFPを没収していたのか。
「だって、他の女の子と仲良くしているからだよ」
桂馬に正体が明かせなかったが故の、密やかな嫉妬心。二階堂はゲーム女子に嫉妬をしていたのだ。桂馬を愛するが故に、自分の授業を聞かない、自分を見てくれない桂馬に、彼女は憤りを感じていたのだろう。PFPを没収したのも、彼女なりのスキンシップだったのかも知れない。だが、ゲーム女子には嫉妬するのに、どうして相棒だったリュミエルとの一件は笑うだけだったのだろうか? 始終、リュミエルのペースだったこともあるが、自分に近しい存在が桂馬と親密な交流を結んだともなれば、少なからず感情的になっても良さそうなものだが。
二階堂は去って行く。教師を辞め学校から、そして桂馬の前からも。新地獄と人間界が守られたとき、二階堂の役目は終わったのだ。桂馬は瞬間的に引き留めるが、二階堂は待たなかった。振り返ると二階堂ではなく、ドクロウに戻ってしまうから。しかし、それでも、彼女は桂馬への想いを隠しきれない。最後の最後、彼女は教師の二階堂ではなく、桂馬の妹だったドクロウとして、その笑顔を見せたのだった。
「ありがと…お兄ちゃん」
……二階堂ことドクロウの話は、過去編、ユピテル編の総まとめとも言えるだろう。彼女がこの先どうするかは分からないが、新地獄に居場所があるかはなんとも言えない。半身だった室長のドクロウは処刑されたし、ハクア辺りが名誉回復に奔走してくれる可能性もなくはないが、それでも室長と二階堂は別人で、彼女は既に人間だ。
長年相棒を務めていたと思われるリュミエルなら、新地獄での地位も相成って身元を引き受けてくれるだろうが、おそらく二階堂は身の振り方は自分で選ぶだろう。その結果、リュミエルの元に行くのか、新たな道を探すのかは分からないが、彼女には彼女の、次の人生が待っているはずだから。
宿主達のその後。桂馬から振られた形になる宿主達はそれぞれが複雑な心境を抱いていた。特に月夜はそれが顕著で、図書室で栞に対して様々な不満を言っている。
「もう最悪!! 最悪中の最悪なのですわ!!」
「あんなこと突然言われても!! こっちは何が起こったのかすらわからないのに!!」
月夜の台詞から察するに、桂馬は帰還と同時にちひろのことを打ち明け、本命の女子が、好きな子がいることを告げたらしい。天理以外の攻略女子は訳も分からぬままに白鳥家に集められ、何が起こっているのかも把握できないままに桂馬の帰還作業に従事した経緯がある。
だが、あのとき白鳥家に集まったのは間違いなく桂馬のために全てを犠牲にできる少女たちだった。それは、結の言った「桂馬くんのためなら命も惜しくない」という台詞に、月夜が同意していることからも分かるだろう。栞だけは何度もすっぽかしを食らった後だったから、そこまであっさりとは決められなかったかもしれないが、最終的な意味では彼女の意志も同じだったに違いない。
これは前述したことだが、月夜と栞の共通点はちひろのことを知らないことだ。後に出てくる歩美や結と、彼女たちの違いはそこだろう。それ故に、桂馬が自分の気持を告げたときは少なからず、いや、大いにショックだったと思う。
特に月夜は以前、栞に対してこのように語っていた。
「桂馬との想い出は…大切な想い出なのですね」
「だから知りたいのですね。桂馬のことをもっと…」
月夜は自分が出会い、恋した桂馬が本当の彼自身でないことに薄々気付いていた。だからこそ、彼女は本当の桂馬を知ろうとしていた。何故なら、月夜は桂馬が好きだから。愛しているから。そして、栞にとってもそれは同じことだ。ベクトルや視点は少なからず違うが、栞も自分の身に降りかかった出来事に対して関心を持ち、その全容を調べたいと考えていた。栞自身は様々な事情から桂馬に好感を抱けないでいたのだが、彼女が調べるにあたって桂馬の協力や、彼との交流は不可欠だっただろう。
しかし、桂馬は月夜と栞にそうした時間を与えなかった。月夜がもっと桂馬のことを知りたいと思った矢先、彼との想い出を大切なものだと栞に打ち明けた直後、桂馬は二人を他の宿主と一緒に突き放し、その機会を奪ってしまった。月夜は少なからず感情に左右される一面があるので、そのショックは計り知れないものがあっただろう。
不思議なのは、そうした桂馬の決断にルナが、ウルカヌスが激怒しなかったことだ。言ってしまえば、桂馬は月夜の想いを踏み躙り、彼女を傷付けたことになる。正義の女神であるウルカヌスは、時として月夜の意思以上に桂馬に対して辛辣で苛烈な行動を取る。天罰を下したって、おかしくはなかったはずだ。
しかし、月夜は桂馬のことを非難しているが、立ち直れないほどショックを受けているようには見られない。これは月夜がある程度この結果を予期していたからかも知れないが、それと同時に友人となった栞の存在が大きいだろう。高校で友達らしい友達のいなかった月夜にとって、栞はルナ以外で初めて出来た友人に等しい。栞という桂馬に対する愚痴を言える相手がいるからこそ、月夜の感情はある程度の部分で抑制されているのだ。
もっとも、桂馬がそこまで計算していたとは考えにくい。何故なら、彼は月夜と栞が友人関係になったことなど知らないし、これは結果的にたまたま結びついた出来事にすぎない。ふとした偶然が、脆く崩れそうな月夜のことを支えることになったと言えよう。
一方の栞はどうだろうか? 外面似菩薩内心如夜叉とは言わないが、栞は外面の内向性に比べると、内面での感情爆発が目立つ少女だ。そして人との交流が少なく、本で読んだことをそのまま自分の感性に反映させてしまうから、性格的には桂馬に似ているとも言われ、どこか単純な一面があった。栞は桂馬に散々すっぽかされたことを怒っていたが、彼女が怒る理由は実にシンプルで、それは女神篇における月夜と同じものがある。つまり、桂馬が栞の前に姿を現さなかったからだ。
宿主達はおそらく全員、桂馬が初恋の相手だったはずだ。桂馬が初恋の相手であり、ファーストキスの相手だった。そして、個別攻略と女神篇における再攻略を経験した栞の下した結論は酷く単純なものだった。自分は桂馬と二度キスをした。それなら自分たちは、一般的に考えて彼氏彼女の関係だろうと。
栞は自分のこうした考えが誤解であるとは思っていなかったはずだし、桂馬自身、攻略という名目で栞に迫った事実がある。ましてや、栞の女神であるミネルヴァは、月夜の女神であるウルカヌスと同じく、宿主に事情を説明していない。だから、栞の考えはある意味で正しく、また、ある意味では完全に外れてしまっているのだ。そして、彼女は月夜と出会うことで真実の一端に触れることとなる。
乙女の純情や純真を汚した桂馬を、栞がどのように考えているのかは分からない。やはり、彼とのことは悪夢だったと思っているのかもしれないし、案外、それほど気にしていないのかもしれない。だが、月見に誘う月夜の声も届かないほどに、栞は真実の探求へと躍起になっていた。要するに、自棄っぱちという訳だ。
