そらのおとしもの劇場版 時計じかけの哀女神
2011年6月26日 アニメ・マンガ
公開初日の朝一で観てきたわけだけど、川崎のTOHOシネマズには違う映画を観るために一度行っているから、今回が2回目になりますね。朝の9時前から川崎へ行くなんて、チネチッタでとある舞台挨拶のチケットを買うために並んで以来だけど、そらおとに関しては敢えて舞台挨拶は狙わずに、一般上映を選びました。そういったイベントが嫌いな訳じゃないんですが、どちらかと言えば映画は集中して観たいですからね。初回ぐらいは、じっくりと鑑賞してみようじゃないかと思いまして。まあ、舞台挨拶自体は他でもやるみたいだし、後々から参加するでも問題はないでしょう。後、映画が始まる前に川崎の街で色々なことがあったんだけど、思い出すと不快なのでそれはカットの方向で。詳しくはTwitterの方で御覧ください。
そらおと初の劇場版ですが、話自体は原作に存在するものを使用しており、その内3分の1をアニメオリジナルとしてアレンジ、もとい再構成しているのが今作品になります。原作コミックスとしては丁度9巻から10巻の最初にあたる話で、主人公の智樹がいつの間にか所属扱いにされていた新大陸発見部に、風音日和という少女が入部希望してきたとろこからスタートします。新たに登場したヒロインが軸となって展開される、そらおとでは珍しい長編なんだけど、実はこの日和という少女、原作では結構唐突に登場します。アニメでは台詞ありの状態で1回、台詞無しの顔見せで数回登場しますけど、原作では最初の1回のみであり、正式な登場までは謎多き少女ということになっていた。
アニメというか映画はそんな日和を登場させるに当たって大幅なアレンジを加えており、なんとエンジェルビジョン方式と称した日和視点の総集編を序盤から30分位長したのです。そらおとの1期1話から、日和がそこにいてもおかしくない話だけを抜き出して、彼女がどれだけ智樹のことを観てきたか、というのを描いたわけですね。日和は智樹のことを恋愛対象として好きなんですが、原作だとその理由が特に語られなかったから、そういった不足分を補おうとしたのかも知れない。恋する乙女は如何にして智樹を好きになったのか、みたいなね。ただ、日和の新規映像があるとは言っても基本的には総集編ですから、1期と2期を観てきた人達にとってはなにか新鮮味があるわけでもないし、かといって映画から観るという新規の人向けなのかと言われれば、それに関しても首を傾げてしまう。
というのも、日和視線を挟むことが出来るのって基本的にギャグパートやギャグ回だけなんですよ。だから、イカロスやニンフたちエンジェロイドがどういう存在なのかとか、智樹はどんな経緯や経験の末に彼女たちと暮らしているのかといった、そういう説明は一切無いんだよね。ニンフやアストレアも、日和視点ですからいつの間にかそこにいた感じですし。だから私の個人的な感想としては、単純に制作期間足りなかっただけなんじゃないかと思う。だって、日和自身はある程度唐突に登場しても、話としては成立するもの。原作がそうなんだから。
原作と映画の大きな違いは、視点の複数化にあると思います。つまり原作においては、ほぼ智樹の視点で構成されているが故に、日和は最低限の情報だけでも成り立っているのですが、映画は序盤を日和視点にすることで、徹底的に鑑賞者へ彼女の情報を与え、感情移入をさせようとしているのですね。強引なキャラ立てもあったものだと思うけど、やり方としては別段間違ってもいないでしょう。
序盤の総集編が終わると、映画にも関わらず何故かアイキャッチが挿入され、ここだけ登場のトモ子が出てきます。5月のヤンフェスで藤田咲が、「映画でトモ子が何回きゃる~んといったか数えてみてください」と行ってましたけど、まさか1度だけとは……まあ、原作だと登場してませんからね。このアイキャッチが終わると、視点は本来の主人公である智樹へと戻り、彼の視点から新入部員である日和が描かれるわけです。
原作における日和編は終盤までシリアスにはならず、シリアスに突入した後もギャグパートがあるなど、基本的に楽しげな話が多いのですけど、映画はそれらがあまり再現されていませんでした。予告にあった車窓からとか、結構期待していたんですけどね。日和→智樹を描いている割には、それによって揺れているイカロス以外のエンジェロイドや、そはらのことを全然描いてないんです。あくまでヒロインは日和だけというか、日和編における大事な箇所だけを抜き出して再構成してる印象を受けます。
