なにもそこまですることはなかったんじゃないかと、そう思うことがある。世の中には許されぬ罪と許される罪というものがあって、例え人を殺したとしても、それが戦場での出来事であれば罪科ではなく勲章が貰える。他者の生命を奪う行為ですら、時と場所をによってはこのような結果になるのだけど、果たして今回の決定と結果、執行は正しかったのだろうか。人を殺すこととは比べようもない、ネットという世界で起こった些細ない諍い。厳罰を与えるにも相手は若く、無知ではなくて経験が足りなかったように私は思えた。純真ではないにしろ、慣れない環境でなにかをやろうとする姿は、純朴でもあったような気がするのだ。
筆を折った人間に、本を読む資格はないのだろうか? 物書きとしての過ちを犯したからといって、その人は本読みとしても最低なのだろうか。あるいは盗作、剽窃、そういったものであれば、読者としてのその人を否定出来るかもしれないが、今回の問題がそうであったとは私には思えない。
無遠慮で非礼な態度が目立ったからと言って、その人の作品は否定されてしまうのか。経験が浅く、場に不慣れなあまり醜態を見せてしまったからと言って、閲覧する権利すら失ってしまうのか。一昨日の日記に図書館について書いたが、図書館というものに慣れていない、利用経験が浅いからといって、図書館は相手が来ることを断れるのか。館内の蔵書を盗んだとか、壊したとか、そういった類の輩はともかくとしてだ。第一、彼はそういった輩よりは多少マシなはずだ。
もちろんあそこは公共施設などではないし、利用者に利用法を手とり足とり教える義務はない。けど、だからといって、あの程度の罪で永久追放されてしまうのかと思えば、私としては苦い顔をせざるを得ない。
私は今回の問題において、被害を受けた側に分類されるらしいが、個人的には大したことではないと思っている。私が彼のコメントを消した理由は、その内容に問題があると感じたからだが、より実質的な理由はそのコメントを残すことによって、他方面からのお客さんが来ることを拒んだからで、そう考えると全部のコメントを消す必要はなかったかもしれないと、今更ながらに思うのだ。第一、少なくとも私の作品の読者であることには変わりがないし、1周年記念の際におめでとうございますと言ってくれた相手だ。そのコメントを消すことに、思うところがないはずがない。
日記でも何回か書いたが、私の作品はよく盗作される。分かっているだけでも過去に4回から5回ほど盗作されており、その全てが一応の解決を見せている。つい最近解決したものでいえば、これは盗作者が自ら盗作したことをメールで送ってきたことで発覚し、これについては以前の日記でも触れたと思う。
私は今回の件と、この盗作問題には似た部分があると感じている。無論、今回の件は盗作を発端とした問題ではないけれど、言動や主張に近い物があるのだ。
盗作者からの自己申告と謝罪というのは私にも経験がなく、だからこそ私は相手の言い分を受け入れたわけだが、その言葉に不快感を覚えなかったわけではない。謝罪こそしていたが、相手は一言も「盗作をした」とは言わなかったのだ。あくまで大規模に「被ってしまった」部分があるという言葉に留め、言うに事欠いて「盗作の疑いを持たれている人いるが、全く悪気はなく、無意識に書いているうちに被ってしまった。だから盗作ではない」というのが向こうの主張だった。それを盗作というのだと言い返してやりたかったが、こじれるのも嫌だったのでそこはスルーした。自らの罪を認めたがらないのは、人間として褒められた行動ではないにしろ、当たり前のことだから。
私が気に食わなかったのは、盗作疑惑の指摘を受けたことに対して、その盗作者が「クレーマーからクレームを受けた」と表現したことだ。それも表現に対する受け止め方しだいだろうと思うが、この言葉があまり良い意味で使われていないことは、日本人であれば誰でも知っているだろう。クレーマーとはあら探しのように難癖をつけ、不当な苦情や抗議を執拗に繰り返す者にさして使われることが多い。
あろうことか、盗作者は自分の犯した罪を指摘した相手をクレーマーだと決めつけ、それによって自分はクレームを受けた哀れな存在であると言い切ったのだ。まず間違いなく、盗作者の中では自分は加害者ではなく被害者だったのだろう。