栞の探求がどこまで真実に近づくか、たどり着けるのかは分からない。ミネルヴァと、そして月夜を通じてウルカヌスの知己も得るだろうことを考えると、それほど難しくはないのかもしれない。調べたからといってどうなることではないと思うが、あるいは栞はこの出来事を本に書くかもしれないし、あるいは天界や女神のことはこれから先も続いていくのかもしれない。
月夜と栞。この二人の結末は境遇や事情と違い、それなりに明るいものだろう。特に月夜はルナ以外の、ウルカヌス以外の友人を得た事実がとても大きいように思う。現に、月夜は図書室にルナを帯同させていない。栞と二人きりの時間を楽しんでいるようにも見える。幸いにも二人は学年が同じだから、少なくとも高校卒業までは交流を続けることができるし、趣味や性格的な観点からも、そう簡単に離れるようなことはないだろう。これは後述する天理との最大の違いであり、月夜と栞が一連の出来事を経て手に入れた、一つの結果なのだ。
歩美と結については、実のところあまり書くことがない。
この二人に関しては結末と結果が明快であり、先のことも非常に分かりやすく見通すことが出来るからだ。結は桂馬の告白をあっさりとした形で認め、受け入れている。彼女はショックを受けたというよりは、むしろ驚いたといった感じで、桂馬に本命がいたという事実に意外さを覚えたのだろう。
歩美もまた桂馬の告白を、ちひろに対する気持ちを受け入れていた。歩美の発言や、僅かに描かれた帰還時の一コマから察するに、やはり桂馬は帰還した途端にちひろのことを言い出したことが分かる。その際、桂馬は細かい説明を行ったようだが、それが何時間にも渡る説得なのか、ちひろに対する思いの丈を語ったのか、その詳細は明らかにされていない。だが、歩美はいつものあいつのペースといい、騙されそうになったとも言っていることから、どこか落とし神としての部分を残しつつの、口八丁だったのではないだろうか。
本当に桂馬のことを好きになってしまった歩美からすれば、この結末は決して満足がいくものではない、不快感が残るものとなっただろう。なにせ彼女の場合は両親の前で結婚の約束というか、結婚することを告げてしまったわけで、実際に挙式まであげてしまっている。しかも、桂馬は一度ちひろを振った上で歩美に告白してきたのであり、またちひろの元へ行くのかという憤りを感じてもおかしくはないはずだ。
現に歩美は桂馬に対する不信感を原因に、宿主達と協力することを避け、天理に対する嫉妬心を抱いていた。戻ってきたら一発殴る、もしくは蹴りつけるみたいなことを言っていた気もするし、ここでまたちひろが好きだなどと言われれば、怒りで爆発してもおかしくない。
けれど、歩美はそうならなかった。結があくまで前向きに、桂馬のことを諦めないと宣言しているのに対し、歩美はギブアップすると、戦線離脱を表明している。
「相手が悪いよ……」
歩美の言う相手とはちひろのことであり、彼女には恐らく分かってしまったのだろう。桂馬の気持ちが本物であることを。そして、歩美はちひろの中にあった桂馬への気持ちが本当の恋であることも、知っていたのだから。
ちひろとは幼馴染だから応援に回る。普通だったらとても出来そうにもないことを、歩美は呟くように言うが、これは少なからず納得が出来る話だ。桂馬が天理に宛てた手紙の中にあった歩美評、歩美はとにかくいい奴で、友達が困っていたら何百キロでも走って駆けつける、めちゃくちゃ優しい奴だという解説に、ぴったりと嵌るからだ。歩美にとってちひろは幼馴染であり親友だし、彼女がこのように考え、自身の初恋を諦めることは決して不思議な話ではない。ちひろと桂馬を取り合うことなど、歩美にはまず出来なかっただろう。
結の一連の出来事に対する感想は非常にさっぱりしていて、「だってこんなすごい恋、もう二度とないかもしれないじゃないか!!」という言葉は、彼女の中の明確な変化を表しているとともに、一つの可能性も提示している。結は続けて「僕はまだ桂馬くんを諦めてないよ」と言うわけだが、決して自分の新しい恋を否定はしていない。桂馬との間にあった凄い恋は二度とないかもしれないけど、それは逆に、それ以外の恋があるかも知れないことを示唆しているわけだ。
であるからこそ、歩美と結の今後はある程度の部分で見通すことが出来る。桂馬とちひろを応援することに決めた歩美と、桂馬を諦めないとしつつも、新しい恋に出会うかもしれない結。この二人の長所は互いに前を向き、前に進み続けることだから、小さな躓きはあるかも知れないけど、大きく転ぶことはもうないのだろう。心の隙間も、埋まっているのだから。
シーンは移り変わり、再びPFPの入ったダンボールを抱える桂馬に戻る。よく壊されていたとはいえ、桂馬にとっては大切なものだから粗雑には扱えない。
しぶしぶと重たさを我慢しながら帰路に着こうとする桂馬の前に、ちひろが姿を見せた。何故、ちひろがここに現れたのか、どうして桂馬の居場所を知っていたのかは分からない。二階堂が最後にサービス精神を発揮したのかもしれないし、もっと別の理由があるのかもしれない。でも、それは読者にとっても桂馬にとっても、些細なことに過ぎない。
ちひろは桂馬を前にして、視線を外したままであるが、それでも彼に言葉をかけた。
「ま…なんつーか…」
「茶でも…いかん?」
ちひろは頬を赤く染めており、そんなちひろを見る桂馬の頬も朱色に染まっていた。
この時の桂馬は酷く純朴な表情をしており、まるで恋する少年のようだった。桂馬のちひろに対する気持ちは、二階堂の指摘通り嘘偽りない本気だった。桂馬がちひろの誘いになんて応えたのかは分からない。彼は口を開くことなく、台詞を発することなく出番を終えのだから。
神のみぞ知るセカイの、桂木桂馬の物語はここで終わりを迎えた。彼が今後、ちひろとどのような関係を築けたのか。やはり、振られるのかもしれないし、付き合ったとして上手くいかなかったということもあるはずだ。何一つ思い通りにならない理不尽さ。しかし、それが桂馬の選んだリアルなのだ。
ちひろの反応からして、彼女が桂馬に脈をもたせているのは明白だろう。二人は両思いに近いから、将来的にくっつくことは想像に難しくない。
だからこそ、桂木桂馬という主人公は、この物語の幕引きに相応しくない、神のみぞ知るセカイを締めくくれない存在になってしまった。
ここで終わっていれば、桂馬とちひろは結ばれて、幸せになりましたという如何にもなエンディングになる。桂馬の耳にはエンディングテーマが聴こえていたことだろう。
だが、それはあくまで、彼個人の物語が終わったに過ぎなかった。
最後の一人が、物語の導き手の話が、まだ残っているから。
鮎川天理。神のみぞ知るセカイという物語の扉を開けた、一人の少女の話が。
随分と前置きが長くなってしまいましたが、此処から先は天理について書きます。彼女の話を、神のみぞ知るセカイという作品の、本当の結末を。
