Ⅲ
週末、僕は休暇を取り、旅支度を整え、リゾート地湯河原に向かった。東海道線の車両は人いきれでむせ返るようであった。僕のような休暇旅行のようなものは見あたらない。リゾートを楽しめるような人々は、皆月に登った。列車の中は、ほとんどが東から西へ向かう労働者たちだ。
病院は駅からバスで三十分ばかりの海沿いの場所に建っていた。小さくて小奇麗な、白い建物だった。
まるで、彼女の水族館みたいじゃないか。
構内の葉桜が朝の光を反射して眩しい。もう、春も終わりに近づいているのだ。
「体の調子はどう?」
「悪くはないわ。一週間前からリハビリを始めたところよ。何とか歩けるようにはなったの」
僕はキトラが入院している個室へと見舞いに来ていた。
「ありがとう……でも、あなたには都合が悪いんじゃない?」
「歩けるようになったら、また戦場に行くの?」
「さあ、どうかしかしら?」
おそらく、答えは決まっているのだろう。
「好きにすればいいさ。君の思うようにすればいい」
「随分な転向ね。平和主義も、すっかり匙を投げてしまったの? それとも、あなたもレジスタンスに入っちゃったのかしら」
意外そうだが、どこか楽しげにキトラは訊いてくる。
「そうじゃない。多分、そうじゃないと思う」
僕は否定する。そしてキトラは、少し寂しげな声を出す。
「私がまた鉄砲に撃たれたら、また助けに来てくれる?」
「行くさ、何百回だってね」
だから僕は、ハッキリと答える。
「千五百キロも離れてるかもしれない、上海で撃たれるかもしれないのよ?」
「きっとね、そういう時は、何故か僕も上海に居るんだ」
「ふーん……」
キトラは僕の答えに、少し考えながら、窓のほうに目をやった。
「ねえ、外に出ましょうよ。ここからじゃ海がよく見えないし、毎日天井を眺めているのは、気が滅入るわ」
「海が好きなの?」
「海が嫌いな人が居ると思うの? あなたは時々、本当につまらないことを言うのね」
Ⅳ
「あー、気持ちいいー。この海にも生き物が居るのかしら?」
「この季節だと、クラゲが沢山居るだろうね」
僕とキトラは、病院からすぐの海岸へと来ていた。キトラはまだ自由に歩ける段階ではなく、車イスで出てきた。
「海の生物はどんどん絶滅してるのでしょう?」
「クラゲは、見た目によらずとても生命力の強い生き物なんだ。どんな海だって生きていける。友達の女の子が教えてくれた」
「クラゲみたいに何も考えず、どんなところにも行けたらいいのにね」
「悩みながら生きるのも、それほど捨てたものではないさ。人のこととか、地球や月のことまで抱え込んで引きずられている姿は、ある意味ではとても幸せかもしれない……もしかしたらクラゲにだって悩みはあるかもしれないし、家族や、居なくなってしまった仲間を、とても心配しているクラゲも居るかもしれない」
クラゲのことを言っているようで、僕やキトラにも十分当てはまることだった。
「ねぇ、少し私のことを話しても良い?」
「ああいいとも」
海を見つめる少女の瞳には出会ったときや、僕の家で過ごしていたときと違って、光が宿っているように見えた。感情という、光が。
「私は父が事故で死んでから、地区の長老の家に里子に出されたの。新しい父は随分おじいちゃんだったけど、街の労働者のリーダーで、私のような子供をこっそり匿って月や、改修公社と戦うときのための兵士として育てていたの」
それは僕の知らない世界、知らない現実、見てこなかった事実。
「家にはたくさんの子供が居たわ。町の人たちも彼の活動に協力していたから、私たちは地区のみんなに育てられたようなものね」
「それで、君に銃を持たせてテロをやらせたのか?」
「強制されたわけじゃないのよ? 行かなかった子だって居たわ。でも、私はそうすることが当然だと思ったし、今でもそう思ってるわ」
主義でも思想でもない、それは信念。
「でも、もう町のみんなは私は死んじゃったと考えているでしょうね……ねぇ、みんなは私のこと心配していると思う? 私が死んでしまったと思って悲しんだと思う?」
「心配してるさ。それに、君が居なくなって、とても悲しんだと思う。君に友達は居る?」
「居るわ、たくさん」
「だったら、君は君の町に、また帰るべきだと思う」
「……そうね、歩けるようになったらそうさせて貰うわ。そして、多分また戦場に行くことになるでしょうね。私は私の友達や、育ててくれた人たちのために戦いたいと思ってるのよ。私のことの手で。あなたはいやがる? 馬鹿げてると思うのかしら?」
どこか寂しげなその問いは、キトラという少女の純粋な気持ちと、その生き方が籠められているように思えた。