そんなに人間に尊敬されたところで嬉しくもなんともないのだが、事を大きくしたくなかったのと、盗作者にそれ以上構うのが嫌だったから、作品を削除することで終わらせたいらしい相手の要求を呑んで、問題を終結させました。最近になって作品が削除されていないことに気付き抗議をしたんですが、これは投稿先の管理人のミスらしい。私としては盗作者に場を提供し続ける管理人の真意に疑問を感じていますし、あのサイトには品位がないのかとも思いますが、よそ様にはよそ様の考えがあるのでしょう。私が殊更気にしたところで仕方がないことです。
少しずれましたが、上記にある盗作者の言動は、件の人のそれに近いと私は思います。自分に対する警告や忠告、指摘などが、すべて否定や苦情、非難や批判に見えてしまう人というのは、確かにいるんです。それは大抵において経験や年齢の不足が原因で、他者から否定されることに慣れていない若者にありがちな話ですが、件の人が学生であるのは消してしまったコメントからも見て取ることができました。
自分が欲しいのは作品への賞賛であって、それ以外はいらない。自分を否定するのではなく作品を観て欲しい、あのとき彼が言った言葉はつまるところこういう意味で、彼にとっては忠告や注意は自身に対する叩きにしか見えなかったのでしょう。盗作者がクレーマーによるクレームといったように、初投稿であるからアンチではないにしろ、自身を快く思わない人間からの叩きであると、そう解釈したんだと思います。
その解釈はもちろん間違っているわけですが、彼には他の考えがなかった。視野が狭いというより、物事の多面性、多様性を知らないだけなんです。世の中は二色の色で構成されているわけではないし、十人十色という言葉もあります。彼は極端な物の見方しかできなかった故に、彼に対しある程度は好意的、好意的とは行かないまでも同情的な人たちの意見すらも訊くことが出来なかった。何故ならそういった人たちも、彼の行いそれ自体は否定していたから。
彼は間違いなくあの場と、そこにある作品が好きだったんだと思います。筆を折ることは了承しても、作品を読む権利だけは失いたくなかった。だから叫んだ。しかし、その叫びは逆効果となって、明確に彼の存在を否定する人たちの感情を刺激するだけだった。
随分前に、先ほど書いたのとは違う盗作者とやり取りをしたとき、「作品は消す、謝罪もします。だけどあなたの作品を今後とも読者として読みたい。それだけは許可してくれませんか?」とお願いされたことがあります。私もまだ若く、盗作者に対する嫌悪感もあってか、怒りと共にそれは突き放しました。でも、そいつは盗作者であると同時に私の作品の読者でもあって、私の作品が好きだというい気持ちは、歪んではいたが確かにあったんだと思います。
そして今回、彼の最期の叫びを悪あがきや断末魔として嘲笑する人がいて、無理もないと思う中で、私の心には一片の感傷がある。彼は最後の最後になって、自分が作品を書こうと思ったことを後悔し、自分の作品を否定した。それは前述の通り、彼にとっては作品を発表するよりもあの場にいることが、あそこにある作品を読むことの方が重要だったからで、だから彼は自分の根本的な行いを後悔し、叫んだんです。
そしてそれこそ、彼が私たちに伝えたかった本音なのではないでしょうか。一つ二つの間違いから始まり、作品を執筆する権利と作品を読む権利の双方を失ってしまった人、私に彼を庇うことは出来ないし、その資格もないんだろうけど……どうして、こんなにやるせないんだろうか。なんで、こんなにも胸が苦しいのだろうか。
私もかつて盗作者から執筆する権利の一部と、作品を読む権利を奪った。それは相手が盗作という物書きにあるまじき行為をしたからで、そんな奴に私の作品を読んで欲しくないし、物を書いてほしくないと思ったからだ。
けれど、私は件の彼に対しては同じことを思えないでいる。少なくとも、私の作品を読んで欲しくないとは思えないのだ。彼の作品を読んだことはないが、どんな人だって最初の文章は稚拙であり、そこから始めて文章力を伸ばしていく。
結果が出たことが覆るわけもないし、すべてが終わってからなにを書いているんだと思われるかもしれないが。すべてが終わったからこそ、結果に対して感じることを書いてみることが出来た。私の考えは正しくないのかもしれないが、間違っていると言われたくもない。
泣き叫ぶ人の手を振り払い、外に追い出せるほど私は人に厳しくは出来ないだろうから。
筆を折った人間に、本を読む資格はないのだろうか? 物書きとしての過ちを犯したからといって、その人は本読みとしても最低なのだろうか。あるいは盗作、剽窃、そういったものであれば、読者としてのその人を否定出来るかもしれないが、今回の問題がそうであったとは私には思えない。