桂馬の物語が終わりを告げた直後、場面は海辺へと、あかね丸近くの浜辺へと移ります。そこでは天理が、鮎川天理が自身に宿る女神ディアナに対して独白していました。
「桂馬くんは…ずっとあの子のところへ帰りたかったんだよ…」
「わかってたんだ…桂馬くんが、全部手紙に書いてくれたから」
手紙が風で舞い上がる。天理と桂馬の10年を繋いだ、絆の証が飛んでいく。
そして、そこに書かれていた、天理が最後まで秘密にした文章。
――天理、最後に確認しておく。
――ぼくとお前とのエンディングはない。
それは決定的な一文だった。冷淡で酷薄で、残酷すぎる現実と結末。
天理は10年前のあの日から、エンディングのないルートをずっと歩き続けていた。
この手紙が、何通目なのかは明らかにされていません。1通目ということはないだろうけど、2通目か、それとも3通目か。私は天理が思い出した桂馬の姿から、2通目に書かれていたのではないか、と思います。
天理が最後に思い浮かべた桂馬の姿は、10年前の過去にあった子供のものだった。
――ボクらは全てが終わったら、別々のルートを歩いて行くんだ。
その桂馬が天理に対して、すべてが終わったとき、自分たちは別の道を歩くと明言しているのです。そして、手紙に書かれていた確認事項という冷たい言葉。これが3通目に書かれているのであれば、桂馬は天理の10年にも渡る想いを、単なる確認事項として処理したことになります。それはあまりにも非情であり、冷酷過ぎます。ましてや3通目は桂馬と再会した後に読むように言われているものです。桂馬と10年ぶりに再会し、キスしたことで幸せの絶頂となり、気絶したほどの天理に、こんな手紙を読ませるでしょうか? 10年ルートを歩いてきて、やっと再会したらエンディングがないだなんて。
そう考えると、3通目よりは2通目の方が、これからルートを歩き始める天理に向けた言葉として考えるほうが、どことなく自然な気がします。現に、ロミオとジュリエットの舞台上でも、桂馬は何度か天理の意思確認をしていますからね。ただ、小学生天理に読ませることを考えると漢字で書かれていることが気になりますが……上記の通り3通目だと桂馬の品性を疑わざるを得ないので私は2通目だと思いたい。
故に桂馬が行ったのは、10年前、天理の中に芽生えたであろう恋心を摘み取ろうとしたわけであり、10年越しの想いを踏みにじったのではないのだと思います。いずれにせよ、6歳の少女にする仕打ちとしてはあんまりですが、桂馬にはそれしか方法がなかったのでしょう。扉を開ける役は天理にしか任せられないし、かといって彼は天理の気持ちに応えることは出来ない。彼女とのエンディングを用意することは不可能だった。
だって桂馬は、あの子のことが好きだったんだから。
「それでも、少し夢見てたんだ…」
「もしかしたら、違う結末だって…あるかもしれないって……」
ショボくれる天理の姿は、なんとも言えない悲哀を感じさせます。
天理は結末が分かっていた。分かっていたからこそ、消極的にならざるを得なかった。天理が欲を見せて、桂馬との関係を変えてしまうと、未来が繋がらなくなってしまうから。ディアナは天理の消極性を不自然だと言いました。好きな人と10年ぶりに再会し、隣に住んでいるのにどうしてもっと話したいとか、もっと会いたいと思わないのかと。天理だって、指摘されるまでもなく分かっていたことでしょう。彼女自身、そうしたいと思ったことはあったはずです。
でも、天理にはそれが出来なかった。未来を繋ぐため、世界を救うためには、天理は自分の役目を果たさねばならなかったから。
更に言えば、天理は桂馬の内心や心情を見通すことが出来る人物です。それは今も、そして10年前も変わりません。天理は手紙に書いてあったからといいますが、それ以上に、分かっていたんだと思います。桂馬が本当は何を望み、誰が好きなのかを。
だから天理には、桂馬のそうした本気の気持ちを奪ったり、壊したりすることは出来なかった。天理は桂馬が好きだから、愛しているから、彼の幸せを否定することなど出来るわけがなかったのだ。
10年の想いが風と共に舞い散る中、天理に宿る女神、ディアナが声を掛けます。
エンディングのないルートを歩いてきた天理にとって、この10年は決して得るものが多かったとはいえません。しかし、残るものは確かにあったのです。ディアナという、10年の苦楽を共にした、姉妹以上の一番の友達が、天理にはまだ残っていました。
「天理は間違っていませんよ」
「私たちは決められた結末のために生きているのではありません…!!」
「桂木さんも天理も…いえ…みんなが…考え、悩み、まだ見ぬ道を歩んでいくのです」
「天理が幸せにたどりつくまで、私はいつまでも天理のそばにいますよ」
ディアナの言葉に、天理は顔を上げました。その瞳には大粒の涙が、天理が初めて見せた、後悔や未練が溜まっていました。
「天理!! ほら!」
「空を見上げましょう!!」
「私たちには未来があるのです!!」
天理が空を見上げ、ディアナが励ましの言葉を掛けたとき、エルシィもまた自宅前で空を見上げていました。台詞はありませんが、その表情は笑っていて、笑顔のエルシィ、そして、天理とディアナが見上げた空を描きながら、神のみぞ知るセカイは完結を迎えたのです。
私は最後のエルシィはおまけ程度と考えているので、神のみぞ知るセカイという作品を象徴する上では、天理とディアナが幕引きを担ったと考えています。ディアナの台詞で終わるのは少なからず意外でしたが、彼女が天理に対して放った言葉は、慰めではなく励ましであり、天理を未来に導こうとするものでした。
天理はこの10年、エンディングのないルートをひたすら歩き続けていました。そして結末へとたどり着いたとき、彼女の前には何も残されていないかのように見えた。でも、ディアナはそれを否定した。天理には、私たちには未来があるのだと。
正直な話、天理にディアナがいてくれて本当に良かったと思う瞬間でした。前述のとおり、桂馬が10年越しの想い人なら、ディアナは10年来の友達です。そんな彼女が、天理が幸せにたどり着くその日まで、ずっと傍にいてくれると、支えてくれると約束してくれたのです。今の天理には、これ以上の結末はなかったでしょう。最終回であるが故に、天理にはちひろと違ってフォローや救済がありません。たとえ将来的に天理が幸せになるのだとしても、それが描かれ、読者の目に触れることはもうないのでしょう。
でも、それでも天理には未来がある。ディアナとともに歩き続ける未来が、一緒に見上げることのできる空が、残されているのです。
では、ここで少し話を戻し、何故神のみぞ知るセカイという物語の幕を引いたのが天理なのか、その理由を考えてみましょう。どうして桂馬とちひろや、他の宿主ではなかったのか? 一見すると、桂馬とちひろのパートと、天理とディアナのシーンは入れ替えても通用するような気がします。主人公が幕を引かないなんて、と思う人もいるかもしれません。
