某出版社が新しい編集部を立ち上げるにあたり、人出不足ということで私に声がかかってきた。その際、今の仕事というか職場にいても将来の経歴的になんの役にも立たないぞという説得を受けたんだけど、まあ、その通りだろうなと思った。世話になっているところを悪く言うつもりはないけど、先がない場所にいるということは分かっているつもりです。それを踏まえても、今回の話というのは私なんかには勿体無いほどであり、待遇も給料も今とは比較にならないほどのものになるだろうと思います。なにせ相手は業界最大手の一角、肩書きとしてはどこに出しても恥ずかしくないものになるでしょう。
まあ、現実的なことを考えて私に大手出版社の編集なんて務まるわけはないし、まだ死にたくなかったので話を聞くだけに済ませました。相手もそれほど本気ではないと思うしね。今の仕事が落ち着いて、それでもまだというならさすがに考えますけど、私には色々と早過ぎる話でした。気に掛けてくれているというか、買ってくれているのは嬉しいんだけど……なんていうのかな、私はまだ夢を追いかけていたいんですよ。我ながら馬鹿な事を言っていると思うけど、完全に中の人になってしまうと物書きとして自立することはほぼ不可能に近いですからね。
とはいえ、年齢的なことを考えると、やっぱり将来に対する不安とか、そういうのはあるわけで。ここで一生を決めてしまうのも、一つの手ではあると思う。いや、普通に考えればそうしたほうがいいはずなんだよ。私は今の仕事が将来的な経歴や経験の上で役に立つとはあまり思ってないけど、改めて他者からそれを指摘されちゃうと堪えるものがある。それは好きでやっていることなのかと訊かれると、嫌いではないとしか答えることの出来ない自分がいるしね。やりがいがないとは言わないけど、単に仕事以外の時間を多く持てるからやっているだけだし、将来性に乏しいという指摘には反論が出来ない。まあ、今やっている仕事がこれからどうなるかなんて、私には別に関係ないことなんだけど、去就は決めておくべきじゃないかという意見を無視することは出来なかった。
なんか、こんなふうに書くと私はどんだけろくでもない仕事をしているんだと思われそうだけど、そんな悪いものじゃないですよ。ただ、人に心配される程度には不安定で、先行き不安どころか先そのものがないんですけど。
年始に神田明神へ初詣に行ったとき思ったんだけど、お参りをする際に願掛けってするじゃないですか? 神様、仏様に対して「今年こそ○○がか叶いますように」みたいな、そういった類の奴をさ。大体、毎年同じようなことを願うわけですけど、毎回同じことを願っている時点で願掛けしたところで、神も仏も叶えてなんてくれない……って、これは初詣行った日の日記に書きましたっけね。よく覚えてないけど、結局自分の夢とか目標を叶えるのは、神仏じゃなくて自分自身なんですよ。なにかを成し遂げるために誰かの力を借りることがあったとしても、それは決して神通力なんかじゃない、生身の話に過ぎない。そんなの当たり前だと思うわれるだろうし、事実としてこれは当然の話しでしかないけど、じゃあ、どれだけの人がそれを理解し、認識して行動できているのか。
こういうことに対して、もっとも眼に見える形で頑張ることが出来るのは、やはりなにかしらのスポーツに取り組んでいる人でしょう。大会でも記録でもいいですが、自分の中で目標を決めて、そこを到達点する事に関して、スポーツほど分かりやすいものはない。少なくとも、人生設計なんかよりはよっぽど見通し良いと思う。でもさ、なにかに向かって突き進むという意味では、スポーツにしろ人生にしろ同じだと私は思うのよ。かつて、人は人生という学問を学び続ける永遠の学生だという言葉を、とある同人誌で読みましたけど、私はそれに共感してしまった。
決めるのは簡単さ、思うことも楽だよ。でも、本当に重要なのは自分がなにをしたいかではなくて、自分はどうなりたいかだと、私はそう思う。
いつまでも若くないんだからという言葉や、私の将来を案じての説得は、本来なら私なんかには勿体無いほどありがたいことで、そういうことを言ってくれる人がいるというだけで、涙が出るほど嬉しい。私がそういう人たちに甘えて、自分のやりたい事をやり続けようとしているのは、実際に愚かなことでしかないのかも知れない。けれど、私はかつて思ってしまった。想像してしまった。こうなりたいと思う自分の姿を。だから私は、無謀であってもまだ頑張りたい。諦めるのは、早過ぎるから。