この点に関しては、総集編やるぐらいなら車窓からやメイドをやってくれよという気持ちが強いので、あまり良かったとは思いません。ましてや、日和入部後の短い話が終わったと思ったら、すぐに戦闘へ突入し、それもあっという間に終わるだけですからね。
序盤の総集編で智樹への想いを募られていた日和ですから、本編で告白するまでの間が短くても、鑑賞者的には唐突でも突然でもありません。けれど、日和はその設定上、告白後に一度退場するキャラですから、車窓やメイド等のイベントやらないと、本編がどうしたって短くなってしまうんですよ。制作側がそこら辺をどう考えていたのかは知らないけれど、私は本編よりも総集編のほうが長く感じた。
しかも、日和編における戦闘は主にニンフがメインとなっており、イカロスやアストレアはどちらかと言えば脇役です。ニンフは物語上のサブヒロインを務めることが非常に多く、この話にしても彼女が長年繋がれていた鎖を、本当の意味で断ち切ったという、かなり重要なものになります。にもかかわらず、日和の設定を変えるなどしてニンフの活躍機会を大幅に奪い、日和と対決するのはあくまでイカロスということにしてしまった。これは、アニメのヒロインがイカロスで構成されているからなのか、メインヒロインであるイカロスの活躍がないのは不味いという大人の事情や判断かは知らないけど、私は少し不服だったりする。そもそも日和の気象兵器設定を、訳の分からない時間干渉能力に変えた事自体、なんの意味があるのかと思ったりね。時計じかけの哀女神というサブタイは綺麗だけど、だからといってそれが本編に上手く絡んでいるわけでもないし、気象兵器が威力の割に地味だから変えられたのかとか、かっこいいサブタイをつけたかったという興業的理由なのかと邪推してしまう。
ニンフが活躍しない時点で最終的な日和の結末も原作とは大きく違いますし、含みを持たせたエンディングであるとはいえ、3期に続かずここで終わってもいいようなラストにはしてありますね。まあ、2期でカオス編を終わらせてしまった時点で、なにをどうすれば3期が作れるのかという疑問はありますけど、そこはあまアニメスタッフの努力次第でしょう。正直、映画というよりは質のいいOVAを見ている印象が強く、話の内容的にも原作を越えるものではなかったんだけど、まだ前売り券は使ってませんし、舞台挨拶等のイベントにも興味はあるから、後2~3回は行ってみるのもいいかなと思っています。
そらおと初の劇場版ですが、話自体は原作に存在するものを使用しており、その内3分の1をアニメオリジナルとしてアレンジ、もとい再構成しているのが今作品になります。原作コミックスとしては丁度9巻から10巻の最初にあたる話で、主人公の智樹がいつの間にか所属扱いにされていた新大陸発見部に、風音日和という少女が入部希望してきたとろこからスタートします。新たに登場したヒロインが軸となって展開される、そらおとでは珍しい長編なんだけど、実はこの日和という少女、原作では結構唐突に登場します。アニメでは台詞ありの状態で1回、台詞無しの顔見せで数回登場しますけど、原作では最初の1回のみであり、正式な登場までは謎多き少女ということになっていた。
アニメというか映画はそんな日和を登場させるに当たって大幅なアレンジを加えており、なんとエンジェルビジョン方式と称した日和視点の総集編を序盤から30分位長したのです。そらおとの1期1話から、日和がそこにいてもおかしくない話だけを抜き出して、彼女がどれだけ智樹のことを観てきたか、というのを描いたわけですね。日和は智樹のことを恋愛対象として好きなんですが、原作だとその理由が特に語られなかったから、そういった不足分を補おうとしたのかも知れない。恋する乙女は如何にして智樹を好きになったのか、みたいなね。ただ、日和の新規映像があるとは言っても基本的には総集編ですから、1期と2期を観てきた人達にとってはなにか新鮮味があるわけでもないし、かといって映画から観るという新規の人向けなのかと言われれば、それに関しても首を傾げてしまう。
