深みの中に生まれるもの
2009年12月14日 アニメ・マンガ随分前の話になるけど、私が作家を夢見て勉学に励んでいた頃、短い期間ではあったものの、描写力を鍛えたくて一門の師匠とは違う別の先生に教えを請うていたことがある。その人はプロ物書きでも名の知れた人で、作詞家でもあった。作詞というのは特に描写力が必要で、3分半から5分足らずの楽曲の中でなにが起こっているのか、それを明確に伝えなくてはいけない。そういった意味で、その人はプロ中のプロであった。
当時の私は作家としての才能が自分にはないことを薄々気づいていて、とにかく技術力を上げることに対して必死だった。才能の欠如が技術によってカバーできるはずはないのだが、才能もなければ技術もない、それでは本当になにも持ち合わせていない人間になってしまう。故に私は技術力を鍛えた。鍛えるしかなかったともいえるが、おかげで技術だけならそれなりになることができた。身内に言わせれば、「当たり前のこと」だそうだけど、その当たり前を手にいれるために、私はどれほど努力をしたのか。血のにじむようなとは流石に大げさかもしれないけど、つらいことが多かったのも事実である。
それもすべて作家になるため、あの頃の私は夢に対する情熱だけを持っていて、他のことが見えなくなっていたように思える。それが悪いことだとは、必ずしも断定出きないのだろうけど、良いことだとも思えない。今になって、それがよくわかるのだ。
描写力を指導してくれたプロ物書きの人とは、あまり長い付き合いではなかった。なにせ私はその人の弟子というわけではなかったし、言うなれば一時の間教えを請うていただけの生徒に過ぎない。そんな私に対して、プロ物書きは最後に会ったときこのようなことを言ってきた。
「私はあなた以外にも物書き志望を何人か知っていて、小説家に限定しなければあなたはいい線を行っています。けれど、私はそういった人達に必ず言うことがあるんです。それは、描写力を鍛えることなんかより、物書きを目指すにあたってよっぽど重要なことです」
それはなんですか、と私は訊いた。描写力よりもさらに重要な、なにかテクニックでもあるのかと思った。けど、返ってきた答えはまるで違った。
「あなたが今後どのような道を歩むかは知りませんが、一度は組織に入りなさい。そして人としての経験を積みなさい。才能や技術よりも、社会にでることの方が、作家にはなるにはよっぽど重要です」
衝撃を受けた、というのは流石に言い過ぎだろうが、それまで散々私に技術力を叩き込んでいた人が、このように言ってきたことは少なからず意外だった。けれど、それまであった私の価値観に一定以上の影響を与えたのは事実であり、がむしゃらでしかなかった私を変える一言だったと思う。
人としての深み、有り体に言えば人生経験ですけど、それがない人間はなににもなれないと言うことなんでしょうね。どうして急にこんな話を書こうと思ったかというと、先日ちょっとした話を聞きまして。そのときに思い出したんですよ。作家になるために必要なことはなにか、才能や運はともかくとしても、技術や読書量だけじゃないのは確かで、経験の少ない人間に書けるものっては本当に少ない。
以前、芸術肌のテレビ屋さんに原稿を見て頂く機会が会ったんだけど、その人にこんなことを言われたことがある。
「この原稿は内容が稚拙で、文章も未熟だけど、私は評価する。この原稿には嘘がない。今の君が持っているものを、すべて出し切って書いている。無理に“大人くささ”を出そうとしていない。君はまだ若いし、人生経験も足りない。そんな人間が大人を書こうとすると、どうしたって無理が出る。しかし、君は自分に嘘はつかなかった。自分の知らないことを書こうとしなかった。だから私は君の作品を評価するし、君という物書きに好感を覚えた」
相手は人間国宝とか重要文化財とか、史跡とか遺跡なんかの番組を作ってしまうようなテレビ屋のベテランだ。年季も、深みも、私などとは比べものにならない。
「大人が書きたいなら、早く大人になるべきだ。人の親になって、初めて見えてくるものもあるだろう。人は社会にでて、世の中で生きることで自身を熟成させなければいけない。机と椅子にかじりついて、本だけを読んでいるような人間は作家にはなれない。私は色々な芸術家に出会ってきたが、生涯芸術家であり続けたからといって、それ以外のことをなにもしなかった人などいるはずもないのだから」
