劇場版 涼宮ハルヒの消失
2010年4月23日 アニメ・マンガ
最終日になって映画を見に行くというのは、私にとってあまり珍しいことじゃありません。最近だと、そう、今年のはじめぐらいに見たマクロスFの映画もそうでした。確か、横浜の109シネマズかなにかで見たんだと思うけど、この映画は川崎チネチッタで。他の場所じゃやってないんだよね。前日回収できなかった暁の護衛をメロンブックスまで取りに行く関係上、結構ハードなスケジュールになったけど、個人的には凄く満足しています。最終日に、まさか所見の奴はいないだろう、ほとんどがリピーターだろうと後ろの席の二人組が言ってたけど、何を隠そう私は初見だった。
そして、2時間50分後にそれを後悔することになる。
2時間50分という上映時間は、アニメ映画として考えればとてつもなく長いもので、昨日の日記にも書いたが大抵は90分であり、長くても120分、2時間だ。例えばポケモン映画の第1作ミュウツーの逆襲は75分だし、ドラえもんの日本誕生は100分、名探偵コナンの世紀末の魔術師だって同じぐらいだ。国民的アニメでさえ2時間超は珍しいのに、ハルヒはなんと約3時間。まあ、大衆狙いの作品じゃないから長々と上映出来たという考えもあるのだろうけど、一般的にもオタク的にも異例の長さでしょう。
さすがにこの時期にになると、というか本日が上映最終日ですから上映回数もたった1回。夜の19時35分からでした。しかも劇場が別館のCINE GRANDEで、まあこれに関しては広いからいいんですけどね。入ったのは初めてか、それとも一度ぐらいはあるのか。ギリギリでレイトショーじゃないもんだから通常料金、なのに終わるのは22時半頃だから、終わってからメシを食うというわけにも行かず、かといって事前に食うほどの時間がなかったので劇場の売店で色々買うことに。しかし、CINE GRANDEの売店は本館の売店と違って売っているものの種類が少ないので、食べ物だけ本館で買って移動するという行動をとる。ホットドッグのチーズを片手に別館へ行くというのも、それはそれで面倒くさい。特に雨が降っていればなおさらだ。荷物をおいて、終演後はグッズ販売をしないというのでパンフだけ買うことに。他のグッズも結構残ってて、丁度金も大量に持ってたんだけど、雨の中グッズ抱えて帰る気も起きず、また興味もなくて。とりあえずパンフをしまいつつ、ホットドッグ食べながら上映時間待つことに。かなり割高だったけど、その場でチーズを掛けてくれたチーズドッグは、シンプルながらそれなりに上手い。今度来たときはナチョスと一緒に試してみようか? いや、それだと850円も映画以外に使うことになるな。止めておこう。
始まった映画は、私には懐かしさを覚えさせるものでした。というのも、私はハルヒの2期は笹の葉ラプソディぐらいしか見ていなかったので、映像媒体としてのハルヒを見るのはすごい久しぶり。前日まではあまり消失が好きじゃなかったこともあり、乗り気じゃなかったんだけど……劇場スクリーンで見るとやっぱり違うね。圧巻とは当にこのこと。さすがに川崎で公開終了になるほどだし、ネタバレしてもいいと思うんだけど、ハルヒという話を全く知らずに観に行くとすれば、あまりおすすめ出来る映画ではないね。まあ、そんな人は流石にいないと思うし、いたとしてもそれは記事をでっち上げる必要がある映画関係の記者か編集ぐらいだろうけど、最低でも原作の1巻と短編の笹の葉ラプソディ、もしくはアニメの1期ぐらいは見る必要があるかも知れない。
2時間50分が果たして限られた時間と表現出来るのかどうかはしらないが、ハルヒという世界観や登場するキャラクターたちに対する紹介は序盤ではほとんどなされていない。アニメであってもこの作品はキョンの第一人称と視点で進むため、誰に対しても紹介することができないのだ。いや、手法やセリフ回しを変えれば可能であるが、あえてそれを放棄している。振り返る必要などないとでも言いたげに。その理由はなんとなくわかる。この映画は、涼宮ハルヒの消失という作品は積み重ねの上に成り立っている作品なのだ。季節は冬、年末で、1年が終わろうとしているとき。SOS団が結成されて7ヶ月近く、その積み重ねと過ごした年月の上でこの物語始まっている。そして、その7ヶ月を振り返るのは序盤ではないのだ。