というのも、日和視線を挟むことが出来るのって基本的にギャグパートやギャグ回だけなんですよ。だから、イカロスやニンフたちエンジェロイドがどういう存在なのかとか、智樹はどんな経緯や経験の末に彼女たちと暮らしているのかといった、そういう説明は一切無いんだよね。ニンフやアストレアも、日和視点ですからいつの間にかそこにいた感じですし。だから私の個人的な感想としては、単純に制作期間足りなかっただけなんじゃないかと思う。だって、日和自身はある程度唐突に登場しても、話としては成立するもの。原作がそうなんだから。
原作と映画の大きな違いは、視点の複数化にあると思います。つまり原作においては、ほぼ智樹の視点で構成されているが故に、日和は最低限の情報だけでも成り立っているのですが、映画は序盤を日和視点にすることで、徹底的に鑑賞者へ彼女の情報を与え、感情移入をさせようとしているのですね。強引なキャラ立てもあったものだと思うけど、やり方としては別段間違ってもいないでしょう。
序盤の総集編が終わると、映画にも関わらず何故かアイキャッチが挿入され、ここだけ登場のトモ子が出てきます。5月のヤンフェスで藤田咲が、「映画でトモ子が何回きゃる~んといったか数えてみてください」と行ってましたけど、まさか1度だけとは……まあ、原作だと登場してませんからね。このアイキャッチが終わると、視点は本来の主人公である智樹へと戻り、彼の視点から新入部員である日和が描かれるわけです。
原作における日和編は終盤までシリアスにはならず、シリアスに突入した後もギャグパートがあるなど、基本的に楽しげな話が多いのですけど、映画はそれらがあまり再現されていませんでした。予告にあった車窓からとか、結構期待していたんですけどね。日和→智樹を描いている割には、それによって揺れているイカロス以外のエンジェロイドや、そはらのことを全然描いてないんです。あくまでヒロインは日和だけというか、日和編における大事な箇所だけを抜き出して再構成してる印象を受けます。
この点に関しては、総集編やるぐらいなら車窓からやメイドをやってくれよという気持ちが強いので、あまり良かったとは思いません。ましてや、日和入部後の短い話が終わったと思ったら、すぐに戦闘へ突入し、それもあっという間に終わるだけですからね。
序盤の総集編で智樹への想いを募られていた日和ですから、本編で告白するまでの間が短くても、鑑賞者的には唐突でも突然でもありません。けれど、日和はその設定上、告白後に一度退場するキャラですから、車窓やメイド等のイベントやらないと、本編がどうしたって短くなってしまうんですよ。制作側がそこら辺をどう考えていたのかは知らないけれど、私は本編よりも総集編のほうが長く感じた。
しかも、日和編における戦闘は主にニンフがメインとなっており、イカロスやアストレアはどちらかと言えば脇役です。ニンフは物語上のサブヒロインを務めることが非常に多く、この話にしても彼女が長年繋がれていた鎖を、本当の意味で断ち切ったという、かなり重要なものになります。にもかかわらず、日和の設定を変えるなどしてニンフの活躍機会を大幅に奪い、日和と対決するのはあくまでイカロスということにしてしまった。これは、アニメのヒロインがイカロスで構成されているからなのか、メインヒロインであるイカロスの活躍がないのは不味いという大人の事情や判断かは知らないけど、私は少し不服だったりする。そもそも日和の気象兵器設定を、訳の分からない時間干渉能力に変えた事自体、なんの意味があるのかと思ったりね。時計じかけの哀女神というサブタイは綺麗だけど、だからといってそれが本編に上手く絡んでいるわけでもないし、気象兵器が威力の割に地味だから変えられたのかとか、かっこいいサブタイをつけたかったという興業的理由なのかと邪推してしまう。
ニンフが活躍しない時点で最終的な日和の結末も原作とは大きく違いますし、含みを持たせたエンディングであるとはいえ、3期に続かずここで終わってもいいようなラストにはしてありますね。まあ、2期でカオス編を終わらせてしまった時点で、なにをどうすれば3期が作れるのかという疑問はありますけど、そこはあまアニメスタッフの努力次第でしょう。正直、映画というよりは質のいいOVAを見ている印象が強く、話の内容的にも原作を越えるものではなかったんだけど、まだ前売り券は使ってませんし、舞台挨拶等のイベントにも興味はあるから、後2~3回は行ってみるのもいいかなと思っています。
コメント