まあ、現実的なことを考えて私に大手出版社の編集なんて務まるわけはないし、まだ死にたくなかったので話を聞くだけに済ませました。相手もそれほど本気ではないと思うしね。今の仕事が落ち着いて、それでもまだというならさすがに考えますけど、私には色々と早過ぎる話でした。気に掛けてくれているというか、買ってくれているのは嬉しいんだけど……なんていうのかな、私はまだ夢を追いかけていたいんですよ。我ながら馬鹿な事を言っていると思うけど、完全に中の人になってしまうと物書きとして自立することはほぼ不可能に近いですからね。
とはいえ、年齢的なことを考えると、やっぱり将来に対する不安とか、そういうのはあるわけで。ここで一生を決めてしまうのも、一つの手ではあると思う。いや、普通に考えればそうしたほうがいいはずなんだよ。私は今の仕事が将来的な経歴や経験の上で役に立つとはあまり思ってないけど、改めて他者からそれを指摘されちゃうと堪えるものがある。それは好きでやっていることなのかと訊かれると、嫌いではないとしか答えることの出来ない自分がいるしね。やりがいがないとは言わないけど、単に仕事以外の時間を多く持てるからやっているだけだし、将来性に乏しいという指摘には反論が出来ない。まあ、今やっている仕事がこれからどうなるかなんて、私には別に関係ないことなんだけど、去就は決めておくべきじゃないかという意見を無視することは出来なかった。
なんか、こんなふうに書くと私はどんだけろくでもない仕事をしているんだと思われそうだけど、そんな悪いものじゃないですよ。ただ、人に心配される程度には不安定で、先行き不安どころか先そのものがないんですけど。
年始に神田明神へ初詣に行ったとき思ったんだけど、お参りをする際に願掛けってするじゃないですか? 神様、仏様に対して「今年こそ○○がか叶いますように」みたいな、そういった類の奴をさ。大体、毎年同じようなことを願うわけですけど、毎回同じことを願っている時点で願掛けしたところで、神も仏も叶えてなんてくれない……って、これは初詣行った日の日記に書きましたっけね。よく覚えてないけど、結局自分の夢とか目標を叶えるのは、神仏じゃなくて自分自身なんですよ。なにかを成し遂げるために誰かの力を借りることがあったとしても、それは決して神通力なんかじゃない、生身の話に過ぎない。そんなの当たり前だと思うわれるだろうし、事実としてこれは当然の話しでしかないけど、じゃあ、どれだけの人がそれを理解し、認識して行動できているのか。
こういうことに対して、もっとも眼に見える形で頑張ることが出来るのは、やはりなにかしらのスポーツに取り組んでいる人でしょう。大会でも記録でもいいですが、自分の中で目標を決めて、そこを到達点する事に関して、スポーツほど分かりやすいものはない。少なくとも、人生設計なんかよりはよっぽど見通し良いと思う。でもさ、なにかに向かって突き進むという意味では、スポーツにしろ人生にしろ同じだと私は思うのよ。かつて、人は人生という学問を学び続ける永遠の学生だという言葉を、とある同人誌で読みましたけど、私はそれに共感してしまった。
決めるのは簡単さ、思うことも楽だよ。でも、本当に重要なのは自分がなにをしたいかではなくて、自分はどうなりたいかだと、私はそう思う。
いつまでも若くないんだからという言葉や、私の将来を案じての説得は、本来なら私なんかには勿体無いほどありがたいことで、そういうことを言ってくれる人がいるというだけで、涙が出るほど嬉しい。私がそういう人たちに甘えて、自分のやりたい事をやり続けようとしているのは、実際に愚かなことでしかないのかも知れない。けれど、私はかつて思ってしまった。想像してしまった。こうなりたいと思う自分の姿を。だから私は、無謀であってもまだ頑張りたい。諦めるのは、早過ぎるから。
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