いつもの何気ない日常と、それが壊れる瞬間。キョンだけがすべてを覚えていて、他の人はすべてを忘れ、変わってしまっている。前述したとおり、一種の恐怖感がここにはあって、神の視点を持つ映画をみている人たちも、それに共感することが出来る。原作の内容を知っていたとしても、だ。ハルヒが消えたことと朝倉涼子が復活したこと、これがどれほどキョンについて衝撃と同様を与えたのか。ハルヒという存在は、キョンにとって非日常をもたらす存在でありながら、本人自体は日常に存在するクラスメイトなわけで、一方で朝倉涼子というのは存在自体が非日常で、しかも既に消え去ったはずの元クラスメイトです。一見するとハルヒの消失に強いショックと衝撃を受けているようにも見えるあのシーンは、それと同時に朝倉涼子に対しても畏れ慄いていたのではないか。
突きつけられたありえない現実を前に、ハルヒという存在を消失してしまったキョンは他の仲間達を探すわけですが、最初に考えたのはやはり長門有希のこと。別のクラスに在籍し、尚且つハルヒ以外では最初に知り合った団員の一人ですが、キョンはこの同級生の少女を、情報統合思念体なる宇宙的存在が作った対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースをとても信頼しています。おそらく、朝比奈みくるや古泉一樹とは別に、無条件に信頼しており、一番信用もしているでしょう。困ったことがあれば長門に、という発想はキョンにとって数ヶ月の間を過ごす中で培われてしまった当然の思考であり、まずは長門に頼ることが当たり前だったのです。
キョンが長門を強く信頼しているのは、2期の24話である涼宮ハルヒの溜息Ⅴを見るとよくわかります。はじめて朝比奈みくるが古泉一樹との対立姿勢を顕に話であり、また、古泉一樹が自分の立場や真実の一端を垣間見せた話でもありますが、このときのキョンは長門へ意見を求めました。キョンは古泉一樹をさほど信頼していないが、みくるに対しても完全に信用しているわけではない。しかし、長門に対してはどうだろうか? 長門は自己の見解を述べるが、それもあくまでキョンにとっては確証の得られない、真実である保証もないものだと言い切る。けれど、あるいはキョンは長門の言う事ならば無条件に信じたのではないだろうか。血みどろの戦いを続ける超能力者や、自分のいる未来を守ろうとしている未来人とは違い、人間ではない対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースを、キョンは誰よりも信頼し、信用しているから。まあ、心情的に共感していたのは古泉に対してなんですけど。
それを踏まえた上で映画の話に戻ると、キョンがまっさきに長門のところへ行こうとするのは結構納得の行くことなのですが、その最中に彼は信じられないものを見る。ハルヒの存在以外にも、なんと古泉一樹が所属する1年9組のクラスごとで消えていたのだから。何故古泉が消えたのか、それに対する個人的見解は後で書きますけど、それに対して呆然としてしまったキョンはSOS団の部室に行くことができず、結局放課後まで授業を受けることに。後ろの席にハルヒではなく朝倉涼子がいるというのは、それなり以上に緊張するわけで、あまりの出来事を前に授業など身に入るわけもない。
迎えた放課後、キョンは校内で朝比奈みくると鶴屋さんに遭遇します。世界が可笑しくなって初めてSOS団のメンバーに会えたわけで、キョンは興奮しながら近づいていきますが、朝比奈みくるは既に未来人ですらなく、一般の上級生にになっていた。胸に星型のほくろがあるかどうかはともかく、鶴屋さん共々、そこにいたのは他人だった。キョンのことを知らない、赤の他人。ショックだったでしょうね、いなくなったハルヒや古泉はまだしも、自分がよく知る人間から否定されたのだから。
訪れたSOS団の部室には、長門がいた。けれどそこにいたのは文芸部員としての長門有希であり、キョンのことは別クラスの同級生程度にしか知らなかった。キョンのいう宇宙人がどうのとか、そういうことは一切知らない普通の少女。最後の希望が潰えたことでキョンは非常に動揺しますが、思わず掴みかかってしまった長門の弱々し気な態度を見て冷静さを取り戻す。この辺り、長門がとことん儚げで愛らしい存在として描かれていて、これで長門に転ばない人はそうそういないんではないかというぐらい可愛かった。私は元々ハルヒと同程度かそれ以上に長門が好きなのですが、きっとスクリーンを見る表情は情けなく緩んでいたことでしょう。あれはちょっと反則だよ。