しかし、前述のとおり私は桂馬が作品の幕引きをするのはふさわしくないと思っているし、それは他の宿主に対しても同じで、天理だけが、天理とディアナだけにその資格があったのだと考えています。
一つの例えとして、銀河英雄伝説という小説作品を引き合いに出します。この作品の主人公は大きく分けて3人おり、ヤン・ウェンリーとラインハルト・フォン・ローエングラム、そしてヤンの死後、彼の後を継ぐ被保護者のユリアン・ミンツになります。銀英伝という物語は軍人皇帝ラインハルトが死去することで終わりますが、その幕引きを担当したのは意外にも残された主人公のユリアンではなく、ラインハルトの部下として活躍した、ウォルフガング・ミッターマイヤーでした。
どうしてユリアンではなくミッターマイヤーだったのか、そう問われたとき、作者である田中芳樹はこんな風に答えました。
「ユリアン・ミンツという人の未来は、ある程度固まっているからだ」
確かに作中でのユリアンは、カリンという少女と結ばれ、養父であるヤンの跡を継ぎ、軍人の後に歴史家になるという夢を語っています。そして、幾つかの記述からその将来像が現実化したことも分かっているのです。逆にミッターマイヤーは、皇帝ラインハルトを失ったことから、不確定な未来を抱えている存在であり、先行きが不透明というのもありました。
しかし、彼の下には親友から託された愛息子がおり、その息子が空を見上げ、星を掴もうとするのです。先はまだ分からないけど、未来がある。ミッターマイヤーがそれを確信しながら、銀英伝の物語は終わりを迎えます。
同じように、神のみぞ知るセカイにおいても、天理とディアナ以外のキャラクターはある程度の未来像、今後の予定や目標のようなものに見通しが立っているのです。役目を終えたドクロウは別にしても、栞は真実の探求に力を注ぐでしょうし、月夜はそんな友人を手助けするはずです。結は桂馬を諦めないとしつつも新しい道を探し、歩美はちひろを応援することに決めた。台詞のなかったかのんもまた、新曲である「歩いていくもん」という歌のタイトル通り、アイドルとして歩くことをやめないはず。そして、主人公の桂馬にはちひろとの未来が存在している。
ほとんどの登場人物が、ある程度完成された未来像を有しているのに対し、天理だけが、それを持ちあわせてはいなかったのです。10年にも渡るルートを歩き切って、天理は自分が何をすればいいか分からなかったでしょう。手紙という形で明確に否定された天理には、結と違って桂馬を諦めないという選択肢がありません。
故に彼女には展望となる未来が存在せず、また一から始めて行く必要があった。桂馬がちひろという、エルシィが妹という一種のゴールであるエンディングを迎えたのに対し、天理は今まさに、またスタート地点へと立ちました。その事実こそが、天理とディアナに、神のみぞ知るセカイのラストを飾らせた、幕引きを行わせた要因なのだと、私はそう思います。
長くなったので、この感想は2回に分けます。次は主に考察になります。
その2にお進み下さい。
感想その2→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230121171653/
それについての悩みは、あまりなかった。最終回を読んだとき、私が書こうと思ったのはやはり天理のことだった。私が天理を好きだから、というのは勿論あるけど、それはこの物語の主人公やヒロインが、最終的な意味で天理だったのではないかと思うからだ。
神のみぞ知るセカイという作品の主人公は桂木桂馬であり、確かに物語全体はごく僅かな例外を除けば彼の物だろう。そしてそれが完結した。
けれど、最後の最後に、彼の物語が終わった後があるのだとしたら? 作品を締めくくるのが誰か、それによって印象は大きく変わってくるはずだ。
とはいえ、天理のことだけを書き始めても意味が通じないので、最初は最終回の流れを普通に追っていくことにする。前回までの流れを簡単におさらいすると、女神とその宿主達の尽力によって現代へと帰還した桂馬は、このゲームを終わらせるためにエンディングを選んだ。相手はちひろ。女神篇で、彼が傷付けてしまった元攻略対象だ。
桂馬が彼女に告白したシーンが物語の引きになり、そして最終回へと続いている。
けれど、最終回はその告白シーン続きから始まっている訳ではない。桂馬が海辺の公園で会っていたのは、彼を電話で呼び出したドクロウ……いや、二階堂だった。彼女は桂馬と対話することで前回から最終回の間に何があり、どうして桂馬がちひろに告白したのかなどを読者へと解き明かしていく。
桂馬曰く、ちひろへの告白は物語を終わらせるための一環。つまり、彼に関わった少女たちを解放するために行ったのだという。宿主の少女たちが自分に気持ちを残したままでは物語を終えることは出来ない。だから自分が誰か一人とくっつき、独り身でなくなれば、関係を終わらせてラブコメを強制終了出来ると考えたようだ。
桂馬の言うシステムに対して、二階堂は「自分勝手な理論だ」と切り捨てる。確かにそうだろう、これは後述することになるが、桂馬はかなり自分勝手な行動を取った。
では、その相手がどうしてちひろだったのか? 誰か一人を選ぶなら、それは宿主の中からでも構わないはずだ。現に女神達は桂馬の帰還後、誰が桂馬の恋人になるのかで揉めていた。それ故、過去編の合間に宿主と桂馬の話が何度も差し込まれたのだし、彼女たちは皆が皆、桂馬のことを愛していた。
宿主の中から選べば角が立つ、という考えは確かにある。だが、桂馬はそれを理由として挙げていないし、女神達も、自分の宿主が選ばれなかったからといって桂馬を殺したり、他の宿主を害したりはしないだろう。彼女たちは神であり、尋常ではない部分も目立ちはするが、思考の上では決して曲がってなどいない。でなければ、女神にはなれない。
そしてそれは、宿主にしても同じだ。例えば……ここで名前を挙げるのは本当に心苦しいが、桂馬が宿主の中から天理を選んだとしよう。宿主の中で天理のことを知っている者はおらず、かのんが見かけたことを除けば、全員が初対面だったはずだ。つまり、宿主達にとって天理とはよく知らない相手であり、どういう存在かが分からない。
ここで重要となってくるのは、ちひろのことを知らない宿主がいると言うことだ。月夜と栞のことであるが、彼女たちは桂馬のクラスメートではなく、又部活動の繋がりもないため、他の宿主と接点が薄い。歩美や結、それにかのんはちひろのことを知っているが、彼女たちはおそらく存在すら認知していなかっただろう。
故に、月夜と栞に限って言えば天理もちひろも存在としての重みや認識度は、それほど大差ないことが伺える。
では、何故桂馬は明確に自分を愛してくれている宿主の少女ではなく、ちひろを選んだのか?
