南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)
2012年2月23日 アニメ・マンガ
まず最初に、表紙のオーラが圧倒的すぎますね。ハヤカワ文庫、特にJA文庫はどちらかと言えば若年層向けという感じがしないでもないから、今までもラノベ風の表紙みたいのはあったし、KEI自体も二回目の登場になるはずだけど、なんていうかそういう前例すべて超越してしまった感がある。KEIもあの当時から比べて大分上手くなってるし、初音ミクの絵師が描いた、初音ミクでないものというのは、かなり神秘的だと思う。だって、読めばわかるけど、この表紙の娘は小隅レイですらないのだから。表紙だけで買う価値があるといっても過言ではありませんが、この作品はあくまでSF小説。少し内容についても書いて見ることにしますかね。
野尻抱介といえば、SF界の文学賞である星雲賞を六度も受賞している作家であり、本作南極点のピアピア動画も短編賞を受賞しています。このことからも分かるように、この作品は長編ではなく、いくつかの短編が収録されている短篇集になります。もっとも、すべての話は地続きであり、登場人物同士の繋がりもあることから、全部の短編を合わせて一つの長編であるとも言えなくはない。
表紙の初音ミク風のキャラと、そしてピアピア動画から連想されるのは、ニコニコ動画以外の何物でもないですが、この小説はミクとニコニコの二つをテーマにしたSF小説です。一見すると若い子向けのソフトでありページであることから、小説の内容も若年層向けのサブカルチャー小説なのかと思えば、実際に読んでみるとそうでないことが分かります。どちらかと言えばもっと年上の、作者と同じ中高年に向けたSF小説といったほうが正しいのかな。現に、登場人物に所謂中高生と言った子供は出て来ませんし、主人公は最低でも大学生と年齢層は高めです。
そして内容は、初音ミクのパロディであるボーカロイド・小隅レイをメインに、宇宙船や潜水艦など、様々なものとコラボしていく中で、それぞれのキャラが夢や目標を達成させていくという感じのもので、実に中高年のロマンに溢れた作品であると思います。宇宙船や宇宙空間、それに深海など、発想自体が若者じゃないんだもの。ガジェット、というか題材自体はとても若々しいのだけど、作品そのものは若者文化に染まった中高年のそれに過ぎなくて、決して新しくはないという印象を受けた。
野尻抱介はニコニコ動画を始めとしたネット文化を啓蒙しており、Twitterなどでも積極的な発言をしていることで知られますが、SF小説家としてはデビューから20年とベテランといって経歴があります。まあ、最近はあまり書いてませんでしたから、帯で解説者に「そもそも野尻さんがちゃんとしたSF作家だったというのは驚きだった」などと失礼なことも言われてますが、それだけにニコ動を利用するような若年層からは、作家として認知はされていても、実際に作品を読んだりすることは少ないと思うんだよね。
本人がそれをどれだけ意識しているかは知らないけど、仮にこの作品を中高生といった若い世代に向けて書いたというのなら、私は正直首を傾げざるを得ない。前述のとおり、題材は若々しくても、発想や内容がまるで新しくないというか、ハッキリ言ってしまうと今の若者は宇宙とか海とか興味ないじゃないですか。空の彼方や果てに夢を追い求める時代じゃないし、そういったSF作品が流行っていないことは、以前にラノベのことを書いた際に少し触れたと思います。故にこの作品を若い世代に向けて書いたと言われるなら私は困惑するし、年齢層高めのSFファンに、ありきたりだけど夢のある小説を書いたという方が、よっぽどしっくり来るんだよね。奇抜さや新しさはほとんどない、むしろ古くさいといっても良いけど、ただそこには夢があり、希望があり、昔からの伝統があるとでも言うの? 実に90年代のSF小説という感じでしたよ。だから私はこの感覚は懐かしいと思ったし、そういった懐古的な意味でなら、よく出来たSF小説として評価することも可能だと思った。話しとしては、上手く纏まっていますから。
でも、文化的な意味で捉えると……正直、残念な部分も多い。この作品はネット文化が宇宙開発その他に与える影響を書いた近未来SF小説であるわけだけど、登場するネット文化とは前述のとおり初音ミクをモチーフにした小隅レイであり、ニコニコ動画のパロディであるピアピア動画です。確かにどちらも最近出来たものであり、我々の認識的には新しいと言えます。けど、それが近未来ならどうでしょうか?
ネット文化の流行り廃りというのは、現実のそれよりも素早く、例えばニコ動の前に流行っていた動画サイトと言えばYouTubeがあります。まあ、YouTube自体はまだありますけど、ニコ動はそれに規制する形で生まれたサイトであり、言ってしまえば一つの流れを汲んでいるコンテンツに過ぎません。動画サイトというものに、コメントをつけたり、生放送を行ったりすることが出来る。発展形、という言い方もできるでしょうか?