弱者と化した長門に力はなく、キョンは乱暴したことを詫びてうなだれます。見慣れぬ旧型のパソコンに触れても、そこにはSOS団を示すものはなにもない。SOS団の部室は、どこまでも文芸部室だった。置いてある本にしても、です。途方に暮れたキョンは文芸部室を後にしようとしますが、それを長門が呼び止めます。良かったら、と渡されたのは入部用紙。普通に考えれば突然部室に乗り込んできて狼藉を働いた男を勧誘するなんておかしな話ですが、そこには色々な事情がある。例えば、別のシーンで長門が自分の読んでいる本は市立図書館で借りたものだ、とわざわざ明言したことにも見て取れる。長門はそれとなく、自分がキョンと知り合いであることをアピールしているわけです。
帰宅したキョンは飼猫であるシャミセンと向きあいますが、かつてハルヒの力で人語を喋ったこともある猫ですが、なにを語りかけてもうんともすんとも云わない。妹の話では文化祭時期にキョンが家に連れてきた、という設定は生きているようですが、そこにハルヒは絡んでいない。妹もまたハルヒのことなど知らないのだから。
翌日また文芸部室へと向かったキョンは、そこで一冊の書籍を見つける。早川書房から刊行されている、ダン・シモンズのハイペリオンの没落だ。ヒューゴー賞とローカス賞、さらに星雲賞も取った海外SFの傑作であるが、書影とかそのまま使ってるんですね。まあ、引用ともなれば色々面倒くさいんですけど、書影程度ならクレジットしとけば十分というのが早川書房の方針だから、TVシリーズから続いて使用出来ているようです。
そう、ハイペリオンはTVシリーズにおいて長門が読んでいたものであり、キョンに貸したことがある一冊。とっさにひらめいたキョンは慌ててページを捲り、発見しました。ここにいる長門ではない長門から残された、ヒントの書かれた栞を。
プログラム起動条件 鍵をそろえよ
元の世界への、ハルヒへの糸口をキョンが見つけた瞬間でした。
長くなりそうなので、2日分けることにします。既に5000文字ぐらい書いているし、あんまり長くなると読みづらいからね。自分でもビックリするぐらい書くことがあるというか、この日記でなんども書いたかはしらないが、私って別にハルヒ好きじゃないんだけどね。谷川流はまず間違いなく天才だと思うし、ハルヒという作品もよく出来ているものの、作品に対する好き嫌いで言えば……嫌いではないが、決して好きにもなれないという感じか。
まあ、それについても機会があれば書くことにしましょう。機会があれば。
そして、2時間50分後にそれを後悔することになる。
2時間50分という上映時間は、アニメ映画として考えればとてつもなく長いもので、昨日の日記にも書いたが大抵は90分であり、長くても120分、2時間だ。例えばポケモン映画の第1作ミュウツーの逆襲は75分だし、ドラえもんの日本誕生は100分、名探偵コナンの世紀末の魔術師だって同じぐらいだ。国民的アニメでさえ2時間超は珍しいのに、ハルヒはなんと約3時間。まあ、大衆狙いの作品じゃないから長々と上映出来たという考えもあるのだろうけど、一般的にもオタク的にも異例の長さでしょう。
さすがにこの時期にになると、というか本日が上映最終日ですから上映回数もたった1回。夜の19時35分からでした。しかも劇場が別館のCINE GRANDEで、まあこれに関しては広いからいいんですけどね。入ったのは初めてか、それとも一度ぐらいはあるのか。ギリギリでレイトショーじゃないもんだから通常料金、なのに終わるのは22時半頃だから、終わってからメシを食うというわけにも行かず、かといって事前に食うほどの時間がなかったので劇場の売店で色々買うことに。しかし、CINE GRANDEの売店は本館の売店と違って売っているものの種類が少ないので、食べ物だけ本館で買って移動するという行動をとる。ホットドッグのチーズを片手に別館へ行くというのも、それはそれで面倒くさい。特に雨が降っていればなおさらだ。荷物をおいて、終演後はグッズ販売をしないというのでパンフだけ買うことに。他のグッズも結構残ってて、丁度金も大量に持ってたんだけど、雨の中グッズ抱えて帰る気も起きず、また興味もなくて。とりあえずパンフをしまいつつ、ホットドッグ食べながら上映時間待つことに。かなり割高だったけど、その場でチーズを掛けてくれたチーズドッグは、シンプルながらそれなりに上手い。今度来たときはナチョスと一緒に試してみようか? いや、それだと850円も映画以外に使うことになるな。止めておこう。
