「なぁ、悠の初恋って、どんなだった?」
 ある日の学校、昼休みも中頃に差し掛かった午後の時間。いつにもなく寡黙で、どこか鬱屈そうな表情をしていた亮平が、急にこんなことを訊ねてきた。
「は? なんだって?」
「だから、初恋だよ、初恋。お前だって、今までに初恋の一つや二つしてきただろ?」
 僕の言葉に身を乗り出して応じる亮平。というか、初めての恋で初恋なんだから、一つより多かったらおかしいだろ。
「初恋ねぇ……」
「相手はどんな人だった? やっぱ、定番中の定番、幼稚園の先生とか?」
 何故、亮平がいきなりこんな話を始めたのか疑問に思いつつも、僕は自身の初恋というものを考えてみる。亮平に出した例は、確かに男にとっては基本中の基本、誰でも通る流れなのかも知れないが、僕の場合は少し異なる。
「僕、幼稚園の先生、男の人だったんだよね」
「なにぃっ!? じゃあ、お前は幼稚園児が綺麗なお姉さん先生に憧れる、あのときめきと興奮を知らないのか」
「ときめきはともかく、園児が興奮しちゃ不味いだろ……」
 大体、幼稚園の先生が男性であっても、僕はそれを残念に思ったことはない。その先生はスポーツがそれなりに出来るさわやかな人で、鉄棒で逆上がりを格好良く決める姿を見ては、幼心に憧れたものだ。
「じゃあ、お前はどんな人が初恋の相手だったんだよ? 世の中の定番が当て嵌まらないってことは、別にいるんだろ?」
「別って、そんな突然言われても」
「まさか、次にありがちな母親とか言うんじゃないだろうな?」
 さすがにそれはない。いや、好きか嫌いかで言われれば好きだったけど、母親は僕が物心付く頃には仕事に復帰しており、そういった対象としてみることもなかったのだ。
 でも、そうすると、僕の初恋の相手は誰になるのだろうか?
「あれ……」
 冷静になって考えてみると、パッと思い浮かばない。記憶の糸をたぐり寄せたり、想い出の扉を開けたりしても、そこに初恋の想い出というものが、存在していない。
「おいおい、忘れちまったのか? 仕方ない奴だな」
 亮平が茶化しつつも、本当に呆れたような声を出してきたので、僕は内心焦り気味になっていた。こんな話題で焦るのもおかしい気はするけど、考えずにはいられない。
 都会にいた頃は、あまりそういうことを考えたことがなかった。僕も小さい頃はあまり社交的じゃなかったというか、外で元気いっぱいに遊ぶなんてことをしだしたのは、それこそ夏休みにこの奧木染へ遊びに来るようになってからだろう。それまでの僕といえば、外で遊ぶにしろ家の中で遊ぶにしろ、特別友達を必要としなかったというか、要するに遊び相手として身近な、身近すぎる存在が常に傍へいたから気にならなかったのだ。
 とすると、僕の初恋の想い出とやらは奧木染にあるのだろうか? 確かに僕はここで様々な人と出会い、その幾人かとは今も交流がある。代表的なのは近くに住んでいるあの人であり、もう一人は……
「さすがにない、かなぁ?」
 僕の視線は、近くで立ち話をしている女子へと向けられていた。
「悠、瑛の方なんか見て、どうしたんだ?」
「え、いや、そういえば天女目も昔からの知り合いだったなって」
 天女目瑛。僕のクラスメイトで、隣席に座っている女子。僕はあまり憶えていないのだけど、昔、一緒に遊んだことがあるらしい。
「瑛か……確かに可愛い奴だとは思うが、なんというか、マニアックだな?」
「マニアックって、その言い草はさすがに酷いぞ」
「だって、瑛だろ? 小さい頃のあいつって、女の子というより男の子っぽかったしなぁ。いつも、男に混じって遊んでたし」
 むしろ、そういう女子に恋心を抱く男子は割と多いんじゃないかと思ったけど、それは言わないことにした。
 天女目のことは可愛いと思う。小柄だが良く動き、ころころと変わる表情と、そこから見せる笑顔には魅力がある。でも、それは再会してからの印象であって、昔に出会ったときの印象ではないはずだ。そう考えると、僕は天女目に恋をしていたことは、ないのだと思う。
 そういった意味では、あの人、彼女のことも別に――
「そうだ、なら、穹ちゃんはどうだ?」
「へっ?」
「穹ちゃんの初恋相手って、どんな奴なんだろうな。悠、お前、知ってるか?」
 穹、それは僕の双子の妹の名前だ。両親を亡くした僕にとっては唯一の肉親であり、かけがえのない大切な家族。
 そんな穹の、初恋……?