話は前後するが、二階堂との会話の中で桂馬はちひろに振られたことを語っていた。女神篇で桂馬がちひろを突き放したときと違い、随分とギャグ調の描かれ方をしてはいるが、桂馬はちひろに振られたのだ。
これが宿主ならどうだろうか? 桂馬が独り身を止めたいなら、誰か一人とくっつきたいのであれば、宿主から選んだ方がずっと効率が良い。何故なら宿主達は心の底から桂馬を愛しており、選ばれれば拒むことはまずないからだ。すぐ両思いになれる。桂馬が誰かと恋人同士になることがこのエンディングにおけるシステムの一環だというなら、そうすべきだった。
相手がちひろの場合、ちひろが告白を受け入れないことにはこのシステムは完成しないのだ。振られてしまえばそれで終わりに近く、宿主達はそれなら自分がと思ってしまうことだろう。そうなっては、物語はこの先も延々と続いてしまう。
なのに、桂馬は敢えてちひろというシステムの完成に相応しいとは言えない相手を選んだ。桂馬は分かっていない、言うとおりにならないことに文句を垂れていたが、それなら思い通りになる相手を選べば良かっただけの話だ。
「だから、好きになったんだろ?」
桂馬のこうした自己矛盾に対して、二階堂が投げかけた言葉は実にシンプルだった。桂馬はちひろのことが好き。蓋を開けてみれば、なんとも単純な理由があった。何故、桂馬はちひろを選んだのか? 簡単な話、彼は彼女のことが本当に好きだった。それだけのことなのだ。理論や理屈など、本音を隠すための建前でしかない。
桂馬が少女たちを解放しようとしたこと自体は、嘘ではないのだろう。だが、その為にちひろを選んだのは必ずしも本当のことではない。逆なのだ。桂馬は自分の恋を成就させるために宿主達を切り捨てたのだ。それは優しさではなく私欲に近く、発想と方法そのものは前回のエルシィと被るものがある。
話が少しずれてしまうが、前回においてエルシィはラスボスとしての力を発揮し、人間の少女として、桂馬の妹、桂木えりとして転生を果たした。エルシィという悪魔を捨てて、桂木家の家族になることを望んだのだ。
エルシィに関しては予期されていた部分もあったが、ラスボス告白が唐突だったこともあり、何の感慨も湧かなかった、というのが私の正直な感想だ。人間に転生した件に関しても、エルシィは確かに幸せそうであるが、そもそも彼女は別に不幸ではなかったはずだ。確かに戦災孤児という身の上で、救命院の出身というあまり恵まれてない環境ではあっただろうが、彼女自身がそれをトラウマに感じていたり、負い目に思っている描写はほぼ無かったと言っていいだろう。むしろ、駆け魂隊というエリート職に抜擢されたことを誇りに思い、喜んでさえいた。
では、前世はどうなのか? 前世のエルシィは旧地獄における最強の兵器だったという。詳細は明かされてないが、女神達が蹴散らした動体巨人などに比べれば、よっぽど強いのだろう。確かに、前世のエルシィは不幸だったのかも知れない。その最強兵器に本人の意思というものがどこまで存在していたかは疑問だが、本当は嫌々やっていたというのなら、それは災難だったことだろう。
しかし、今のエルシィは違う。エリュシア・デ・ルート・イーマという悪魔に生まれ変わった少女は、決して不幸などではない。彼女には尊敬する姉がいて、同じ身の上の仲間が500人ぐらいいて、彼女のことをとても気に掛けてくれる親友がいた。エルシィはこの世界が好きだと桂馬に言った。その言葉が真実なら、彼女は世界に不満など覚えていなかったことになるし、自分自身に幸福だって感じていたはずなのだ。
なのに、エルシィは自らエルシィという存在を捨て、悪魔から人間になった。彼女は世界を改変したと言うより、周囲の記憶を書き換えたのだと思っているが、その結果として失われたものがある。そう、親友ハクアの記憶だ。
ハクアはエルシィの学生時代の親友であり、客観的に見てもお互いとても仲の良い間柄だった。しかし、エルシィが自分自身の存在を消して、桂木えりという存在と記憶を作った時点で、ハクアからはエルシィの記憶と、そしてかなりの確率で桂馬の記憶も失っている。エルシィという悪魔が最初からいなかったのであれば、ハクアが桂馬に出会った事実さえも存在しなくなるからだ。つまりハクアは、親友と想っていた相手から一方的に切り離され、想い人である桂馬のことさえも忘れてしまったのである。
これはハッキリ言ってハクアにとっては酷な話であるし、特に自分でも気付かぬうちに桂馬の存在と彼に対する想いを消失したのは哀れとしか言い様がない。ハクアはエルシィに捨てられたのだと言っても、決して間違いではないだろう。そしてエルシィには、何が何でも桂木家の家族に、桂馬の妹になるという必然性が存在しない。彼女は確かに両親こそいないが、駆け魂隊という職があり、イーマ家という身よりもある。駆け魂隊はおそらく解散になるだろうとハクアは言っているが、それならば尚のこと、エルシィには親友のハクアと協力して地獄の再興をしていくという選択肢が、エンディングがあったはずなのだ。ましてや、地獄を今みたいな焦土に変えたのは旧地獄時代に最強兵器のエルシィと、英雄ドクロウが戦った結果なのだから、それに対する責任というものもあるだろう。極端な話、エルシィの同胞である500人の孤児達は、エルシィによって親を殺されたも同じなのだから。
しかし、エルシィはそうしたエンディングを選ばなかった。ハクアや生まれ故郷の地獄を切り捨て、桂馬の妹になることを選んだ。これはエルシィの中に天秤があったとして、桂馬の方がハクアよりも重かったと考えるしかない。親友や故郷よりも本当の家族を、桂馬の妹になることの方がエルシィにとっては重要だったのだ。そしてそれは、間違いなくエルシィ自身の中にあった私欲だろう。
話を戻し、最終回の桂馬の発想や行動には上記で挙げたエルシィに近いものがある。エルシィが自らの存在そのものを放棄したように、桂馬は自らの役目を放棄して、物語を強制終了させようとした。彼自身が本当に好きな、ちひろと結ばれるために。宿主のためなどではない、彼は自らの私欲であるちひろとの恋を優先したのだ。
二階堂は言う。ちひろに桂馬の気持ちは伝わっていると。しかし、歩美の件はあるし、結やかのんとも顔見知りというしがらみの多いちひろにとって、答えは簡単に出せるものではない。だが、桂馬は「初めて現実で本気になった」という二階堂の言葉を、否定しようとしなかった。つまり、桂馬はちひろが本気で好きなのだ。
二階堂との別れ。彼女は桂馬にPFPを返却する。今まで取り上げた数、一体いくつあるのかは分からないが、ボクばかり目の敵にと言う桂馬は、やはりまだどこかずれているように思う。だって、教師が授業中にゲームをやってる生徒に注意するのは普通だし、没収するのだって当たり前だろう。二階堂を、ドクロウを助けたのが桂馬だからといって、それは次元の違う話のはずだ。
しかし、これには意外な真実が待っていた。何故、二階堂が桂馬に絡んでいたのか。どうして事あるごとにPFPを没収していたのか。
「だって、他の女の子と仲良くしているからだよ」
桂馬に正体が明かせなかったが故の、密やかな嫉妬心。二階堂はゲーム女子に嫉妬をしていたのだ。桂馬を愛するが故に、自分の授業を聞かない、自分を見てくれない桂馬に、彼女は憤りを感じていたのだろう。PFPを没収したのも、彼女なりのスキンシップだったのかも知れない。だが、ゲーム女子には嫉妬するのに、どうして相棒だったリュミエルとの一件は笑うだけだったのだろうか? 始終、リュミエルのペースだったこともあるが、自分に近しい存在が桂馬と親密な交流を結んだともなれば、少なからず感情的になっても良さそうなものだが。