始まった映画は、私には懐かしさを覚えさせるものでした。というのも、私はハルヒの2期は笹の葉ラプソディぐらいしか見ていなかったので、映像媒体としてのハルヒを見るのはすごい久しぶり。前日まではあまり消失が好きじゃなかったこともあり、乗り気じゃなかったんだけど……劇場スクリーンで見るとやっぱり違うね。圧巻とは当にこのこと。さすがに川崎で公開終了になるほどだし、ネタバレしてもいいと思うんだけど、ハルヒという話を全く知らずに観に行くとすれば、あまりおすすめ出来る映画ではないね。まあ、そんな人は流石にいないと思うし、いたとしてもそれは記事をでっち上げる必要がある映画関係の記者か編集ぐらいだろうけど、最低でも原作の1巻と短編の笹の葉ラプソディ、もしくはアニメの1期ぐらいは見る必要があるかも知れない。
2時間50分が果たして限られた時間と表現出来るのかどうかはしらないが、ハルヒという世界観や登場するキャラクターたちに対する紹介は序盤ではほとんどなされていない。アニメであってもこの作品はキョンの第一人称と視点で進むため、誰に対しても紹介することができないのだ。いや、手法やセリフ回しを変えれば可能であるが、あえてそれを放棄している。振り返る必要などないとでも言いたげに。その理由はなんとなくわかる。この映画は、涼宮ハルヒの消失という作品は積み重ねの上に成り立っている作品なのだ。季節は冬、年末で、1年が終わろうとしているとき。SOS団が結成されて7ヶ月近く、その積み重ねと過ごした年月の上でこの物語始まっている。そして、その7ヶ月を振り返るのは序盤ではないのだ。
いつもの何気ない日常と、それが壊れる瞬間。キョンだけがすべてを覚えていて、他の人はすべてを忘れ、変わってしまっている。前述したとおり、一種の恐怖感がここにはあって、神の視点を持つ映画をみている人たちも、それに共感することが出来る。原作の内容を知っていたとしても、だ。ハルヒが消えたことと朝倉涼子が復活したこと、これがどれほどキョンについて衝撃と同様を与えたのか。ハルヒという存在は、キョンにとって非日常をもたらす存在でありながら、本人自体は日常に存在するクラスメイトなわけで、一方で朝倉涼子というのは存在自体が非日常で、しかも既に消え去ったはずの元クラスメイトです。一見するとハルヒの消失に強いショックと衝撃を受けているようにも見えるあのシーンは、それと同時に朝倉涼子に対しても畏れ慄いていたのではないか。
突きつけられたありえない現実を前に、ハルヒという存在を消失してしまったキョンは他の仲間達を探すわけですが、最初に考えたのはやはり長門有希のこと。別のクラスに在籍し、尚且つハルヒ以外では最初に知り合った団員の一人ですが、キョンはこの同級生の少女を、情報統合思念体なる宇宙的存在が作った対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースをとても信頼しています。おそらく、朝比奈みくるや古泉一樹とは別に、無条件に信頼しており、一番信用もしているでしょう。困ったことがあれば長門に、という発想はキョンにとって数ヶ月の間を過ごす中で培われてしまった当然の思考であり、まずは長門に頼ることが当たり前だったのです。
キョンが長門を強く信頼しているのは、2期の24話である涼宮ハルヒの溜息Ⅴを見るとよくわかります。はじめて朝比奈みくるが古泉一樹との対立姿勢を顕に話であり、また、古泉一樹が自分の立場や真実の一端を垣間見せた話でもありますが、このときのキョンは長門へ意見を求めました。キョンは古泉一樹をさほど信頼していないが、みくるに対しても完全に信用しているわけではない。しかし、長門に対してはどうだろうか? 長門は自己の見解を述べるが、それもあくまでキョンにとっては確証の得られない、真実である保証もないものだと言い切る。けれど、あるいはキョンは長門の言う事ならば無条件に信じたのではないだろうか。血みどろの戦いを続ける超能力者や、自分のいる未来を守ろうとしている未来人とは違い、人間ではない対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースを、キョンは誰よりも信頼し、信用しているから。まあ、心情的に共感していたのは古泉に対してなんですけど。