本を100冊、いや、1000冊も読んでいればなにかしらの作品は書けるかもしれない。けれど、それではダメなのだ。そうした作品に価値がないとは言わないが、作家として書き続けていくには、それではダメだ。1000冊分の結晶がそれなら、次の作品を書くにはまた1000冊読まなければいけない。読書の上に成り立つ集大成に、先はない。
最後に、これは出版社の現役編者とライトノベル作家について話したときのことである。若手が伸び悩んでいる傾向に対して、その人はこんなことを言っていた。
「若手……そう、彼らはみんな若すぎる。若くして作家になった連中は、書きたいものが少なすぎる。彼らの発想の戸棚は引き出しの数が少なくてすぐに中身が空になるし、視野が狭いので世界を見渡すことも出きない。彼らは燃え尽きるのが早い。若くして作家になったばかりに、2作、3作も発表すると、それだけで自分の中にあるものを出し尽くしてしまう。彼らの年齢では、それ以上のモノを持ち合わせていないんだ。そういった作家は潰れるし、潰れるから切られる。早咲きした花は、枯れるのも早い。一時花開かせるだけの小奇麗な花よりも、長くその場にあり続ける大樹になるべきだ」
これは最近の話だけど、かなり共感の持てる意見だった。しかし、ライトノベルが中高生向けの読み物である以上、あまりに年齢を重ねてしまうと書くことが出来なくなる。故に二十代後半ぐらいのデビューが多いとされているわけだが、ラノベは完熟した作家が書くものではなく、成熟しきってないぐらいが丁度いい。けれど未熟な人間が作家になれるわけもなので、目指すは半熟と言ったところだろうか。私は苦手だが、それを好むひとが多いのも、また事実ではある。
長くなりましたけど、要するに人生経験って大事だよねって話。高名なラノベ作家、神坂一だって専業作家になる前は会社員でしたし、秋田禎信は兼業作家でした。作家なんてのはスポーツ選手と違って、ただそれだけに打ち込んでいればなれるわけでもないし、そこへ達するための道は多種多様、あらゆる角度にあるはずなんですよ。私はより近い部分からそこを目指すことにしましたけど、自分に合っていると思うし、間違った道を歩いているとは思わない。
社会に出ないこと、それが自分に合った、一番いい選択だと思うのならそうすれば良いし、そうやって作家を目指したいのなら、目指せば良い。
ただ、たった一つ、青二才でしかない私ですら言える真理と言うものがある。純粋なる天才には当てはまらないあもしれないが、大部分の人間はそうだと言えることだ。
世の中そんなに、甘くない。
偉そうなこと言ってますね。でも、そうとしか言えない。それでは、また明日。
当時の私は作家としての才能が自分にはないことを薄々気づいていて、とにかく技術力を上げることに対して必死だった。才能の欠如が技術によってカバーできるはずはないのだが、才能もなければ技術もない、それでは本当になにも持ち合わせていない人間になってしまう。故に私は技術力を鍛えた。鍛えるしかなかったともいえるが、おかげで技術だけならそれなりになることができた。身内に言わせれば、「当たり前のこと」だそうだけど、その当たり前を手にいれるために、私はどれほど努力をしたのか。血のにじむようなとは流石に大げさかもしれないけど、つらいことが多かったのも事実である。
それもすべて作家になるため、あの頃の私は夢に対する情熱だけを持っていて、他のことが見えなくなっていたように思える。それが悪いことだとは、必ずしも断定出きないのだろうけど、良いことだとも思えない。今になって、それがよくわかるのだ。
描写力を指導してくれたプロ物書きの人とは、あまり長い付き合いではなかった。なにせ私はその人の弟子というわけではなかったし、言うなれば一時の間教えを請うていただけの生徒に過ぎない。そんな私に対して、プロ物書きは最後に会ったときこのようなことを言ってきた。
「私はあなた以外にも物書き志望を何人か知っていて、小説家に限定しなければあなたはいい線を行っています。けれど、私はそういった人達に必ず言うことがあるんです。それは、描写力を鍛えることなんかより、物書きを目指すにあたってよっぽど重要なことです」
それはなんですか、と私は訊いた。描写力よりもさらに重要な、なにかテクニックでもあるのかと思った。けど、返ってきた答えはまるで違った。
「あなたが今後どのような道を歩むかは知りませんが、一度は組織に入りなさい。そして人としての経験を積みなさい。才能や技術よりも、社会にでることの方が、作家にはなるにはよっぽど重要です」
衝撃を受けた、というのは流石に言い過ぎだろうが、それまで散々私に技術力を叩き込んでいた人が、このように言ってきたことは少なからず意外だった。けれど、それまであった私の価値観に一定以上の影響を与えたのは事実であり、がむしゃらでしかなかった私を変える一言だったと思う。