無遠慮で非礼な態度が目立ったからと言って、その人の作品は否定されてしまうのか。経験が浅く、場に不慣れなあまり醜態を見せてしまったからと言って、閲覧する権利すら失ってしまうのか。一昨日の日記に図書館について書いたが、図書館というものに慣れていない、利用経験が浅いからといって、図書館は相手が来ることを断れるのか。館内の蔵書を盗んだとか、壊したとか、そういった類の輩はともかくとしてだ。第一、彼はそういった輩よりは多少マシなはずだ。
もちろんあそこは公共施設などではないし、利用者に利用法を手とり足とり教える義務はない。けど、だからといって、あの程度の罪で永久追放されてしまうのかと思えば、私としては苦い顔をせざるを得ない。
私は今回の問題において、被害を受けた側に分類されるらしいが、個人的には大したことではないと思っている。私が彼のコメントを消した理由は、その内容に問題があると感じたからだが、より実質的な理由はそのコメントを残すことによって、他方面からのお客さんが来ることを拒んだからで、そう考えると全部のコメントを消す必要はなかったかもしれないと、今更ながらに思うのだ。第一、少なくとも私の作品の読者であることには変わりがないし、1周年記念の際におめでとうございますと言ってくれた相手だ。そのコメントを消すことに、思うところがないはずがない。
日記でも何回か書いたが、私の作品はよく盗作される。分かっているだけでも過去に4回から5回ほど盗作されており、その全てが一応の解決を見せている。つい最近解決したものでいえば、これは盗作者が自ら盗作したことをメールで送ってきたことで発覚し、これについては以前の日記でも触れたと思う。
私は今回の件と、この盗作問題には似た部分があると感じている。無論、今回の件は盗作を発端とした問題ではないけれど、言動や主張に近い物があるのだ。
盗作者からの自己申告と謝罪というのは私にも経験がなく、だからこそ私は相手の言い分を受け入れたわけだが、その言葉に不快感を覚えなかったわけではない。謝罪こそしていたが、相手は一言も「盗作をした」とは言わなかったのだ。あくまで大規模に「被ってしまった」部分があるという言葉に留め、言うに事欠いて「盗作の疑いを持たれている人いるが、全く悪気はなく、無意識に書いているうちに被ってしまった。だから盗作ではない」というのが向こうの主張だった。それを盗作というのだと言い返してやりたかったが、こじれるのも嫌だったのでそこはスルーした。自らの罪を認めたがらないのは、人間として褒められた行動ではないにしろ、当たり前のことだから。
私が気に食わなかったのは、盗作疑惑の指摘を受けたことに対して、その盗作者が「クレーマーからクレームを受けた」と表現したことだ。それも表現に対する受け止め方しだいだろうと思うが、この言葉があまり良い意味で使われていないことは、日本人であれば誰でも知っているだろう。クレーマーとはあら探しのように難癖をつけ、不当な苦情や抗議を執拗に繰り返す者にさして使われることが多い。
あろうことか、盗作者は自分の犯した罪を指摘した相手をクレーマーだと決めつけ、それによって自分はクレームを受けた哀れな存在であると言い切ったのだ。まず間違いなく、盗作者の中では自分は加害者ではなく被害者だったのだろう。
そんなに人間に尊敬されたところで嬉しくもなんともないのだが、事を大きくしたくなかったのと、盗作者にそれ以上構うのが嫌だったから、作品を削除することで終わらせたいらしい相手の要求を呑んで、問題を終結させました。最近になって作品が削除されていないことに気付き抗議をしたんですが、これは投稿先の管理人のミスらしい。私としては盗作者に場を提供し続ける管理人の真意に疑問を感じていますし、あのサイトには品位がないのかとも思いますが、よそ様にはよそ様の考えがあるのでしょう。私が殊更気にしたところで仕方がないことです。
少しずれましたが、上記にある盗作者の言動は、件の人のそれに近いと私は思います。自分に対する警告や忠告、指摘などが、すべて否定や苦情、非難や批判に見えてしまう人というのは、確かにいるんです。それは大抵において経験や年齢の不足が原因で、他者から否定されることに慣れていない若者にありがちな話ですが、件の人が学生であるのは消してしまったコメントからも見て取ることができました。