「さぁ、考えたこともないよ」
 言いながら、僕は自分の言葉に違和感を憶えていた。本当に、そうだろうか。
「あんだけ可愛いんだから、やっぱ、告白とかも結構されてたんじゃねーの?」
 なにか、ずっと前にも同じようなことを訊かれたような、奇妙な感覚。
「けど、穹はあのとおり人見知りだし、あんまり想像できないなぁ」
 そう、これは既視感などではなく、確かな記憶。あのときも僕は、こんな風に答えをはぐらかしながら、話を流そうとしていた。まるで、その答えに辿り着くのを、拒んでいるかのように。
 不思議な感情が、そこにはあった。

 ハルくんが、こっちを見ていた。亮兄ちゃんと話しながら、少しの間だけど、あたしの方を見つめていた。
「初恋だなんて、男の人ってどうしてああいう話で盛り上がれるのかしら?」
 やや呆れたように、カズちゃんが言う。
「でもでも、初恋の想い出は誰だってあるものだよ。カズちゃんだって、あるんでしょ?」
「えっ、私は、その……瑛の方こそ、どうなのよ」
「あたし? あたしはねぇー」
 言いかけて、あたしは思わず困ったような顔を作ってしまった。思い出せなかった分けじゃなく、あたしは今でもその想い出をしっかりと憶えている。だけど、それは……
「ずっと小さい頃に、神社の裏山で一緒にセミ採りをした男の子かな、あたしの初恋は」
「セミ採りって、あなた、小さい頃は近所の男の子たちに混じって、いくらでもそういう遊びをしていたじゃない」
「うん、そうだよ。だけどね、何事にもあるんだよ。特別な想い出って」
 その子はセミ採りどころか、野山で遊ぶという経験がほとんどなくて、あたしの見せるもの、歩く場所、すべてに驚いては、目を輝かせてくれた。あたしも、きっと珍しかったのだろう。カズちゃんの言う〝近所の男の子たち〟とはまるで違う反応を見せる彼と、彼が見せた屈託のない笑顔に、あたしは心惹かれたのだ。
 けれど、この想い出はあたしだけの想い出になってしまったらしい。残念だな、とは思うけど、まるきり全部忘れられてしまったわけでもないから、辛くはない。
「……そういえばセミ採りって、前に話してた春日野くんと会ったときの話も、確か」
「カズちゃん、あたし、お手洗い行ってくるよ。そろそろ、お昼休み終わりそうだから」
「えっ? ちょ、ちょっと、瑛!」
 カズちゃんが声を上げるけど、聞かなかったことにして教室を出る。一瞬、ハルくんの方に目を向けてみたけど、亮兄ちゃんと話すのに夢中で、あたしの視線には気付かなかったようだ。
「あぶない、あぶない」
 さすが、カズちゃんは鋭いな。隠しておくつもりだったのに、あっさりばれちゃった。何故か、カズちゃんはあたしのこういう話に敏感で、厳しい意見が多い。理由は良く分からないけど、色々心配してくれているんだと思う。
 けれど、それにしても……
「初恋かぁ」
 亮兄ちゃんの初恋とやらはともかく、ハルくんの初恋には興味があった。あたしに想い出があるように、ハルくんにだってなにかしらあるはずだ。今は忘れていたり、思い出すことが出来なくても、失われることはきっとない、はずだ。
 そんなことを考えながら女子トイレの前まで来ると、そこであたしは意外な人物に遭遇した。
「あれ、穹ちゃん?」
「ん……瑛」
 ハルくんの双子の妹で、別のクラスにいる穹ちゃんだった。色素の薄い髪に、初雪みたいに真っ白な肌。綺麗とか可愛いとか、そういう単純な言葉では言い表せない、亮兄ちゃんが言うところの〝美少女〟という表現が、凄く似合っている子だ。
「あ! ねえ、穹ちゃん。一つ訊きたいことがあるんだけど」
 あたしは折角会ったのもなにかの縁と、思い切って穹ちゃんに尋ねてみることにした。
「なに……?」