二階堂は去って行く。教師を辞め学校から、そして桂馬の前からも。新地獄と人間界が守られたとき、二階堂の役目は終わったのだ。桂馬は瞬間的に引き留めるが、二階堂は待たなかった。振り返ると二階堂ではなく、ドクロウに戻ってしまうから。しかし、それでも、彼女は桂馬への想いを隠しきれない。最後の最後、彼女は教師の二階堂ではなく、桂馬の妹だったドクロウとして、その笑顔を見せたのだった。
「ありがと…お兄ちゃん」
……二階堂ことドクロウの話は、過去編、ユピテル編の総まとめとも言えるだろう。彼女がこの先どうするかは分からないが、新地獄に居場所があるかはなんとも言えない。半身だった室長のドクロウは処刑されたし、ハクア辺りが名誉回復に奔走してくれる可能性もなくはないが、それでも室長と二階堂は別人で、彼女は既に人間だ。
長年相棒を務めていたと思われるリュミエルなら、新地獄での地位も相成って身元を引き受けてくれるだろうが、おそらく二階堂は身の振り方は自分で選ぶだろう。その結果、リュミエルの元に行くのか、新たな道を探すのかは分からないが、彼女には彼女の、次の人生が待っているはずだから。
宿主達のその後。桂馬から振られた形になる宿主達はそれぞれが複雑な心境を抱いていた。特に月夜はそれが顕著で、図書室で栞に対して様々な不満を言っている。
「もう最悪!! 最悪中の最悪なのですわ!!」
「あんなこと突然言われても!! こっちは何が起こったのかすらわからないのに!!」
月夜の台詞から察するに、桂馬は帰還と同時にちひろのことを打ち明け、本命の女子が、好きな子がいることを告げたらしい。天理以外の攻略女子は訳も分からぬままに白鳥家に集められ、何が起こっているのかも把握できないままに桂馬の帰還作業に従事した経緯がある。
だが、あのとき白鳥家に集まったのは間違いなく桂馬のために全てを犠牲にできる少女たちだった。それは、結の言った「桂馬くんのためなら命も惜しくない」という台詞に、月夜が同意していることからも分かるだろう。栞だけは何度もすっぽかしを食らった後だったから、そこまであっさりとは決められなかったかもしれないが、最終的な意味では彼女の意志も同じだったに違いない。
これは前述したことだが、月夜と栞の共通点はちひろのことを知らないことだ。後に出てくる歩美や結と、彼女たちの違いはそこだろう。それ故に、桂馬が自分の気持を告げたときは少なからず、いや、大いにショックだったと思う。
特に月夜は以前、栞に対してこのように語っていた。
「桂馬との想い出は…大切な想い出なのですね」
「だから知りたいのですね。桂馬のことをもっと…」
月夜は自分が出会い、恋した桂馬が本当の彼自身でないことに薄々気付いていた。だからこそ、彼女は本当の桂馬を知ろうとしていた。何故なら、月夜は桂馬が好きだから。愛しているから。そして、栞にとってもそれは同じことだ。ベクトルや視点は少なからず違うが、栞も自分の身に降りかかった出来事に対して関心を持ち、その全容を調べたいと考えていた。栞自身は様々な事情から桂馬に好感を抱けないでいたのだが、彼女が調べるにあたって桂馬の協力や、彼との交流は不可欠だっただろう。
しかし、桂馬は月夜と栞にそうした時間を与えなかった。月夜がもっと桂馬のことを知りたいと思った矢先、彼との想い出を大切なものだと栞に打ち明けた直後、桂馬は二人を他の宿主と一緒に突き放し、その機会を奪ってしまった。月夜は少なからず感情に左右される一面があるので、そのショックは計り知れないものがあっただろう。
不思議なのは、そうした桂馬の決断にルナが、ウルカヌスが激怒しなかったことだ。言ってしまえば、桂馬は月夜の想いを踏み躙り、彼女を傷付けたことになる。正義の女神であるウルカヌスは、時として月夜の意思以上に桂馬に対して辛辣で苛烈な行動を取る。天罰を下したって、おかしくはなかったはずだ。
しかし、月夜は桂馬のことを非難しているが、立ち直れないほどショックを受けているようには見られない。これは月夜がある程度この結果を予期していたからかも知れないが、それと同時に友人となった栞の存在が大きいだろう。高校で友達らしい友達のいなかった月夜にとって、栞はルナ以外で初めて出来た友人に等しい。栞という桂馬に対する愚痴を言える相手がいるからこそ、月夜の感情はある程度の部分で抑制されているのだ。
もっとも、桂馬がそこまで計算していたとは考えにくい。何故なら、彼は月夜と栞が友人関係になったことなど知らないし、これは結果的にたまたま結びついた出来事にすぎない。ふとした偶然が、脆く崩れそうな月夜のことを支えることになったと言えよう。
一方の栞はどうだろうか? 外面似菩薩内心如夜叉とは言わないが、栞は外面の内向性に比べると、内面での感情爆発が目立つ少女だ。そして人との交流が少なく、本で読んだことをそのまま自分の感性に反映させてしまうから、性格的には桂馬に似ているとも言われ、どこか単純な一面があった。栞は桂馬に散々すっぽかされたことを怒っていたが、彼女が怒る理由は実にシンプルで、それは女神篇における月夜と同じものがある。つまり、桂馬が栞の前に姿を現さなかったからだ。
宿主達はおそらく全員、桂馬が初恋の相手だったはずだ。桂馬が初恋の相手であり、ファーストキスの相手だった。そして、個別攻略と女神篇における再攻略を経験した栞の下した結論は酷く単純なものだった。自分は桂馬と二度キスをした。それなら自分たちは、一般的に考えて彼氏彼女の関係だろうと。
栞は自分のこうした考えが誤解であるとは思っていなかったはずだし、桂馬自身、攻略という名目で栞に迫った事実がある。ましてや、栞の女神であるミネルヴァは、月夜の女神であるウルカヌスと同じく、宿主に事情を説明していない。だから、栞の考えはある意味で正しく、また、ある意味では完全に外れてしまっているのだ。そして、彼女は月夜と出会うことで真実の一端に触れることとなる。
乙女の純情や純真を汚した桂馬を、栞がどのように考えているのかは分からない。やはり、彼とのことは悪夢だったと思っているのかもしれないし、案外、それほど気にしていないのかもしれない。だが、月見に誘う月夜の声も届かないほどに、栞は真実の探求へと躍起になっていた。要するに、自棄っぱちという訳だ。
栞の探求がどこまで真実に近づくか、たどり着けるのかは分からない。ミネルヴァと、そして月夜を通じてウルカヌスの知己も得るだろうことを考えると、それほど難しくはないのかもしれない。調べたからといってどうなることではないと思うが、あるいは栞はこの出来事を本に書くかもしれないし、あるいは天界や女神のことはこれから先も続いていくのかもしれない。
月夜と栞。この二人の結末は境遇や事情と違い、それなりに明るいものだろう。特に月夜はルナ以外の、ウルカヌス以外の友人を得た事実がとても大きいように思う。現に、月夜は図書室にルナを帯同させていない。栞と二人きりの時間を楽しんでいるようにも見える。幸いにも二人は学年が同じだから、少なくとも高校卒業までは交流を続けることができるし、趣味や性格的な観点からも、そう簡単に離れるようなことはないだろう。これは後述する天理との最大の違いであり、月夜と栞が一連の出来事を経て手に入れた、一つの結果なのだ。
歩美と結については、実のところあまり書くことがない。
この二人に関しては結末と結果が明快であり、先のことも非常に分かりやすく見通すことが出来るからだ。結は桂馬の告白をあっさりとした形で認め、受け入れている。彼女はショックを受けたというよりは、むしろ驚いたといった感じで、桂馬に本命がいたという事実に意外さを覚えたのだろう。