自分が欲しいのは作品への賞賛であって、それ以外はいらない。自分を否定するのではなく作品を観て欲しい、あのとき彼が言った言葉はつまるところこういう意味で、彼にとっては忠告や注意は自身に対する叩きにしか見えなかったのでしょう。盗作者がクレーマーによるクレームといったように、初投稿であるからアンチではないにしろ、自身を快く思わない人間からの叩きであると、そう解釈したんだと思います。
その解釈はもちろん間違っているわけですが、彼には他の考えがなかった。視野が狭いというより、物事の多面性、多様性を知らないだけなんです。世の中は二色の色で構成されているわけではないし、十人十色という言葉もあります。彼は極端な物の見方しかできなかった故に、彼に対しある程度は好意的、好意的とは行かないまでも同情的な人たちの意見すらも訊くことが出来なかった。何故ならそういった人たちも、彼の行いそれ自体は否定していたから。
彼は間違いなくあの場と、そこにある作品が好きだったんだと思います。筆を折ることは了承しても、作品を読む権利だけは失いたくなかった。だから叫んだ。しかし、その叫びは逆効果となって、明確に彼の存在を否定する人たちの感情を刺激するだけだった。
随分前に、先ほど書いたのとは違う盗作者とやり取りをしたとき、「作品は消す、謝罪もします。だけどあなたの作品を今後とも読者として読みたい。それだけは許可してくれませんか?」とお願いされたことがあります。私もまだ若く、盗作者に対する嫌悪感もあってか、怒りと共にそれは突き放しました。でも、そいつは盗作者であると同時に私の作品の読者でもあって、私の作品が好きだというい気持ちは、歪んではいたが確かにあったんだと思います。
そして今回、彼の最期の叫びを悪あがきや断末魔として嘲笑する人がいて、無理もないと思う中で、私の心には一片の感傷がある。彼は最後の最後になって、自分が作品を書こうと思ったことを後悔し、自分の作品を否定した。それは前述の通り、彼にとっては作品を発表するよりもあの場にいることが、あそこにある作品を読むことの方が重要だったからで、だから彼は自分の根本的な行いを後悔し、叫んだんです。
そしてそれこそ、彼が私たちに伝えたかった本音なのではないでしょうか。一つ二つの間違いから始まり、作品を執筆する権利と作品を読む権利の双方を失ってしまった人、私に彼を庇うことは出来ないし、その資格もないんだろうけど……どうして、こんなにやるせないんだろうか。なんで、こんなにも胸が苦しいのだろうか。
私もかつて盗作者から執筆する権利の一部と、作品を読む権利を奪った。それは相手が盗作という物書きにあるまじき行為をしたからで、そんな奴に私の作品を読んで欲しくないし、物を書いてほしくないと思ったからだ。
けれど、私は件の彼に対しては同じことを思えないでいる。少なくとも、私の作品を読んで欲しくないとは思えないのだ。彼の作品を読んだことはないが、どんな人だって最初の文章は稚拙であり、そこから始めて文章力を伸ばしていく。
結果が出たことが覆るわけもないし、すべてが終わってからなにを書いているんだと思われるかもしれないが。すべてが終わったからこそ、結果に対して感じることを書いてみることが出来た。私の考えは正しくないのかもしれないが、間違っていると言われたくもない。
泣き叫ぶ人の手を振り払い、外に追い出せるほど私は人に厳しくは出来ないだろうから。
コメント
リリカルなのはクロスSS倉庫に掲載されている赤き閃光の英雄が同人誌化されていると聞き、とらのあなに向ったのですが、すでに売り切れていました。
そこで、赤き閃光の英雄について、調べている時に8月頃の日記で再販の目処が立っていないと記載されていました。
もし、目処が立った場合は再販の可能性があると見ていいのでしょうか?
再販するとしたら続編の逆襲の救世主の同人誌化と同時に再販するのですか?
再販された時は、両作品とも必ずや購入します。
逆襲の救世主の改訂作業、頑張ってください。
応援しています。
えー、赤き閃光の英雄についてですが、これはとらのあなの報告書を見る限り、完全に完売しています。そして再販予定なんですが、これも今のところ未定でして……理由はいくつかあるのですが、イベント用に小数部ならまだしも、書店委託となりますと書店側の都合も入ってくるので私の方からはなんとも。
冬コミに受かれば再販するつもりだったんですけどねぇ、これについては色々考えてはいるんですが年内にどうこうというのは難しいと思います。
ただまあ、折角コメントをくださったわけですし、もし宜しければ手元にある在庫を個人通販することも可能ではありますが。一応、上下巻+読本が僅かに残ってますので。興味がお有りでしたらメールくださいまし。