 唐突に言われて、怪訝そうな表情を作る穹ちゃん。トイレの前で立ち話をすることに、抵抗があるのかも知れない。
「あのね、ハルくんの初恋について、穹ちゃんはなにか知ってる?」

 午後の授業が、あまり身に入らなかった。別に昼寝をしてたとか、亮平や天女目たちとのお喋りに熱中していたとか、そういうわけじゃない。昼休みに亮平から言われたことを考えていたのだ。しかし、考えれば考えるだけこんがらがって、容易に答えが出てくる気配はなかった。
 この歳にもなって初恋の想い出について悩むなんて思っても見なかったけど、これだけ考えても思い出せないと言うことは、まさか、僕は恋というものをしたことがないんだろうか? いや、そんなはずはない。都会にいた頃だって、可愛いなとか、綺麗だなと思える女の子に出会ったことはあるし、まるきり縁や機会がなかったわけじゃない。けれど、それは全部最近の出来事だから、それは恋愛であっても初恋ではないはずだ。
「いや、僕のことはどうでも良いんだよ」
 僕は昔の想い出とか、そういうものにあまり執着がない。今を生きるのと、明日に目を向けるので精一杯なんて言えばちょっと格好いい気もするけど、単純に思い出すのが嫌なのだ。昔のことというのは即ち両親が生きていた頃のことであり、それを普通に振り返り、思い返すことが出来るほど、僕にはまだ割り切りが出来てない。
 だけど、穹のことは別だった。亮平に穹の初恋について尋ねられたとき、僕が動揺したのは事実だった。
「なんだかなぁ」
 呟きながら、僕は教科書やノートをカバンに詰めて、帰り支度を始める。天女目はなにか用事があるとかで先に帰り、亮平も今日は農作業の手伝いに駆り出される羽目になったらしい。僕も隣のクラスまで穹を迎えに行って、さっさと帰ることにしよう。
「…………」
 ふと、自分に視線を向けられていることに気付いて辺りを見回すと、渚さんがなんとも言えない複雑な表情を浮かべながら、僕を見つめ、いや、見つめていると言うよりは観察しているような感じだった。
「渚さん、どうしたの?」
「へっ!? あ、いえ、その……」
 焦ったように声を出す渚さん。反応からして、僕を見ていたことに間違いはなさそうだ。渚さんはやや躊躇った風に口を噤んでいたが、やがて、意を決したように僕に訊ねてくる。
「昼休みの話なんですけど」
「……初恋がどうとかいう話?」
「はい、それです」
 参ったな、聴かれていたのか。天女目と話していたから聴いてないと思ったんだけど、まあ、亮平があれだけ大声を出していれば、興味がなくても耳に入ってしまうだろう。
「あの話がどうかしたの?」
 不思議なのは、どうして渚さんがあの話をするのかということだ。興味がなくても耳に入るとはいっても、聞き流せばいいだけの話であり、こうして話題に持ち出す必要はないはずだけど……
「結局、春日野くんの初恋の相手って、誰なんですか?」
「はっ!?」
 突然そんなことを言われて、僕は言葉に詰まってしまった。何故、渚さんがそのようなことを訊いてくるのか、それも僕の初恋についてだなんて……まさか!? いや、そんなはずはない。これはなにかの間違い、もしくは罠に違いない。だけど、渚さんが冗談やからかいでこんなことを言うとは思えず、僕は混乱して――
「あ、瑛ってことはないですよね?」
「……なるほど」
 どうやら、質問の意図はそこにあるらしい。おそらく渚さんは、僕があの話をしているときに天女目の方を見ていたのに気付いていて、それが気になったというところだろう。渚さんは天女目に対して過保護な一面があることは、付き合いの浅い僕でも知っている。
「実は、良く分からないんだよね。あんまり昔のことって憶えてなくて」