YouTubeの全盛期は間違いなく設立当初の2005年から2006年ぐらいでしょうけど、ニコ動は多分2007年から2008年ぐらいに始まり、今に至っているのだと思います。それなりに長いですが、上記の通り一つのコンテンツから移り変わったものであり、ゼロから始まったわけじゃないんですね。動画サイトの源流だって、元を辿ればフラッシュアニメなどに求めることができますし、こういう移り変わりは他にも見ることができます。
今はTwitterが全盛期であり、著名人の呟き等がそのままニュースにもなってしまうほど流行していますが、その前に流行っていたのはmixiであり、それ以前はブログ、もっと遡れば日記サイトやテキストサイトがあります。TwitterからFacebookになるかは分かりませんけど、こういう文化的ツールというのは移り変わりの流れが激しいんですね。昨日まで当然だったものが、明日の日常であるとは限らない。永続的という意味で成功しているのは、それこそ2chぐらいなものでしょう。
それを踏まえた上で、ピアピア動画の話に戻りますが、要するに10年後にニコニコ動画は存在するのか? ということです。これだけ移り変わりが激しい文化や世界の中で、一つのコンテンツがその流行りを維持するというのは非常に難しいものがあります。ニコ動は会社として成長し、ネット文化における立ち位置も確かに見いだせてはいるけど、それがこの先もずっと続くとは限らないし、思えないんだよね。そう考えると、近未来という世界観のSF小説において、ニコ動がまだありその規模を維持しているというのは不自然だし、そこにSF的な新しさはまったく感じないとも言えます。小隅レイ、というか初音ミクにしてもそうで、富野由悠季や冲方丁が言ったように、あれがミッキーマウスのように100年持つキャラクターであるかどうかは、まだ未知数な部分があります。だから、10年後や20年後に「そういや、そんなキャラもいたっけね」という感じでも、なんら不思議はないわけでね。そういった意味でも、近未来感の表現はあまり上手くなかったと思う。
収録されている短編の殆どは、かつてSFマガジン誌上に掲載されたものであり、歌う潜水艦とピアピア動画は私もSFマガジンの初音ミク特集の際、少し触れましたね。でも、今回の文庫化にあたって、それらの総決算とも言うべき短編、「星間文明とピアピア動画」が書き下ろされています。前述のように、小隅レイとピアピア動画に纏わる三編の短編から続く話が、これによって一つになって完結を迎える。話しとしては何度も書くように夢がありロマンがあり、SF小説として申し分ないのだけど、正直なところ私はあまり好きにはなれなかった。というのも、これを小隅レイないし初音ミクのキャラクター小説としての側面で見たとき、「星間文明とピアピア動画」は強烈な違和感を感じざるを得ない話なんです。
出たばかりの本ですから、あまりネタバレは控えますけど、星間文明のピアピア動画にはとある量産可能な宇宙外生命体が出てきました。その生命体が小隅レイの姿を形どったことから、物語がスタートします。星間文明と地球人類の架け橋的な役割を持っているとされるその生命体、名前は何故かあーやというのですけど、彼女は自身の役割を正確に認識した上で、繁殖ならぬ増殖を行います。材料さえ用意すれば、無限に複製が可能だと言うんですね。とある事情から登場人物たちは、あーやという生命体を量産させ、ロボットとして全国に配るのだけど、私はこのプロセスというか流れが、たまらなく嫌だった。
量産、増殖、複製、言い方は色々ありますけど、私は意思を持った人型のキャラクターが、ほぼ同一の形でコピーされることに、物凄い抵抗感があるのよ。小隅レイ、というかあーやが意思のない存在、つまりは無機質なロボットや大きなフィギュアのような存在ならまだしも、意思や感情を持ったキャラクターが、外見や性格まで大差なくコピーされていくことは果たしてキャラクター小説としてどうなのか? 初音ミクはザクやジムじゃないんです。確かにミクは数百、数千、あるいは数万といった楽曲を歌ってきたかも知れないけど、それをイコールで数万人のミクと思う人はいないでしょ? 全てはたった一人の存在に、初音ミクという一個人に集約されるんです。マジ天使のミクさんは、多様性はあっても量産性のない、唯一無二なんですよ。ドラえもんは青いのが一体いるからいいのであって、黄色いのが沢山いてもありがたみはないでしょう。