「いや、君は君の信じるように生きればいいと思う。君は小さな間違いはたくさんするかもしれないけど、大きく迷子になることはないと思う。それに、危なくなったら五百キロ離れてたって僕が助けに行く」
「上海にいても?」
「上海にいても」
「……馬鹿ね」
「でも、町に帰る前にしばらく僕に付き合って欲しい。連れてきたいところがたくさんあるんだ。着せたい服がある。観覧車にも乗りたいし、アイスクリームも一緒に食べたい。北海道に行けば泳げる海岸だってある」
「意外と陳腐なのねぇ。いいわよ? 高等遊民の生活だって何かの勉強になるんだわ」
キトラは嬉しそうにこちらを見る。その笑顔は、とても可愛らしかった。
「ねぇ、あなたはどうして地球に残ったの? あなたの大切な物って、一体何かしら?」
それは親友の楓が、旅だった同級生が、軍人の頼木中尉が、幼なじみの桐華が、たくさんの人が、僕に訊いてきた質問。
「さぁ……多分それを探していて、月に乗り損ねたんだと思う」
「地球にそれがあると思ったから?」
「……多分」
「そういうのを優柔不断って言うのよ? で? それは見つかったのかしら?」
「多分ね」
キトラの問いに、僕は曖昧な答えを返した。優柔不断な、その答えを。
「……私があなた家でニュースを見て、我を忘れて改修公社に行ったときの話なんだけど」
「ああ」
「改修公社に着いて、貧しい人たちやら学生やらが必死で大声で叫んでいて、石や卵なんかを投げていて……私は後ろからそれを見て、何だかみんなが凄く馬鹿みたいに思えたの」
「馬鹿みたいに?」
意外な発言に僕は聞き返す。
「みんな周りが見えなくなっていて、凄く一生懸命で、何だかとても滑稽な風景だったわ。女の子とアイスクリームを食べたいなんて考えている人は一人もいなかった。でも、別にその人たちを軽蔑しているわけでも、私のことを棚に上げているわけでもないのよ?」
「わかるよ」
「ねぇ、そのとき、きっと私はあなたの気持ちになっていたんだと思うの。あなたの眼で、あなたが見るように暴力的な人たちを眺めていたんだわ……不思議ね、どうしてそんな風に景色が見えたのかしら?」
「それは、君の肺に、まだ僕の家の空気が残っていたからじゃないかな? 僕は世界を外から眺めて、分かっていたような気になっていたし、僕の家は多分二三次元ぐらいの場所にあるからね」
「当てつけで言ってるんじゃないのよ? あぁ、こういう物の見方もあるんだって、私は驚いたの。あなたのような人も、世界には必要だと思うのよ。この不安定な地球を、バランス良く回すためにも、改修公社で働いても、レジスタンスになっても、あなたはこの星を良くしていくことが出来るわ。それは、ほんの少しかもしれないけど」
実際に世界は変えられる。でも、違う。何百年だって――
かつて、頼木中尉はこういった。誰だって世界は変えられるし、救えると考える。そしてそれは大きさの問題ではなく、もっと別のことなのだろう。
「ねぇ、お願いしてもいいかしら? ここで歩いてみる練習をしたいんだけど」
「もちろん」
「まだ一人で立てないの。手に、捉まってもいい?」
「どうぞ」
僕はキトラへゆっくりと手を差し出す。
「んっ」
キトラは力を込め僕の腕を掴み、立ち上がろうとする。
「――っ、結構重いね」
「痛っ!」
「痛いの?」
「痛いに決まってるじゃない。あなたは何でそんな間抜けなことばかり言うの? んっ……もう手を離しても大丈夫よ」
「いや、危ないからこのままでいいよ」
見た目ほど、キトラはまだ回復していないようだった。どこか無理をしているんじゃないだろうかと、心配してしまう。
「実はまだ、歩く練習はしてないのよ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫……歩いてみるね」
キトラは右足を前に出す。砂浜は、彼女の足を柔らかく受け止める。
「痛っ……歩いたわ!」
「次は左足」
「んっ! 結構、残酷なことを言うのね~」
キトラは一歩一歩、サクリと音を立てながら砂浜を歩く。
「ふぅ、もういいわ……あ~っ、気持ちいい」
キトラは海を見つめ、両手を広げて立っている。
「……その一歩は、小さな一歩だ」
「昔話」
「…………」
僕が無意識に言葉に出していたそれは、確かに昔話の一部だった。僕とキトラは、声を出して笑った。
「ねぇ、私、あなたのこと好きよ? あなたのことが好きなの」
夕焼けで海が茜色に染まってきた頃に、キトラはそう切り出してきた。それは僕の人生の中で、二度目の告白だった。