「そう、なんですか?」
「天女目とも昔からの知り合いだったよなぁって考えてたんだけど、それは単に幼友達って感じだから」
 遊んだ回数にしたところで、そんなに多いわけではないのだ。記憶に残っている以上は印象が薄いわけではないけど、当時はそれほど特別な感情は抱いていなかったと、思う。あんまり自信はないけど。
「渚さんは、どうなの?」
「えっ……?」
「いや、ほら、初恋の想い出とか」
 失礼なことを訊いている気もしたけど、先に訊ねてきたのは渚さんなのだから問題はないだろう。
「ありますよ、私にも」
 それは、どこか昔を懐かしむような声だった。渚さんは窓際まで歩くと、窓に手を突きながら外の光景を見ている。グラウンドでは体育会系の部活動が行われており、活発そうな声が響いている。
「自慢ではありませんが、私は名家の生まれで、名士の娘です」
 声に混じる僅かな自嘲は、渚さんの言葉が自慢などではないことを物語っていた。僕に背を見せている彼女の瞳は、どんな色をしているのだろう。
「子供の頃、私には友達が一人もいませんでした」
 それほど意外な発言でも、ないように思えた。亮平が以前言っていた、昔の渚さんはお嬢様と言うことで近寄りがたい雰囲気があったという。
「幼稚園のときの話です。私が、当時はまだいた友達と遊んでいる最中に、転んで足をすりむいたんです。大した怪我じゃなかったけど、それでも血が出て、私は泣きながら家に帰りました」
 家に帰って手当を受け、夜にはケロリとしていたそうだが、事件はむしろその後だった。一緒に遊んでいた子供の親が、謝罪をしに来たというのだ。それも、一家総出で。
「子供が遊んでいる最中に起こったことで、それも私が勝手に転んだだけだから謝罪する必要はない。そう言って、母は相手の親を宥めました。事実、相手の子供にはなんの責任もないんです」
 にもかかわらず、泣きじゃくる子供の頭を無理やり下げさせ、必死で謝罪する親の姿に、幼いながらも渚さんは違和感を憶えたらしい。まるで、自分の方がなにか悪いことをしてしまったかのような、そんな気がしたのだ。
「それからも、同じようなことが起こる度に、同じような謝罪が繰り返されました。私が怪我をしようものなら、それこそ土下座をする勢いで謝罪をして、お詫びの菓子折を持参した人もいましたね」
 名士であり街に多大な影響力を持つ渚さんのお父さんから不興を買いたくない。謝罪の主な理由はこれであったが、幼い渚さんや、周囲の子供たちにそんな理由が判るはずもない。
「そんなことが続いて、私が小学校に上がる頃には、私の周りに友達と呼べる存在は一人も居なくなっていました」
 皆が皆、腫れ物を扱うかのように渚さんに接し、避けるようになっていった。名家の生まれのお嬢様である、それだけで、渚さんは近寄りがたい、付き合いづらい人間となってしまったのだ。
「私は孤独でした。自分の生まれを恨めしく思ったこともあります。けど、小学校の高学年になったときです」
 高学年になってはじめてクラスが一緒になったクラスメイトが、渚さんに手を差し伸べたのだ。満面の笑みを浮かべながら、一人周囲の輪から外れている渚さんに向かって、「一緒に遊ぼうよ!」と声を掛けてくれたそうだ。
「熱心に差し出された手を握りかしたとき、私はその人のことが好きになりました。そして、あのとき抱いた想いは、私の中で今日まで生き続けています」
 その人が誰であるかは、さすがに言うつもりはないらしく、僕も訊くつもりはなかった。むしろ、僕なんかにここまで話してくれたことが不思議なほどだ。
「つまらない話をしてしまいましたね。でも、私にとっては貴重な、宝物みたいな想い出なんです。きっとこれからも、ずっと大切にしていけるだけの」