まあ、もっと言うと顔貌の同じキャラがウジャウジャ複製されていくという絵面を想像して、あまり気持ちが良いものではなかったいうのもあるんですけど、こういう心理的な違和感や抵抗感を持つ人は少なくないんじゃないかと思う。複製された小隅レイ似のあーやは大量配布されて、それこそ一家に一台レベルにまで普及していくんだけど、初音ミクはそういう使い方をしていいキャラじゃないだろうと、私は思うんだよね。こんなラブプラスみたいなキャラクター性にしては、ミクのもつ天使としての絶対性が損なわれてしまう。SFとしてはありがちであり普遍的だったと思うけど、確立されたキャラの小説として考えると、SF小説としての部分がそれを犠牲にしてしまったというのが、最終的な感想かな。
野尻抱介といえば、SF界の文学賞である星雲賞を六度も受賞している作家であり、本作南極点のピアピア動画も短編賞を受賞しています。このことからも分かるように、この作品は長編ではなく、いくつかの短編が収録されている短篇集になります。もっとも、すべての話は地続きであり、登場人物同士の繋がりもあることから、全部の短編を合わせて一つの長編であるとも言えなくはない。
表紙の初音ミク風のキャラと、そしてピアピア動画から連想されるのは、ニコニコ動画以外の何物でもないですが、この小説はミクとニコニコの二つをテーマにしたSF小説です。一見すると若い子向けのソフトでありページであることから、小説の内容も若年層向けのサブカルチャー小説なのかと思えば、実際に読んでみるとそうでないことが分かります。どちらかと言えばもっと年上の、作者と同じ中高年に向けたSF小説といったほうが正しいのかな。現に、登場人物に所謂中高生と言った子供は出て来ませんし、主人公は最低でも大学生と年齢層は高めです。
そして内容は、初音ミクのパロディであるボーカロイド・小隅レイをメインに、宇宙船や潜水艦など、様々なものとコラボしていく中で、それぞれのキャラが夢や目標を達成させていくという感じのもので、実に中高年のロマンに溢れた作品であると思います。宇宙船や宇宙空間、それに深海など、発想自体が若者じゃないんだもの。ガジェット、というか題材自体はとても若々しいのだけど、作品そのものは若者文化に染まった中高年のそれに過ぎなくて、決して新しくはないという印象を受けた。
野尻抱介はニコニコ動画を始めとしたネット文化を啓蒙しており、Twitterなどでも積極的な発言をしていることで知られますが、SF小説家としてはデビューから20年とベテランといって経歴があります。まあ、最近はあまり書いてませんでしたから、帯で解説者に「そもそも野尻さんがちゃんとしたSF作家だったというのは驚きだった」などと失礼なことも言われてますが、それだけにニコ動を利用するような若年層からは、作家として認知はされていても、実際に作品を読んだりすることは少ないと思うんだよね。
本人がそれをどれだけ意識しているかは知らないけど、仮にこの作品を中高生といった若い世代に向けて書いたというのなら、私は正直首を傾げざるを得ない。前述のとおり、題材は若々しくても、発想や内容がまるで新しくないというか、ハッキリ言ってしまうと今の若者は宇宙とか海とか興味ないじゃないですか。空の彼方や果てに夢を追い求める時代じゃないし、そういったSF作品が流行っていないことは、以前にラノベのことを書いた際に少し触れたと思います。故にこの作品を若い世代に向けて書いたと言われるなら私は困惑するし、年齢層高めのSFファンに、ありきたりだけど夢のある小説を書いたという方が、よっぽどしっくり来るんだよね。奇抜さや新しさはほとんどない、むしろ古くさいといっても良いけど、ただそこには夢があり、希望があり、昔からの伝統があるとでも言うの? 実に90年代のSF小説という感じでしたよ。だから私はこの感覚は懐かしいと思ったし、そういった懐古的な意味でなら、よく出来たSF小説として評価することも可能だと思った。話しとしては、上手く纏まっていますから。
でも、文化的な意味で捉えると……正直、残念な部分も多い。この作品はネット文化が宇宙開発その他に与える影響を書いた近未来SF小説であるわけだけど、登場するネット文化とは前述のとおり初音ミクをモチーフにした小隅レイであり、ニコニコ動画のパロディであるピアピア動画です。確かにどちらも最近出来たものであり、我々の認識的には新しいと言えます。けど、それが近未来ならどうでしょうか?
ネット文化の流行り廃りというのは、現実のそれよりも素早く、例えばニコ動の前に流行っていた動画サイトと言えばYouTubeがあります。まあ、YouTube自体はまだありますけど、ニコ動はそれに規制する形で生まれたサイトであり、言ってしまえば一つの流れを汲んでいるコンテンツに過ぎません。動画サイトというものに、コメントをつけたり、生放送を行ったりすることが出来る。発展形、という言い方もできるでしょうか?