「銃で撃たれとき、私は夢中であなたを捜したのよ。何故かしら、あなたがきっと居ると思ったの。そしたらあなたは目の前にいたの。凄いしかめ面をして、あなたは私の名前を呼んだわ。私はあなたの名前を呼んだ。私は嬉しかったの。本当は、私はとても嬉しかったのよ? ねっ、あなたは天使を信じる?」
「どうだろう……多分、信じていないんじゃないかな?」
「私はそのとき思ったの。あぁ、もしこの世に天使が居るなら、あなたみたいな人なんじゃないかなって。しかめ面をして、優柔不断で、少し理屈っぽくて、いつも退屈そうで、でも、あたしを助けに来てくれる」
「随分情けない天使だね」
「自信家で話の上手い天使なんてやじゃない? あたしは褒めてるのよ?」
「でもよく、つまらない昔話を始める」
「フフッ、昔話を始める……つまらない話は天使になるために必要な要素なのよ」
それからというもの、僕は言わなくても良い冗談と、つまらない昔話をやたらめったら喋り続けた。少女はそれを軽くたしなめながら、ずっと笑って聴いていたのだけど、終いにはやはり退屈して、あくびを始めてしまった。
Ⅴ
――前略、桐華様。
お元気そうで何よりです。そして、メールの返事が遅れてごめん。
地球の改修公社も、いよいよ戦争を始めるようです。恐がりなのは、月も地球も同じようなのです。現実には地球のあちこちで小さな内乱が起こっていて、国連軍と改修公社軍、ついに、改修公社も軍隊を持ったのです。彼ら地球を守る軍隊は戦車やミサイルで、反乱軍の鎮圧を始めています。
改修計画も、地球再生計画も、理想は高いのだけど、地球はいよいよ黄昏のときを迎えているようです……。
卒業おめでとう。そして就職も。僕はてっきり、君は水族館に就職するものだと思っていました。水族館で働く君の姿は、何故だかとても似合っているように思えていたから。
イスを作る話は、もちろん憶えています。君の口ぶりだと卒業制作は、あまり納得のいく物じゃなかったみたいですね。
でも、きっと大丈夫です。君はきっと、誰からも愛される素敵なイスを作り上げることが出来ると思う。君が言うように、今はまだ勉強の時期なのでしょう。まだ、全てが始まる前なのです。多分、僕にとっても。
自信を持ってください。君の毒舌で落ち込むことが、僕の楽しみでもあるのだから。
……僕は君のことをとても羨ましく思っています。僕は君がとても羨ましい。君が月へ行ったときも、水族館の話をするときも、正直言って、しんどいぐらい羨ましかった。僕は君みたいになれないことが自分でも分かっていたから……本心では、月に行きたくても行けなかったんだと思う。
僕は大学を卒業して、月改修公社に就職しました。多分、改修計画終了後も、ここに残ることになると思う。でも、きっとそれで良いんだと思います。君が去った後、一人で地球に残ったことで僕は新しい眼で地球を見、そして、新しい人たちに会うことが出来ました。それは君が知っているような、相変わらずひねくれた眼や出会いなのだけど、最近少しずつ分かってきた。
僕はこの地球に残りたい。僕はこの黄昏の星でここに残る人たちの暮らしを見続けていたい。月に旅立ちもせず、鎌倉の二三次元の家でただ日々をやり過ごしていた僕は、所長や友達の言葉にただ相づちを打つだけだった僕は、逃げていただけだ。僕が目をそらすことが出来ないものに、見えないふりをしていただけだった。僕はずっと、僕にしか見えないものを見ていると。
遠くで、銃声が聞こえます。
僕はその音のする方に進もうと思います。戦争に行くという意味ではありません。僕は、僕にしかできないやり方で、人間を救いたい。 それがどんな方法かはわからない。でも、きっとそういうものがあるんです。この地球に、確かにそれを感じるのです。
……何だか、つまらない話をしているな。桐華は月で今まで通り元気にしていてください。桐華のことを考えると、僕はとても励みになります。
月は相変わらず僕の憧れです。そして、多分桐華とセットでそう思うのでしょう。
別れの挨拶のようになってしまったけど、実はもうすぐ出張で一度月に行くことになりそうです。そのときは君が働いていた水族館でも案内してください。楽しみにしています。
長くなってしまったけど、この辺で。
桐華はきっと、素晴らしいイス職人になれます。たくさんの食卓で、学校で、レストランで、オフィスで、大人も、子供も、老人も、恋人たちも、桐華の作ったイスに気持ちよく腰掛けることでしょう……期待しています。頑張って、君は全ての幸運が、味方しているのだから。
では、また――
END
コメント