 振り返った渚さんの表情は、とても温かみのあるものだった。
「素敵な話だと思うよ、本当に」
 僕の口調に実を感じたのか、渚さんは満足したように笑った。そう、誰にだって初恋というものがあり、それに見合った想い出がある。渚さんにあるように、亮平や、天女目にだってあるのだろう。
 そしてそれは、僕や穹にしたところで、例外ではないのだ……


 一日の授業が終わり、私は教室の前にポツンと立っていた。いつもならすぐに迎えに来てくれるはずのハルが、今日は何故か遅い。クラスメイトにでも捕まったのか、それとも掃除当番なのか。覗きに行こうかと思ったけど、やっぱり止めてこのまま待つことにする。
「初恋……か」
 頭の中に、昼休みに瑛が言った言葉が浮かんでくる。瑛の話では、ハルがそんな話を誰かとしてたらしく、気になったから私に質問をしたらしい。本人に訊けばいいのに、と思わないでもなかったけど、私はその思いがけない質問に対し、ちゃんとした答えを出すことが出来なかった。
 ハルの初恋、それについて私が一度も考えたことはなかった、という表現には嘘がある。正確に言えば、「考えたくなかった」のだ。気になりはしたし、関心もあったけど、それを知るのが私はとても怖かった。もし、ハルの初恋の相手が〝あの人〟だったりしたら、私はきっと立ち直れなくなるから。
「それと、私の初恋」
 質問に対して言葉を詰まらせた私に、瑛は違う質問をぶつけてきた。
「じゃあじゃあ、穹ちゃんの初恋ってどんなの?」
 あのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴らなければ、私は押し黙ったまま、あの場に立ち尽くしていたかも知れない。ハルの初恋について答えられなかった私は、それ以上に自分の初恋についての答えを、持ち合わせていなかったのだ。瑛は単なる興味本位で訊いたんだろうけど、私にはその興味がない。きっとハルなんかは単純だから、「初恋の想い出は誰にでもある」とか思ってそうだけど、私は違う。 
「想い出なんて、ないもん」
 好きな相手というのは、今も昔もハルだけど、じゃあ、私はハルに恋をしたのかと言われると、疑問が浮かんでしまう。ハルは私にとっての唯一の恋愛対象であり、ハル以外にそういった感情を抱いたことがないのは確かなのに、ハルが初恋の相手であることに自信が持てずにいる。
「ハルは、どうなんだろう」
 初恋というものは、私にとって未知の領域だけど、ハルは違う。ハルは私なんかと違って、ちゃんとした想い出を持っているはずだ。それはもしかしたら、〝あの人〟との想い出なのかも知れないし、全然違う、私の知らない人との想い出かも知れない。
 あまり嬉しくもない考えに行き当たり、私がやや憮然とした表情をしていると、ハルが教室から出てくるのが見えた。こちらに顔を向け、軽く手を振ってくる。
「ハル!」
 声が弾み、身体が軽くなっていくのを感じる。我ながら単純だと思うけど、その逆であるよりはずっといい。さっきまでの考えを振り払うと、私はハルの方へと歩き出した。

 渚さんと話し込んでいたせいか、家に帰るのがいつもより若干遅れてしまった。迎えに行くのが遅くなったことに対し、穹は特になにも言わなかったけれど、それ以上に口数が少ないのが気になった。いや、元々穹は多弁な方ではないけど、帰り道でも僕の方をチラチラ見てはなにか言いたそうにしているといった感じで、まあ、それに関しては僕も似たようなもんだったと思うが。
「クラスでなにかあったのかな」
