Moon Flag

2009年10月5日 読書

     Ⅳ

 僕が四月から勤める月改修公社は、月を火星に送るために設立された国連の外部組織だ。月への人類の移民と、物資輸送のためのハイパーハイウェイの管理を主業務とする。しかし、この組織は実質的に地球環境の管理と人口統制の全権を有していて、こと地球上の問題に関しては国連を凌ぐ発言権を持っている。

 僕は、月改修公社の所長室を尋ねていた。勤務は四月からだが、その前の挨拶と言う奴だ。所長室にはデスクに中年の男性と、その傍に迷彩服を着た軍人がいた。軍人は肩からライフル銃を提げていた。
「お父さんは元気かね?」
 月改修公社、新井所長はそう訊ねてきた。四十代の後半でこの地位についた割には、穏やかな雰囲気を持っている人だ。
「えぇ、いつも電話で、議会の分からず屋たちの愚痴を聞かされますよ」
 父は、月のキトラ政府の首相補佐官で、月改修計画の推進者の一人だ。

 ……父は、僕が地球に残ることを望んではいない。

「お父さんには、君を責任もって預かると私からも伝えておこう。君も知っているように、人類は今、かつてない大きな岐路に立っている。月を火星に送る改修計画は何としてでも成功させなければならない。火星のテラフォーミングは人類を救うための最後に残された方法だからね。そして、第二の地球が我々を迎えてくれるまでこの星を守っていくのは、君のようなここに残る優秀な若者たちだよ」
 新井所長は、デスク越しに僕をジッと見つめる。その視線に僕は少し気押される。
「少し、怖くなりますね。僕にそんな力があるのか」
「弱気は困るねぇ。しかし、月の改修計画完了の後は、地球の管理はこの改修公社が負うことになる。産業の育成、人口統制、内乱、宗教、飢餓、疫病、我々の責務はいよいよ重いものになる。君はこの星でお父さんの志を継がなければならない」
「所長は、地球の再生についてどうお考えなのでしょうか?」
「……私は、人はまた豊かな農耕と採取の生活に戻るべきだと考えている。科学と資本主義は、確かに人の英知と暮らしを良くしたのかもしれない。しかし結局のところとめどない上昇は全ての人を救い上げてはくれないんだよ。その結果が、現在のこの地球だ。人はあまりにも多く、物はあまりにも少ない。緩やかに人口を減少させ、この星が受け入れられる数の人々が、自らを養えるだけのものを作り、自然を愛で、芸術を愛し、生きる。我々改修公社の科学は、これからそれをスムーズに移行させるために機能するだろう。それが、ここに残る我々の義務だろうと思う」
 所長はそこで言葉を切った。
「僕もそう在りたいと思います……ところで、そちらの軍人は?」
 僕は所長の言葉に賛同すると、僕らの会話を黙って聴いていた軍人の方に目を向ける。年のころは二十代後半といったところか、その軍人は僕らの会話に何の興味も示してはないようだった。
「そうそう、中尉の紹介が遅れたね。この施設の警備をしてもらっている国連軍の」
「頼木です。よろしく」
「あ、月本カイです」
 所長の言葉に割り込んで軍人が名乗る。そして不躾にこう質問、いや、確認をしてきた。
「ところで、君の血液型はA型だろ?」
「……A型ですが、それが?」
「A型は、物事をきちんと整理して考えようとする傾向がある。考えすぎは体に毒だよ」
「はぁ?」
 何て失礼な奴なんだ。
「あぁ、でも、俺はAB型だから、きっと気が合うと思うよ?」
「は、はぁ」
 つかみ所のない、奇妙な男だ。
「仲良くしてくれよ。これからの地球には君たちのような若者が必要になる」
「はい、それが父の望でも――」

 突然だった、所長の言葉に僕が応えたとき、聴いたこともないような爆発音が耳に響いた。

 そして流れる非常警報音。全ては一瞬のことだった。

「何事だ!」
 所長が立ち上がりデスクの通信装置にスイッチを入れる。
「恐らく改修公社に反対する奴らの暴動でしょう。あいつら最近動きが活発ですからなぁ……国連軍でも手のつけようのない」
 まるで他人事のように頼木中尉は答える。この事態にまったく動じていないようだ。しかし、それは所長も同じようで、冷静に指示を出す。
「改修計画をよく思わない連中は山ほどいるからな……後は頼む」
「任されましょう! すぐに収拾して見せますよ。あー、月本君と言ったっけ。君も来なさい」
「は、僕もですか?」
「お坊ちゃん育ちは、こういうのも見ておいたほうがいいってね……怖いかい?」
「行きますよ!」
 やや憮然としながら僕は答える。中尉の人を試すかのような物言いに、僕はついつい反発してしまった。


