Ⅰ
――大ニュースです! あたしの水族館で、もうすぐクジラの赤ちゃんが生まれるのです。お父さんは、もう三〇歳になるおじいちゃんクジラです。名前は一四号。実は、名前がないの。お相手は、三歳の若いお母さんの一九号。出産が近づいたお母さんクジラというのは、それは、それは見ものなんですよ? 水面におなかを出してぷかぷか浮かんだり、ひっくり返って、勢い良く潮をプシューって噴出したり。それは、それは、リラックスして出産の準備をしているのです。
だらしなく、ふにゃふにゃしたクジラというのは、見ていて飽きる事がありません。あたしは、ちょくちょく仕事をサボって、クジラの水槽の前でボーっと見惚れています。あんまりだらしなくて、おしっこなんてものすごいから、それはかなり辟易なのだけど。
新しい命が生まれるというのは、本当に当たり前のことだけど、凄くドキドキするのです。カイくんは、月の水族館にクジラ居ることのほうが驚きでしょうか? 月にだってクジラは居るのですよ?
……カイくんが、助けた女の子のお話は、何だかあたしにはしんどかったです。その子にとっては、あたしなんか一〇〇回でも殺したくなるような、いやな女なんでしょうね。
地球のことを考えると、そんなことやらなにやらで、とても落ち込む事があります。結局、あたしたちはとても恵まれていて、ある意味ではとても思い上がっているのでしょう。
でも、そんなふうに落ち込んで見せるのもなんだかね。
あたしは月へ来たのだし、毎日精一杯楽しく生きようって思って、立ち直っています。その子がテロリストになったように、あたしは、あたしの問題に、一生懸命になるしかないんじゃないかな? なんてね♪ あまりなにも考えてないだけかも。人間の抱えているものなんて、どんな人でも大差ないのかもって思うのが、あたしの哲学です。
カイくんは、ちょっと人の問題を抱え込みすぎるきらいがあるので、それがちょっと心配です。君が地球に残ったのも、そんな君の性格のせいなんじゃないのかなって、そう思うのです。違うかな?
またメールします。なんか、ちょっとお説教みたいになっちゃって、焦りすぎの桐華からでした。リラックス、リラックス。
桐華は僕の幼なじみで、親同士が親しかったこともあって、小さな頃からよく色々な話をした。彼女は半年前に月に移民して、月の都キトラに住んでいる。今は、彼女とは時々こうしてボイスメールを使って話をする。
Ⅱ
綺麗な日の光が、レースのカーテン越しに室内へと入ってくる。
広いリビングと、フローリングの床に反射するその光は、リビングに入ってきたパジャマ姿の少女を照らした。
その少女に僕は挨拶をする。
「おはよう」
東京の月改修公社のテロ事件で、僕が助けた少女の傷は、回復に向かっていた。少女は立ち上がり、物珍しそうに家中を歩き回り、食事をし、そして良く眠る。
ただ、彼女は一言も口をきかなかった。
「朝食を食べながらでいいんだけど、少し話しをしてもいいかな?」
僕は向かいの席に座る少女を見る。少女は少しばかり反応してこちらを見たが、特に関心を示そうとはしない。
「中国の昔話に母親の遺言で、西の砂漠に生き仏を探しにいく貧乏な青年の話がある」
カキン、とフォークを置く音がする。少女が、手に持ったフォークを置いたのだ。
「お釈迦様に会ってお前が幸せになる方法を教えてもらいなさいと母親は言うんだ。母親の死後、青年は西の方に向かって旅に出る」
少女は朝食に手を付けることもなく、僕のほうを黙ってみていた。その視線からは何の感情も読み取れない。
「旅の途中で、青年はものを喋らない少女に出会う。そして彼女の母親に頼まれる『もし仏様に会ったら、この子に声を戻す方法を、いっしょに聞いてくれないかね?』と。僕は何を話してるんだろうな? それからも、いろんな人や、生き物の頼みごとを背負い込みながら、中国の青年は旅を続けるんだ。蛇とか木樵とか、そういったもののね」
少女の瞳に戸惑いの色が映る。
なぜ、僕がこんな話をしているのか分からないからだろう。
「……ようやく青年は西の砂漠で生き仏を見つけて、少女の声のことを話すんだけど、生き仏はこういうんだ。『彼女のことを本当に愛するものが現れたら、少女の口は自然と開くだろう』って」
沈黙を続けていた少女が口を挟んだ。
「面白くないわ。その男が女の子を愛し、めでたし、めでたし、二人は幸せに暮らしました」
「二人は幸せに暮らしました、か……この話の良いところはね、青年は少女の母親や、ヘビや木こりの願い事はちゃんと仏様に伝えるんだけど、ついつい自分の願い事、どうやって幸せになればいいかってことが、聞き忘れちゃうところなんだ」
少女は不満そうで、不思議そうな表情を僕に向けている。
「でも中国の青年は、少女の声に気づくことで、幸せを手に入れる。まあ普通の、ささやかな幸せだけどね。幸せになるのに答えなんか必要なかったんだ。旅をして、旅を成し遂げることで青年は誰よりも救われ、このお話にはそういう種類の教訓が含まれているんだ」
「あなたは、いつも唐突に昔話を始めたりするの?」
「君みたいな娘と話すのに、慣れていないんだ……自分のことをずいぶんなやつだとも思うしね。そして、君とこうして朝食を食べているのが、嬉しくもある」
何はともあれ、少女が話をしてくれることが、僕には嬉しかった。
「あなたは、一人でこの家に住んでるの?」
少女が身の緊張をほぐすように質問する。
「父も母も、月へ行ってしまってね。一年前から一人暮らしだ」
「ふーん……」
少女は興味を示すように反応する。
「一人暮らしを続けてると、何故かみんな、スパゲッティの味に凝り始める。口に合うといいんだけど」
「ありがとう。こんな美味しいものを食べたのは生まれて初めてよ」
少女はスパゲッティをすくい、一口食べる。
「……あなたには感謝してるわよ? でも、ここに長く居る気はないわ」
暫く沈黙が続いたが、食事が終わると、少女がまた口を開いた。
「あなたの名前を教えてくれる?」
「カイ、月本カイ」
「……素敵な名前だと思う」
「カイ少年は、雪の女王のソリに乗って雪原をすべり出しました。少年は恐ろしくなって聖書の言葉を思い出そうとしましたが、何故か浮かんでくるのは、九九の暗算表ばかりでした。カイは何千回も九九を唱えたまま、雪の女王の住む氷の城に閉じ込められてしまいました」
「それはなに?」
「雪の女王、昔の物語だ」
少女は、少し呆れたような声を出した。
「何だか間抜けだわ。あなたは昔の物語が好きなのね。そんな話、月でやればいいのよ」
今度は僕から少女に質問を投げかけた。
「君の名前を、まだ知らない」
「キトラ」
「月の都……君のご両親は、月の人なの?」
「父も母も、月になんか行ったことはないわ。父は軌道エレベーターの建築現場で二〇年働いて、墜落事故で死んだ」
お母さんは? と、聞くことは出来なかった。聞いてはいけないような気がした。
「でも、君の名前は素敵だと思う。きっと君のご両親は、月に行きたかったんだ」
月に行ける権利がありながら、それを放棄した僕なのだが。
「ねぇ、あなたは悪い人じゃないと思う。きっともの凄く良い人なんだと思うの。でも、あたしはこの家に長く居るつもりはないわ」
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