歩美もまた桂馬の告白を、ちひろに対する気持ちを受け入れていた。歩美の発言や、僅かに描かれた帰還時の一コマから察するに、やはり桂馬は帰還した途端にちひろのことを言い出したことが分かる。その際、桂馬は細かい説明を行ったようだが、それが何時間にも渡る説得なのか、ちひろに対する思いの丈を語ったのか、その詳細は明らかにされていない。だが、歩美はいつものあいつのペースといい、騙されそうになったとも言っていることから、どこか落とし神としての部分を残しつつの、口八丁だったのではないだろうか。
本当に桂馬のことを好きになってしまった歩美からすれば、この結末は決して満足がいくものではない、不快感が残るものとなっただろう。なにせ彼女の場合は両親の前で結婚の約束というか、結婚することを告げてしまったわけで、実際に挙式まであげてしまっている。しかも、桂馬は一度ちひろを振った上で歩美に告白してきたのであり、またちひろの元へ行くのかという憤りを感じてもおかしくはないはずだ。
現に歩美は桂馬に対する不信感を原因に、宿主達と協力することを避け、天理に対する嫉妬心を抱いていた。戻ってきたら一発殴る、もしくは蹴りつけるみたいなことを言っていた気もするし、ここでまたちひろが好きだなどと言われれば、怒りで爆発してもおかしくない。
けれど、歩美はそうならなかった。結があくまで前向きに、桂馬のことを諦めないと宣言しているのに対し、歩美はギブアップすると、戦線離脱を表明している。
「相手が悪いよ……」
歩美の言う相手とはちひろのことであり、彼女には恐らく分かってしまったのだろう。桂馬の気持ちが本物であることを。そして、歩美はちひろの中にあった桂馬への気持ちが本当の恋であることも、知っていたのだから。
ちひろとは幼馴染だから応援に回る。普通だったらとても出来そうにもないことを、歩美は呟くように言うが、これは少なからず納得が出来る話だ。桂馬が天理に宛てた手紙の中にあった歩美評、歩美はとにかくいい奴で、友達が困っていたら何百キロでも走って駆けつける、めちゃくちゃ優しい奴だという解説に、ぴったりと嵌るからだ。歩美にとってちひろは幼馴染であり親友だし、彼女がこのように考え、自身の初恋を諦めることは決して不思議な話ではない。ちひろと桂馬を取り合うことなど、歩美にはまず出来なかっただろう。
結の一連の出来事に対する感想は非常にさっぱりしていて、「だってこんなすごい恋、もう二度とないかもしれないじゃないか!!」という言葉は、彼女の中の明確な変化を表しているとともに、一つの可能性も提示している。結は続けて「僕はまだ桂馬くんを諦めてないよ」と言うわけだが、決して自分の新しい恋を否定はしていない。桂馬との間にあった凄い恋は二度とないかもしれないけど、それは逆に、それ以外の恋があるかも知れないことを示唆しているわけだ。
であるからこそ、歩美と結の今後はある程度の部分で見通すことが出来る。桂馬とちひろを応援することに決めた歩美と、桂馬を諦めないとしつつも、新しい恋に出会うかもしれない結。この二人の長所は互いに前を向き、前に進み続けることだから、小さな躓きはあるかも知れないけど、大きく転ぶことはもうないのだろう。心の隙間も、埋まっているのだから。
シーンは移り変わり、再びPFPの入ったダンボールを抱える桂馬に戻る。よく壊されていたとはいえ、桂馬にとっては大切なものだから粗雑には扱えない。
しぶしぶと重たさを我慢しながら帰路に着こうとする桂馬の前に、ちひろが姿を見せた。何故、ちひろがここに現れたのか、どうして桂馬の居場所を知っていたのかは分からない。二階堂が最後にサービス精神を発揮したのかもしれないし、もっと別の理由があるのかもしれない。でも、それは読者にとっても桂馬にとっても、些細なことに過ぎない。
ちひろは桂馬を前にして、視線を外したままであるが、それでも彼に言葉をかけた。
「ま…なんつーか…」
「茶でも…いかん?」
ちひろは頬を赤く染めており、そんなちひろを見る桂馬の頬も朱色に染まっていた。
この時の桂馬は酷く純朴な表情をしており、まるで恋する少年のようだった。桂馬のちひろに対する気持ちは、二階堂の指摘通り嘘偽りない本気だった。桂馬がちひろの誘いになんて応えたのかは分からない。彼は口を開くことなく、台詞を発することなく出番を終えのだから。
神のみぞ知るセカイの、桂木桂馬の物語はここで終わりを迎えた。彼が今後、ちひろとどのような関係を築けたのか。やはり、振られるのかもしれないし、付き合ったとして上手くいかなかったということもあるはずだ。何一つ思い通りにならない理不尽さ。しかし、それが桂馬の選んだリアルなのだ。
ちひろの反応からして、彼女が桂馬に脈をもたせているのは明白だろう。二人は両思いに近いから、将来的にくっつくことは想像に難しくない。
だからこそ、桂木桂馬という主人公は、この物語の幕引きに相応しくない、神のみぞ知るセカイを締めくくれない存在になってしまった。
ここで終わっていれば、桂馬とちひろは結ばれて、幸せになりましたという如何にもなエンディングになる。桂馬の耳にはエンディングテーマが聴こえていたことだろう。
だが、それはあくまで、彼個人の物語が終わったに過ぎなかった。
最後の一人が、物語の導き手の話が、まだ残っているから。
鮎川天理。神のみぞ知るセカイという物語の扉を開けた、一人の少女の話が。
随分と前置きが長くなってしまいましたが、此処から先は天理について書きます。彼女の話を、神のみぞ知るセカイという作品の、本当の結末を。
桂馬の物語が終わりを告げた直後、場面は海辺へと、あかね丸近くの浜辺へと移ります。そこでは天理が、鮎川天理が自身に宿る女神ディアナに対して独白していました。
「桂馬くんは…ずっとあの子のところへ帰りたかったんだよ…」
「わかってたんだ…桂馬くんが、全部手紙に書いてくれたから」
手紙が風で舞い上がる。天理と桂馬の10年を繋いだ、絆の証が飛んでいく。
そして、そこに書かれていた、天理が最後まで秘密にした文章。
――天理、最後に確認しておく。
――ぼくとお前とのエンディングはない。
それは決定的な一文だった。冷淡で酷薄で、残酷すぎる現実と結末。
天理は10年前のあの日から、エンディングのないルートをずっと歩き続けていた。
この手紙が、何通目なのかは明らかにされていません。1通目ということはないだろうけど、2通目か、それとも3通目か。私は天理が思い出した桂馬の姿から、2通目に書かれていたのではないか、と思います。
天理が最後に思い浮かべた桂馬の姿は、10年前の過去にあった子供のものだった。
――ボクらは全てが終わったら、別々のルートを歩いて行くんだ。
その桂馬が天理に対して、すべてが終わったとき、自分たちは別の道を歩くと明言しているのです。そして、手紙に書かれていた確認事項という冷たい言葉。これが3通目に書かれているのであれば、桂馬は天理の10年にも渡る想いを、単なる確認事項として処理したことになります。それはあまりにも非情であり、冷酷過ぎます。ましてや3通目は桂馬と再会した後に読むように言われているものです。桂馬と10年ぶりに再会し、キスしたことで幸せの絶頂となり、気絶したほどの天理に、こんな手紙を読ませるでしょうか? 10年ルートを歩いてきて、やっと再会したらエンディングがないだなんて。
そう考えると、3通目よりは2通目の方が、これからルートを歩き始める天理に向けた言葉として考えるほうが、どことなく自然な気がします。現に、ロミオとジュリエットの舞台上でも、桂馬は何度か天理の意思確認をしていますからね。ただ、小学生天理に読ませることを考えると漢字で書かれていることが気になりますが……上記の通り3通目だと桂馬の品性を疑わざるを得ないので私は2通目だと思いたい。