 別のクラスであるからして、僕は普段穹が教室でどのような感じなのかを知らない。成績からいって僕よりは真面目に授業を受けているはずだけど、他のこと、例えばクラスメイトとの関係や付き合いなどはどうだろうか? 友達が出来たという報告はないし、そもそも本人に作る気があるのか、それすらも判らない。登下校はいつも僕と一緒だし、昼休みもほとんど一緒に昼ご飯を食べている。これでは友達の出来ようもないだろう。前々から心配しているのだが、穹自身は現状に満足とはいかないまでも不満はないようで、僕としては口の挟みようもなかった。クラスで孤立とか、そういうことにならなければいいのだが……
 帰宅早々、穹のことばかり考え始めた自分に、僕は苦笑めいた感情を覚える。結局、自分のことより穹のことなのだ。今日亮平の奴に言われたことも、関心や興味は自分よりも穹の方に向いていた。
「昔も、同じようなことがあったっけ」
 あれは、そう、まだ両親が存命中の話だ。穹が退院して幾月か過ぎ、買い付け先から帰国した父親が、僕にこのようなこと尋ねてきた。
 穹に、恋人はいないのかと。
 冗談などではなく、父親としては年頃の娘の恋愛模様ないし事情なりを心配していたのだろう。穹の可愛らしい容姿は両親の自慢でもあったし、無理からぬことだ。しかし、本人に直接尋ねるだけの勇気はなかったのか、質問されたのは僕だった。
 意外すぎる質問に、僕が意表を突かれたのは言うまでもない。真剣に訊ねてくる父親の顔を、僕は直視できなかった。動揺しきった自分の表情を、悟られる気がして。
「まさか、そんな相手いるわけないよ」
 本人でもないくせにきっぱりと断言してしまった僕は、慌てて付け加える。
「穹は家に籠もりがちだし、友達らしい友達もいないみたいだから、恋人だなんてそんな……あるわけないさ」
 我ながら酷いことを言っていると思ったが、それは嘘ではなく事実だった。当時、都会にいたころも、穹は積極的に友人付き合いをするようなことはなく、暇さえあれば一日中パソコンと向かい合っているような生活を送っていたのだ。
 息子の断言、その裏に存在する、本人さえも気付いていない大きな深みを理解せずに、父親は自分の懸念を口にする。お前はそう言うが、穹だって好きな奴の一人や二人いてもおかしくはないだろう。逆に、穹のことを好きだと言って告白してくる奴がいるかも知れないし、穹だってその気になるのではないか。
「考えすぎだよ、本当に。なにも心配するようなことはないし、僕が保証するよ」
 思い返してみると、あのときの僕はどこか不機嫌だった。父親の言葉を流して、ごまかして、それ以上その話題を続けることから逃げ出したのだ。どうしてそんなことをしたのか、あのときは判らなかった。でも、今は違う。穹に関する間の恋だのといった話題に触れたくなかった、考えたくなかったかつての自分。その気持ちが、今なら判る。
「昔から、僕は情けなくて格好悪かったってことかな……」
 自嘲気味に言いながら、記憶の書棚から今度は別の本を取り出してみる。
 初恋やらの記憶は持ち合わせていない僕だが、恋愛と名の付く想い出は皆無ではなかった。世の中には物好きという者がいるらしく、こんな僕でも告白の類を受けたことがあるのだ。あるときは昔ながらの恋文で、またあるときは呼び出された場所での口頭で、いずれにせよ僕にもそういう機会があった。
 比較的仲が良かったクラスの女子から告白されたとき、僕の心は揺れ動いた。相手の真剣さと、強い想いは、恋愛に鈍感な僕にさえ、しっかりと伝わってくるものだった。どう答えるべきか、〝どうすれば相手を傷つけずに断れるのか〟を考えている自分が、そこにいた。結果的に言えば、今の僕の暮らしを考えると告白を受け入れなかったことは正解なのだけど、当時の僕はそんな未来は知らないし、想像もしていなかったはずだ。それなのに、何故……?