それを踏まえた上で映画の話に戻ると、キョンがまっさきに長門のところへ行こうとするのは結構納得の行くことなのですが、その最中に彼は信じられないものを見る。ハルヒの存在以外にも、なんと古泉一樹が所属する1年9組のクラスごとで消えていたのだから。何故古泉が消えたのか、それに対する個人的見解は後で書きますけど、それに対して呆然としてしまったキョンはSOS団の部室に行くことができず、結局放課後まで授業を受けることに。後ろの席にハルヒではなく朝倉涼子がいるというのは、それなり以上に緊張するわけで、あまりの出来事を前に授業など身に入るわけもない。
迎えた放課後、キョンは校内で朝比奈みくると鶴屋さんに遭遇します。世界が可笑しくなって初めてSOS団のメンバーに会えたわけで、キョンは興奮しながら近づいていきますが、朝比奈みくるは既に未来人ですらなく、一般の上級生にになっていた。胸に星型のほくろがあるかどうかはともかく、鶴屋さん共々、そこにいたのは他人だった。キョンのことを知らない、赤の他人。ショックだったでしょうね、いなくなったハルヒや古泉はまだしも、自分がよく知る人間から否定されたのだから。
訪れたSOS団の部室には、長門がいた。けれどそこにいたのは文芸部員としての長門有希であり、キョンのことは別クラスの同級生程度にしか知らなかった。キョンのいう宇宙人がどうのとか、そういうことは一切知らない普通の少女。最後の希望が潰えたことでキョンは非常に動揺しますが、思わず掴みかかってしまった長門の弱々し気な態度を見て冷静さを取り戻す。この辺り、長門がとことん儚げで愛らしい存在として描かれていて、これで長門に転ばない人はそうそういないんではないかというぐらい可愛かった。私は元々ハルヒと同程度かそれ以上に長門が好きなのですが、きっとスクリーンを見る表情は情けなく緩んでいたことでしょう。あれはちょっと反則だよ。
弱者と化した長門に力はなく、キョンは乱暴したことを詫びてうなだれます。見慣れぬ旧型のパソコンに触れても、そこにはSOS団を示すものはなにもない。SOS団の部室は、どこまでも文芸部室だった。置いてある本にしても、です。途方に暮れたキョンは文芸部室を後にしようとしますが、それを長門が呼び止めます。良かったら、と渡されたのは入部用紙。普通に考えれば突然部室に乗り込んできて狼藉を働いた男を勧誘するなんておかしな話ですが、そこには色々な事情がある。例えば、別のシーンで長門が自分の読んでいる本は市立図書館で借りたものだ、とわざわざ明言したことにも見て取れる。長門はそれとなく、自分がキョンと知り合いであることをアピールしているわけです。
帰宅したキョンは飼猫であるシャミセンと向きあいますが、かつてハルヒの力で人語を喋ったこともある猫ですが、なにを語りかけてもうんともすんとも云わない。妹の話では文化祭時期にキョンが家に連れてきた、という設定は生きているようですが、そこにハルヒは絡んでいない。妹もまたハルヒのことなど知らないのだから。
翌日また文芸部室へと向かったキョンは、そこで一冊の書籍を見つける。早川書房から刊行されている、ダン・シモンズのハイペリオンの没落だ。ヒューゴー賞とローカス賞、さらに星雲賞も取った海外SFの傑作であるが、書影とかそのまま使ってるんですね。まあ、引用ともなれば色々面倒くさいんですけど、書影程度ならクレジットしとけば十分というのが早川書房の方針だから、TVシリーズから続いて使用出来ているようです。
そう、ハイペリオンはTVシリーズにおいて長門が読んでいたものであり、キョンに貸したことがある一冊。とっさにひらめいたキョンは慌ててページを捲り、発見しました。ここにいる長門ではない長門から残された、ヒントの書かれた栞を。
プログラム起動条件 鍵をそろえよ
元の世界への、ハルヒへの糸口をキョンが見つけた瞬間でした。
長くなりそうなので、2日分けることにします。既に5000文字ぐらい書いているし、あんまり長くなると読みづらいからね。自分でもビックリするぐらい書くことがあるというか、この日記でなんども書いたかはしらないが、私って別にハルヒ好きじゃないんだけどね。谷川流はまず間違いなく天才だと思うし、ハルヒという作品もよく出来ているものの、作品に対する好き嫌いで言えば……嫌いではないが、決して好きにもなれないという感じか。
まあ、それについても機会があれば書くことにしましょう。機会があれば。
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