故に桂馬が行ったのは、10年前、天理の中に芽生えたであろう恋心を摘み取ろうとしたわけであり、10年越しの想いを踏みにじったのではないのだと思います。いずれにせよ、6歳の少女にする仕打ちとしてはあんまりですが、桂馬にはそれしか方法がなかったのでしょう。扉を開ける役は天理にしか任せられないし、かといって彼は天理の気持ちに応えることは出来ない。彼女とのエンディングを用意することは不可能だった。
だって桂馬は、あの子のことが好きだったんだから。
「それでも、少し夢見てたんだ…」
「もしかしたら、違う結末だって…あるかもしれないって……」
ショボくれる天理の姿は、なんとも言えない悲哀を感じさせます。
天理は結末が分かっていた。分かっていたからこそ、消極的にならざるを得なかった。天理が欲を見せて、桂馬との関係を変えてしまうと、未来が繋がらなくなってしまうから。ディアナは天理の消極性を不自然だと言いました。好きな人と10年ぶりに再会し、隣に住んでいるのにどうしてもっと話したいとか、もっと会いたいと思わないのかと。天理だって、指摘されるまでもなく分かっていたことでしょう。彼女自身、そうしたいと思ったことはあったはずです。
でも、天理にはそれが出来なかった。未来を繋ぐため、世界を救うためには、天理は自分の役目を果たさねばならなかったから。
更に言えば、天理は桂馬の内心や心情を見通すことが出来る人物です。それは今も、そして10年前も変わりません。天理は手紙に書いてあったからといいますが、それ以上に、分かっていたんだと思います。桂馬が本当は何を望み、誰が好きなのかを。
だから天理には、桂馬のそうした本気の気持ちを奪ったり、壊したりすることは出来なかった。天理は桂馬が好きだから、愛しているから、彼の幸せを否定することなど出来るわけがなかったのだ。
10年の想いが風と共に舞い散る中、天理に宿る女神、ディアナが声を掛けます。
エンディングのないルートを歩いてきた天理にとって、この10年は決して得るものが多かったとはいえません。しかし、残るものは確かにあったのです。ディアナという、10年の苦楽を共にした、姉妹以上の一番の友達が、天理にはまだ残っていました。
「天理は間違っていませんよ」
「私たちは決められた結末のために生きているのではありません…!!」
「桂木さんも天理も…いえ…みんなが…考え、悩み、まだ見ぬ道を歩んでいくのです」
「天理が幸せにたどりつくまで、私はいつまでも天理のそばにいますよ」
ディアナの言葉に、天理は顔を上げました。その瞳には大粒の涙が、天理が初めて見せた、後悔や未練が溜まっていました。
「天理!! ほら!」
「空を見上げましょう!!」
「私たちには未来があるのです!!」
天理が空を見上げ、ディアナが励ましの言葉を掛けたとき、エルシィもまた自宅前で空を見上げていました。台詞はありませんが、その表情は笑っていて、笑顔のエルシィ、そして、天理とディアナが見上げた空を描きながら、神のみぞ知るセカイは完結を迎えたのです。
私は最後のエルシィはおまけ程度と考えているので、神のみぞ知るセカイという作品を象徴する上では、天理とディアナが幕引きを担ったと考えています。ディアナの台詞で終わるのは少なからず意外でしたが、彼女が天理に対して放った言葉は、慰めではなく励ましであり、天理を未来に導こうとするものでした。
天理はこの10年、エンディングのないルートをひたすら歩き続けていました。そして結末へとたどり着いたとき、彼女の前には何も残されていないかのように見えた。でも、ディアナはそれを否定した。天理には、私たちには未来があるのだと。
正直な話、天理にディアナがいてくれて本当に良かったと思う瞬間でした。前述のとおり、桂馬が10年越しの想い人なら、ディアナは10年来の友達です。そんな彼女が、天理が幸せにたどり着くその日まで、ずっと傍にいてくれると、支えてくれると約束してくれたのです。今の天理には、これ以上の結末はなかったでしょう。最終回であるが故に、天理にはちひろと違ってフォローや救済がありません。たとえ将来的に天理が幸せになるのだとしても、それが描かれ、読者の目に触れることはもうないのでしょう。
でも、それでも天理には未来がある。ディアナとともに歩き続ける未来が、一緒に見上げることのできる空が、残されているのです。
では、ここで少し話を戻し、何故神のみぞ知るセカイという物語の幕を引いたのが天理なのか、その理由を考えてみましょう。どうして桂馬とちひろや、他の宿主ではなかったのか? 一見すると、桂馬とちひろのパートと、天理とディアナのシーンは入れ替えても通用するような気がします。主人公が幕を引かないなんて、と思う人もいるかもしれません。
しかし、前述のとおり私は桂馬が作品の幕引きをするのはふさわしくないと思っているし、それは他の宿主に対しても同じで、天理だけが、天理とディアナだけにその資格があったのだと考えています。
一つの例えとして、銀河英雄伝説という小説作品を引き合いに出します。この作品の主人公は大きく分けて3人おり、ヤン・ウェンリーとラインハルト・フォン・ローエングラム、そしてヤンの死後、彼の後を継ぐ被保護者のユリアン・ミンツになります。銀英伝という物語は軍人皇帝ラインハルトが死去することで終わりますが、その幕引きを担当したのは意外にも残された主人公のユリアンではなく、ラインハルトの部下として活躍した、ウォルフガング・ミッターマイヤーでした。
どうしてユリアンではなくミッターマイヤーだったのか、そう問われたとき、作者である田中芳樹はこんな風に答えました。
「ユリアン・ミンツという人の未来は、ある程度固まっているからだ」
確かに作中でのユリアンは、カリンという少女と結ばれ、養父であるヤンの跡を継ぎ、軍人の後に歴史家になるという夢を語っています。そして、幾つかの記述からその将来像が現実化したことも分かっているのです。逆にミッターマイヤーは、皇帝ラインハルトを失ったことから、不確定な未来を抱えている存在であり、先行きが不透明というのもありました。
しかし、彼の下には親友から託された愛息子がおり、その息子が空を見上げ、星を掴もうとするのです。先はまだ分からないけど、未来がある。ミッターマイヤーがそれを確信しながら、銀英伝の物語は終わりを迎えます。
同じように、神のみぞ知るセカイにおいても、天理とディアナ以外のキャラクターはある程度の未来像、今後の予定や目標のようなものに見通しが立っているのです。役目を終えたドクロウは別にしても、栞は真実の探求に力を注ぐでしょうし、月夜はそんな友人を手助けするはずです。結は桂馬を諦めないとしつつも新しい道を探し、歩美はちひろを応援することに決めた。台詞のなかったかのんもまた、新曲である「歩いていくもん」という歌のタイトル通り、アイドルとして歩くことをやめないはず。そして、主人公の桂馬にはちひろとの未来が存在している。
ほとんどの登場人物が、ある程度完成された未来像を有しているのに対し、天理だけが、それを持ちあわせてはいなかったのです。10年にも渡るルートを歩き切って、天理は自分が何をすればいいか分からなかったでしょう。手紙という形で明確に否定された天理には、結と違って桂馬を諦めないという選択肢がありません。
故に彼女には展望となる未来が存在せず、また一から始めて行く必要があった。桂馬がちひろという、エルシィが妹という一種のゴールであるエンディングを迎えたのに対し、天理は今まさに、またスタート地点へと立ちました。その事実こそが、天理とディアナに、神のみぞ知るセカイのラストを飾らせた、幕引きを行わせた要因なのだと、私はそう思います。
長くなったので、この感想は2回に分けます。次は主に考察になります。
その2にお進み下さい。
感想その2→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230121171653/