 不思議なことに、告白を受けたときに僕が考えていたのは、穹のことだった。無意識か、それとも意識下か、僕の頭に穹の顔が、悲しそうに僕を見つめる表情が思い浮かび、一瞬にして僕は持ちうるはずの選択肢の数々を消失してしまった。
「ごめん……」
 紡ぎ出せた言葉の、情けないことときたら。相手は訊ねる、どうして、自分が嫌いなのかと。そうじゃなかったから否定すると、今度は他に誰か好きな人が、付き合っている人がいるのかと訊かれた。
「そういうわけじゃないんだけど……ね」
 表現は難しいと思った。僕自身、自分の感情を良く理解できていなかったというのもあるし、理解できたところで、説明できることでもなかっただろう。
「放っておけない人がいて、今は、その人のことを大事にしてあげたいんだ」
 丁度、穹が退院して間もないと言うこともあったのだろう。言葉は自然と僕の口から流れ出て、相手を納得させるだけの実があったらしい。「そっか」と、寂しそうな声を出して、相手は僕の謝絶を受け止めてくれた。
 あのとき言った〝今〟は、意外なほど長く、現在進行形で続いている。大事だと思う気持ちは、大切という気持ちも飛び越え、僕の中で大きく変化していった……

 僕は過去という名の回想録を、記憶の書棚にそっと戻した。久々に思い返してみて、感傷や感慨がなかったわけではないけど、それに浸っている暇はなかった。というのも、部屋の外から僕を呼ぶ声が響いてきたのだ。
『ハル、中にいる……よね?』
 控えめな、そしてどこか遠慮がちな声。僕はゆっくりとした動作で、部屋のふすまを開けてみる。
「あっ、その、入っていい?」
 制服から私服へと着替えた穹がそこに立っていた。表情を僅かに緊張させてはいるものの、その瞳はしっかりと僕を見つめてくる。同年代の少年らが見れば、愛らしさに息を呑むことだろう。
「うん、いいよ」
 穹に対して閉ざす扉を、僕は持ち合わせてなどいなかった。

 家に帰ると、さっさと部屋に行ってしまったハルと違い、私はキッチン兼食堂で紅茶を入れていた。今日のハルは、どことなく話しかけづらい雰囲気だった。まあ、ハルからすれば私も同じような空気を出していたかも知れないけど、要するにお互い余所余所しいのだ。
 話したいこと、訊きたいこと、聞いて欲しいことに、言ってしまいたいこと。それらは二人とも持っているはずなのに、言葉として紡ぐことが出来ないのは、まだお互いに考えが纏まっていないからだろうか?
「ハルも、悩んでるのかな」
 深刻な悩みではないにしろ、私が瑛の言葉に心を波打たせたように、ハルも思うところがあったのかも知れない。ハルも都会にいた頃は、私よりずっと充実した毎日を送っていたはずだから、愛だの恋だのといった奇怪に遭遇することも、多かったはずだ。ハルは隠しているみたいだけど、そういった噂を耳にしなかった分けじゃないし、〝橋渡しを頼まれたこと〟も、私にはあるのだから。
 煎れ立ての紅茶を持って、私は自分の部屋へと帰る。制服をベッドの上に脱ぎ捨てて、ふと、着替える前に姿見の方へと向かう。
 小さな身体が、そこに映し出されていた。
 下着姿になると、制服のときよりも、華奢な身体がハッキリと露わになる。ハルとは違う、小さいままの私の身体。
 私が復学をして間もない頃、クラスの女子がハルについて色々と訊いてきたことがある。当時、ハルは復学したばかりの私を心配して、今と同じように毎日教室まで迎えに着てくれていた。私に対する物珍しさと、双子と言うことで顔がよく似ていたことへの興味。
 彼女はいるのか、どんな女がタイプなのか、そういった質問の数々を、私は煩わしげに聞き流してきた。彼女なんていないことは知っていたし、いるわけがないとも思っていたけど、それを断言したくもなかった。ハルの面子を守って、というわけでもなく、どこまでも自分本位な理由から。
 あるとき、ハルが同学年の女子から告白を受けて、これをあっさり断ったという話を聞いた。ハルは私にそんなことを一言も言わなかったので驚いたけど、狭い学校の中、それも同学年の恋愛に関する噂は伝播しやすい。
 ハルは身持ちが堅いと言うことで有名だったらしい。私が復学するずっと前から、人付き合いは決して悪くなかったけど、肝心なイベント、クリスマスとかその辺りには誰からの誘いも受けなかったという。
 恋愛や性愛に、ハルが無関心であったとは思えない。ハルは極端な人間ではなかったから、人並みに情愛や情欲は持っていたはずだ。それなのに、どうして――