     Ⅴ

「あいにくエレベーターは止めちまったもんでね。階段を下りたことはあるかい?」
 頼木中尉がどこか楽しそうに言う。今改修公社ではでは改修計画に反対する人々と、中尉のように施設の警備をする軍人が戦闘を行っているのと言うのに、何故この人はこんな口調で、こんな表情が出来るんだろう?
「子ども扱いしないでください」
「ははっ、すまない、すまない。あー、君はどうもあんまり普通の世界に慣れていないような気がしたもんでね」
 からかっているのか、それとも本当にそう見えるのだろうか?
 既に激しい銃撃戦が始まり、機関銃の銃声が僕の耳にも届く。身近で聞くのは初めてのはずなのに、不思議と恐怖はない。
「頼木さん」
「なんだい?」
 頼木中尉は、辺りを見回しながら面倒くさそうに答える。
「地球の貧しい人たちが、豊かな人々を憎む気持ちは分かります。でも、月へ行く豊かな人々は、この地球を貧しい人たちに返して、火星へ行こうとしてるんでしょう? 彼らが改修計画に反対する気持ちがわかりません。中尉も所長の理想を聞いたでしょう? これから彼らの世界になるというのに」
 中尉は辺りを見回しながら、口を開く。
「どんな理想を掲げられたって、奴らの恨みは消えやしないさ。二〇〇億の人々は、自分らが置き去りにされたと思ってる。金持ちどもが自分だけ地獄から逃げ出してしまったと。
 理屈じゃないんだ。話をして分かり合えるような問題じゃない」
「僕は自分なりに考えて、この世界を理解しようとしているつもりですし、地球に残る貧しい人たちの気持ちだってわかろうと努力しています。こんなテロまがいのことは馬鹿げてます。それを力で押さえつけるのも、憎しみを広げるだけです。ちゃんと話し合って、」
「あーあ、だから学生さんは」
 中尉は完全にこちらを馬鹿にしていた。口調が、目線が、それを物語っている。
「馬鹿にしないでください!」
「君は! 自分がこの世界を変えられると思っているかい?」
 中尉の人を馬鹿にした口調に思わず声を張り上げるが、中尉も口調を強くした。
「……そうありたいと思っています」
「誰だって、自分は世界を変えられる、救えるんだって考える。そして、実際世界は変えられるんだ。でも、違う。何百年もかかる。そのために俺らのような軍隊が、で、給料が貰える」
「ちゃかさないでください!」
「自分が正しいことをしていると思ったら、妥協はするな。負けたら、正義も何もないからな……」
 頼木中尉は不意に真剣な顔になった。その声は、どこか疲れたような声は、僕の胸に響いてくる。

 銃声が爆発音に変ってきた頃、頼木中尉と僕は、ドアの前に立っていた。
「さあ、ここからテストだ。このドアは、非常用の脱出口になっていて、ここから施設の外に直通で出られる……帰るかい?」
「いやですよ……中尉は?」
「こととなれば人殺しだよ? やっこさんは武器を持ち出して襲ってきたんだ。そうでもしなきゃもう収まりが付かないだろう?」
「あなたは――」

 おどけるような顔の中尉に、僕が言葉を発しようとした時、
「っ! 危ない!」

 中尉が僕を押しのけた。僕が後ろを見ると、一人の少女が銃を片手に立っていた。

「月は私たちのもの。悪魔は月と地球から去れ!」

 銃声。初めて、目の前で聴く音。

 少女が銃を構えるより早く、中尉のライフルが少女の肩を貫いた。

 中尉は物も言わず倒れた少女の前に駆け寄り銃口を心臓に下ろす。

「ちょっ、ちょっと待って中尉! まだ子どもじゃないですか!」
 何でこんな子どもがテロリストまがいのことをやってるんだ!
「気を失ってるじゃないですか。殺すことはない! この子は悪意ばかりに洗脳されて、何も分かってないんです!」
「これが改修計画の現実なんだよ。わかる? こんな子供だって、俺らを殺したいぐらいに憎んでる。地球の再生だとか、火星の田園だとかは、こいつらの苦しみには何の救いにもなりゃしないんだ」
 頼木中尉の銃は、少女の肩を掠っただけのようだった。少女はショックで気を失っている。中尉はそれを確認するとこちらに顔を向ける。
「月本くん」
「はい」
「未来の地球の担い手として、君に命令する。この娘を連れて、脱出口から外に出なさい。君も男なら、姫君を守る義務があるからね」
「はい! わかりました」
「階段を下りて地下通路を抜けると駅に出る。この娘がテロリストだと割れないように慎重に外に出るんだ……月の改修計画は、君が思っているようなものじゃない。このどうしようもない世界の終わりに、誰かが思いついた、浮っついた夢みたいなもんさ」
 頼木中尉の言葉には、言い様のない重みと、寂しさが含まれていた。
 僕は少女を抱え、扉の前に立つ。中尉がキーコードを入力するとドアのロックが外れ、扉がゆっくりと開く。
「中尉……ありがとうございます」
「ところでさ、聞いてなかったんだけど、君は何で地球に残ったんだ? お父さんは月のお偉いさんなんだろう?」
「それは――」

 頼木中尉が言ったとおり、脱出口は地下に繋がっていて暗い扉を開くとそこは地下鉄のホームだった。僕は少女を背負ったまま改札を出て、タクシーに乗り、鎌倉の我が家へと向かった。住民の大半が月に旅立った無人の街に。
 一二月の冷たい空気のせいで、タクシーの中でもしばらく少女の小刻みな息遣いが、車内にきしろ、不確かな形をつむいでいた。

――月は私たちの物、月は私たちの物。月を奪い人たち、皆、死んでしまえばいいのに

 少女のそんな声が、聴こえるようだった。

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