人としての深み、有り体に言えば人生経験ですけど、それがない人間はなににもなれないと言うことなんでしょうね。どうして急にこんな話を書こうと思ったかというと、先日ちょっとした話を聞きまして。そのときに思い出したんですよ。作家になるために必要なことはなにか、才能や運はともかくとしても、技術や読書量だけじゃないのは確かで、経験の少ない人間に書けるものっては本当に少ない。
以前、芸術肌のテレビ屋さんに原稿を見て頂く機会が会ったんだけど、その人にこんなことを言われたことがある。
「この原稿は内容が稚拙で、文章も未熟だけど、私は評価する。この原稿には嘘がない。今の君が持っているものを、すべて出し切って書いている。無理に“大人くささ”を出そうとしていない。君はまだ若いし、人生経験も足りない。そんな人間が大人を書こうとすると、どうしたって無理が出る。しかし、君は自分に嘘はつかなかった。自分の知らないことを書こうとしなかった。だから私は君の作品を評価するし、君という物書きに好感を覚えた」
相手は人間国宝とか重要文化財とか、史跡とか遺跡なんかの番組を作ってしまうようなテレビ屋のベテランだ。年季も、深みも、私などとは比べものにならない。
「大人が書きたいなら、早く大人になるべきだ。人の親になって、初めて見えてくるものもあるだろう。人は社会にでて、世の中で生きることで自身を熟成させなければいけない。机と椅子にかじりついて、本だけを読んでいるような人間は作家にはなれない。私は色々な芸術家に出会ってきたが、生涯芸術家であり続けたからといって、それ以外のことをなにもしなかった人などいるはずもないのだから」
本を100冊、いや、1000冊も読んでいればなにかしらの作品は書けるかもしれない。けれど、それではダメなのだ。そうした作品に価値がないとは言わないが、作家として書き続けていくには、それではダメだ。1000冊分の結晶がそれなら、次の作品を書くにはまた1000冊読まなければいけない。読書の上に成り立つ集大成に、先はない。
最後に、これは出版社の現役編者とライトノベル作家について話したときのことである。若手が伸び悩んでいる傾向に対して、その人はこんなことを言っていた。
「若手……そう、彼らはみんな若すぎる。若くして作家になった連中は、書きたいものが少なすぎる。彼らの発想の戸棚は引き出しの数が少なくてすぐに中身が空になるし、視野が狭いので世界を見渡すことも出きない。彼らは燃え尽きるのが早い。若くして作家になったばかりに、2作、3作も発表すると、それだけで自分の中にあるものを出し尽くしてしまう。彼らの年齢では、それ以上のモノを持ち合わせていないんだ。そういった作家は潰れるし、潰れるから切られる。早咲きした花は、枯れるのも早い。一時花開かせるだけの小奇麗な花よりも、長くその場にあり続ける大樹になるべきだ」
これは最近の話だけど、かなり共感の持てる意見だった。しかし、ライトノベルが中高生向けの読み物である以上、あまりに年齢を重ねてしまうと書くことが出来なくなる。故に二十代後半ぐらいのデビューが多いとされているわけだが、ラノベは完熟した作家が書くものではなく、成熟しきってないぐらいが丁度いい。けれど未熟な人間が作家になれるわけもなので、目指すは半熟と言ったところだろうか。私は苦手だが、それを好むひとが多いのも、また事実ではある。
長くなりましたけど、要するに人生経験って大事だよねって話。高名なラノベ作家、神坂一だって専業作家になる前は会社員でしたし、秋田禎信は兼業作家でした。作家なんてのはスポーツ選手と違って、ただそれだけに打ち込んでいればなれるわけでもないし、そこへ達するための道は多種多様、あらゆる角度にあるはずなんですよ。私はより近い部分からそこを目指すことにしましたけど、自分に合っていると思うし、間違った道を歩いているとは思わない。
社会に出ないこと、それが自分に合った、一番いい選択だと思うのならそうすれば良いし、そうやって作家を目指したいのなら、目指せば良い。
ただ、たった一つ、青二才でしかない私ですら言える真理と言うものがある。純粋なる天才には当てはまらないあもしれないが、大部分の人間はそうだと言えることだ。
世の中そんなに、甘くない。
偉そうなこと言ってますね。でも、そうとしか言えない。それでは、また明日。
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