「私が、いるから?」
 思い上がりというわけではなかっただろう。現に、私とハルの周囲にはそういった声もあり、「春日野は妹の世話を焼くのに大忙し」などと評されることもあった。ハル自身、自覚があったのかそうした声に反論せず、残り僅かとなる都会での生活を、私と一緒に過ごしていった……
 制服から私服に着替えて、すっかり冷めてしまった紅茶に口を付ける。記憶の海をたゆたっている時間が、思いのほか長かったらしい。琥珀色に煎れた紅茶も、風味が消えては美味しくない。
「もう一度煎れて、ハルにも持って行こう」
 口実であるにせよ、私はハルの顔が無性に見たくなっていた。


 紅茶を煎れてきてくれた穹を部屋へと招き入れ、僕らは畳の上に座布団を敷いて腰を下ろした。椅子やベッドなどというものは僕の部屋には存在せず、家具や調度品も最低限のものしかない。いつか亮平が遊びに来たとき、その質素さに驚いていた。僕としては、これぐらいサッパリとしている方が、片付けも楽で良いと思うのだけど。
 琥珀色の液体を身体に流し込むと、なんとなく気分が落ち着いてくる。隣に座っている穹に目を向けながら、僕は口を開いた。
「なぁ、穹……」
「ねぇ、ハル……」
 重ねられた言葉に、僕らは目を丸くして見つめ合う。
「ハルからで、いいよ」
 穹は薄く笑うと、琥珀色の紅茶を再び口に含んだ。僕は一呼吸置いて、再び穹に向かって語りかける。
「今日、クラスで初恋についての話題になってさ」
「うん、知ってる。瑛から聞いた」
「そ、そうなんだ。えっと、それじゃあ」
 訊くなら、今しかない。この機会を逃したら、もう二度と訊くことが出来ないような、そんな錯覚に捕らわれる。僕は、意を決した。
「穹の初恋って、どんなのだった……?」
 質問を受けても動じなかったのは、穹がある程度僕の質問を予期していたからだろうか? 目をつむり紅茶を飲んでいた穹は、やがて静かな動作でカップを置くと、僕の方に視線を向けてきた。透き通るような、その瞳で。
「私にはそう言うの、ないから」
 言葉は、ハッキリとした断言だった。
「ないって、そんな」
「嘘じゃない。私には、恋をしている暇なんてなかった」
 それは入院生活が長かったからとか、そういう意味だろうか? 困惑する僕に対して、穹は首を横に振る。
「違う。入院してたからとか、そういうことじゃない。私は、自分で恋がしたいとも思わなかった」
「それは、どうして?」
「……ハルが、いたから」
 穹の導き出した答えに、僕は息を呑んだ。穹はスッと身体の向きを変え、僕の顔に自分の顔を、上目遣いに近づけてくる。
「私には最初からハルがいた。ハルが私の目の前にいて、いつも、どんなときでも私に笑顔を見せてくれたから」
 だから、他にはなにもいらなかった。
 その述懐は穹の心からの本音であって、そこに嘘偽りなど存在しない。穹は本心から、僕にそう言っているのだ。なら、僕はそれを素直に受け入れるべきだろう。
「ハルは、どう? 答えは……でた?」
 訊きたいことは、お互いに同じだったようだ。穹がやや緊張した面持ちをしているのは、僕の答えにある種の覚悟をしているかも知れない。どんな答えでも受け入れようとする想いと、それが出来るか判らないという気持ち。
「僕は……」
 今日一日、色々なことを考えてきた。かつて、僕には幾多の出会いがあり、幾人かの人が目の前に現れた。気持ちや想いの程度差はあれ、その人たちが僕を好いてくれたことに違いはない。
 けれど、僕の瞳にその人たちは映らなかった。何故なら、僕の瞳はずっと、穹だけが映っていたのだから。穹のことだけを考え、穹のことだけを想い、それは僕にとっての当たり前のことだった。
 だから、僕たちは――
「穹……好きだよ」
 言うと、僕はごく自然な動作で穹の身体を抱きしめた。穹は驚いたようだが、キュッと僕の背中に手を回してきた。
「私も、ハルが好き」
 穹も頷き、僕らは互いの想いを確かめ合った。

 初恋というものが僕らにあったのだとすれば、それはずっと昔に経験したことであり、相手など最初から決まり切っていたのだ。考えても判らなかったのは当然で、探しても見つかるわけがなかった。
 それを知り得たこと、実感できたことだけで僕は満足であり、そして……
 幸せだった。


コメント

nophoto
DR200S
2011年11月29日1:59

いい話だなぁジーンと来てしまった。良い話をありがとう。