実は私、文章が書けなくなってます。理由は分かりませんが、単純なスランプでないのは確からしいです。スランプは書きたくても書けない状態のことをいうのだと思いますが、私の場合は書く気すら起きてこないという感じ。どうしたことか、書ける気はするのに書くことが出来ない、そんな奇妙な気分にとらわれています。

このことを悲恋堂に相談したところ、「そんなものは単なるなまけ病です」と一刀両断されたんだけど、私が付け加えるように、「しかし、エロゲすらやる気にならんのだ」と言うと、「……それは重症ですね」と実に深刻な表情を作った。エロゲが判断基準って、私たちは色々間違っている気がする。
そんな中、悲恋堂が昨今話題になっているらしい論争、二次創作同人誌についての是非について話題に出してきた。なんでも原作すら知らないくせに同人誌を描く輩はどうなのよ、という話らしいが、そんな輩が本当にいるのですかと悲恋堂は私に尋ねてきた。店主はそもそも二次創作の同人誌というものを嫌悪しており、私にもさっさと同人活動なんて辞めなさいと言い続けているのだけど、原作すら知らないくせに同人誌を出すなんて、一体なにが描けるのか、という驚きを越えた呆れがあったらしい。
私もその通りだと思うが、所謂専業同人という同人で飯を食っている輩には意外とそういう奴らが多いのだ。連中は同人誌で食い扶持を稼いでいるわけだから、当然のごとく流行のジャンルに手を出しやすい。その方が売れるからであり、もちろん真面目に作品を研究する奴もいるし、流行のジャンルなのだから実際に視聴ないしプレイなどをする者も多いのだが、中には数少ない知識、それこそ絵柄とウィキペディアを見ただけで本を書こうとする奴もいるにはいるのだ。最近で言えば、涼宮ハルヒの憂鬱や魔法少女リリカルなのはの同人誌に多く観られた傾向だが、人気ジャンルになればなるほど、明らかに原作を知らないであろう人間の描いた同人誌というのが散見するのである。特にアニメ作品の場合は全13話ないし26話をいちいち観るということが面倒くさいもとい難しいため、1話見ているだけでもマシというレベルが存在するのも事実なのだ。
スタンスが違うからと言って商業同人そのものを否定するつもりはないが、単に流行に乗っかるだけの姿を肯定しろと言われると、それはそれで嫌な気分になる。悲恋堂が感じているほどの嫌悪感ではないが、同人誌のあり方というものについての認識が異なるのだろう。

私がかつて所属していたサークルを離脱したのは内紛が直接的な原因ではあるが、その内紛が起こった理由は過度な儲け主義の推進と、それに対する反発だ。折しもギャルゲーブームであり、Kanonやシスプリ描いてればなんだって売れたという時代、80年代ないし90年代のように一財産築くことも不可能ではなかったことを考えれば、その選択もまたおかしくはなかったのだろう。
しかし、当時の同人サークルというのは個人サークルが主流である今と違い、複数人での作業が非常に多かった。一つの本に複数人の作家が原稿を寄せ合い、今では合同誌などと呼ばれてしまうようなものが、一つのサークル内で成立していたのだ。そもそも、個人サークルという言葉がある時点で、同人サークルがかつてはどういった形態だったのかわかるようなのものである。そこには当時の印刷環境や金銭的問題、時代背景などもあるのであろうが、ここでは割愛しよう。関係ないことだ。
私が所属していたのはそれなりに名うてのサークルで、執筆者も現在商業活動で人気を博しているものがいるなど実力派が揃っていたが、足並みだけは本当に悪かった。あれはもう感性が違うとしか言い用がない。同人誌に対する考え方、求めているものに差がありすぎて、なにを書きたいかということでの対立が本当に大きかった。
サークルを運営し、維持するために流行に乗っからざるを得ない人がいて、好きなものを書きたいがために執筆する人がいて、その二人が対立したとき、サークルは解散するしかなかった。いつの間にか同人誌を出すという行為それ自体が、サークルを存続させるためのものにすり変わっていた。それだけの話しです。次はこの作品の本をだすから内容をチェックしておけという言葉を拒否したとき、集団としての生命力は尽きたのだろう。

私の昔話を悲恋堂はつまらなそうに聞いていて、聞き終わっても特に楽しいとも思わなかったようだ。奴にとっては商業だろうが趣味だろうが同人は嫌いであり、二次創作は嫌悪の対象なのである。我が親友ながら視野が狭い、などとは思わない。人にはそれぞれの考えがあり、それぞれの正義があるのだ。
くだらない昔話をして、そういえば私の筆力が底を尽きた件はどうなったんだろうと思ったのは帰りの電車の中だった。

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