YouTubeの全盛期は間違いなく設立当初の2005年から2006年ぐらいでしょうけど、ニコ動は多分2007年から2008年ぐらいに始まり、今に至っているのだと思います。それなりに長いですが、上記の通り一つのコンテンツから移り変わったものであり、ゼロから始まったわけじゃないんですね。動画サイトの源流だって、元を辿ればフラッシュアニメなどに求めることができますし、こういう移り変わりは他にも見ることができます。
今はTwitterが全盛期であり、著名人の呟き等がそのままニュースにもなってしまうほど流行していますが、その前に流行っていたのはmixiであり、それ以前はブログ、もっと遡れば日記サイトやテキストサイトがあります。TwitterからFacebookになるかは分かりませんけど、こういう文化的ツールというのは移り変わりの流れが激しいんですね。昨日まで当然だったものが、明日の日常であるとは限らない。永続的という意味で成功しているのは、それこそ2chぐらいなものでしょう。
それを踏まえた上で、ピアピア動画の話に戻りますが、要するに10年後にニコニコ動画は存在するのか? ということです。これだけ移り変わりが激しい文化や世界の中で、一つのコンテンツがその流行りを維持するというのは非常に難しいものがあります。ニコ動は会社として成長し、ネット文化における立ち位置も確かに見いだせてはいるけど、それがこの先もずっと続くとは限らないし、思えないんだよね。そう考えると、近未来という世界観のSF小説において、ニコ動がまだありその規模を維持しているというのは不自然だし、そこにSF的な新しさはまったく感じないとも言えます。小隅レイ、というか初音ミクにしてもそうで、富野由悠季や冲方丁が言ったように、あれがミッキーマウスのように100年持つキャラクターであるかどうかは、まだ未知数な部分があります。だから、10年後や20年後に「そういや、そんなキャラもいたっけね」という感じでも、なんら不思議はないわけでね。そういった意味でも、近未来感の表現はあまり上手くなかったと思う。
収録されている短編の殆どは、かつてSFマガジン誌上に掲載されたものであり、歌う潜水艦とピアピア動画は私もSFマガジンの初音ミク特集の際、少し触れましたね。でも、今回の文庫化にあたって、それらの総決算とも言うべき短編、「星間文明とピアピア動画」が書き下ろされています。前述のように、小隅レイとピアピア動画に纏わる三編の短編から続く話が、これによって一つになって完結を迎える。話しとしては何度も書くように夢がありロマンがあり、SF小説として申し分ないのだけど、正直なところ私はあまり好きにはなれなかった。というのも、これを小隅レイないし初音ミクのキャラクター小説としての側面で見たとき、「星間文明とピアピア動画」は強烈な違和感を感じざるを得ない話なんです。
出たばかりの本ですから、あまりネタバレは控えますけど、星間文明のピアピア動画にはとある量産可能な宇宙外生命体が出てきました。その生命体が小隅レイの姿を形どったことから、物語がスタートします。星間文明と地球人類の架け橋的な役割を持っているとされるその生命体、名前は何故かあーやというのですけど、彼女は自身の役割を正確に認識した上で、繁殖ならぬ増殖を行います。材料さえ用意すれば、無限に複製が可能だと言うんですね。とある事情から登場人物たちは、あーやという生命体を量産させ、ロボットとして全国に配るのだけど、私はこのプロセスというか流れが、たまらなく嫌だった。
量産、増殖、複製、言い方は色々ありますけど、私は意思を持った人型のキャラクターが、ほぼ同一の形でコピーされることに、物凄い抵抗感があるのよ。小隅レイ、というかあーやが意思のない存在、つまりは無機質なロボットや大きなフィギュアのような存在ならまだしも、意思や感情を持ったキャラクターが、外見や性格まで大差なくコピーされていくことは果たしてキャラクター小説としてどうなのか? 初音ミクはザクやジムじゃないんです。確かにミクは数百、数千、あるいは数万といった楽曲を歌ってきたかも知れないけど、それをイコールで数万人のミクと思う人はいないでしょ? 全てはたった一人の存在に、初音ミクという一個人に集約されるんです。マジ天使のミクさんは、多様性はあっても量産性のない、唯一無二なんですよ。ドラえもんは青いのが一体いるからいいのであって、黄色いのが沢山いてもありがたみはないでしょう。
まあ、もっと言うと顔貌の同じキャラがウジャウジャ複製されていくという絵面を想像して、あまり気持ちが良いものではなかったいうのもあるんですけど、こういう心理的な違和感や抵抗感を持つ人は少なくないんじゃないかと思う。複製された小隅レイ似のあーやは大量配布されて、それこそ一家に一台レベルにまで普及していくんだけど、初音ミクはそういう使い方をしていいキャラじゃないだろうと、私は思うんだよね。こんなラブプラスみたいなキャラクター性にしては、ミクのもつ天使としての絶対性が損なわれてしまう。SFとしてはありがちであり普遍的だったと思うけど、確立されたキャラの小説として考えると、SF小説としての部分がそれを犠牲にしてしまったというのが、最終的な感想かな。
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