3月になりまして、私は残業しても仕事が終わらなかったので、持ち帰りで徹夜仕事をしています。元々、自分の作業が遅れていたツケが回っただけなので仕方のないことだけど、最近は原稿でも徹夜することが少なかったので身体がキツイですね。世間的には十分若者に分類されるであろう私も、肉体的に無理が効かなくなってきたのだろうか。年の始めは健康とか節約を目標にしていた気がするけど、そんなのはもう遠い日の彼方ですね。まあ、今回の徹夜に関してはやらなければいけないことだから、ちょっと違うんだろうけど。
私は典型的なスロースターターで、それも追い詰められれば追い詰められるほどハイになるという、ろくでもない性格をしているため、あらゆる作業はいつもギリギリになっています。これじゃあいけないと思ってはいるんだけど、なかなか改善されなくてね。追い詰められた後がないという緊張感が私に火をつけるというか、爆発させるんでしょうね。随分と危ない綱渡りをしていますが、落っこちたことは今のところないと思います。
どうしても余裕を持った作業が出来なくて、例えば執筆にしてもギリギリになって頭をフル回転させた結果、色々な文章や単語、台詞などが出てくるといった感じで、そうしないとテンション上がらないんですよね。テンションをハイにするには、結局自分を苛め抜くしかないという悪循環に陥っていて、いつか大きな失敗をするんじゃないかと内心ビクビクしています。だから、昨年の冬コミ原稿はかなり前から執筆を始めることで、いつものようなギリギリの作業にならないよう心がけたのですが、なんと時間があるのをいいことに、普段の倍以上も書いてしまい結局時間が足りなくなったという本末転倒な事態になって……私って本当にダメな奴ですね。
まあ、徐々に直していくしかないのだろうけど、ここで「来年度から頑張ろう」なんて言ったとして、それにどれほどの意味があるのか。問題の先延ばしでしかないし、そもそも来年度の前にコミ1の原稿があるだろうとね。あれも、そろそろ当落の発表でしたか。この日記書いている頃には絶対発表されていると思いますけど、それについて後々書くということで。新刊の予定は1冊だけど、仕様の問題から普段よりもページ数を増やさないといけないし、さっさと作業を進めないといけない。
自分を変える、自分を変えたい、そう思うことは簡単だけど、実行に移すことは非常に困難です。よくある話だけど、私自身で当てはめてみると、それまでの自分を否定するような気がして、嫌なのかも知れませんね。前述の通り、綱渡りで落ちたことは今のところ一度もないし、なんだかんだで上手くやってきたという変なプライドが、私の自己改革への抵抗感や違和感になっているのだろうか。
いや、そんな定義付けは無意味ですね。自分の生き方、やり方をガラリと変えるんだから、細かい理由など関係なしにそれは大変なことなんですよ。ただ、本人のやる気と意志がどこまで持続できるかということでね。私のやり方は切羽詰っているように見えて、自分にとってはとてもやりなれたことなんだと思います。だからこそ、いつもそれを選択してしまうというか、もっと簡単なやり方があるのを知りつつも、自分の中で最もやりやすいのはこれなんだと、思い込んでるんですね。
でも、何度も繰り返すようにそれじゃあダメなんですよ。だって、私は決して一人で綱渡りをしているわけじゃないんだから。そう、私が一人でギリギリの綱渡りをして、渡り終えているというのならともかく、現実はそんな上手く行かない。沢山の人に支えられ、落ちないようにしてもらったからこそ、私は落ちることなく綱渡りが出来ているのですよ。同人にせよ、仕事にせよ、色々な人に手間や迷惑をかけて、そんな自分を不甲斐ないと思ったり、情けなく思う気持ちも、年々強くなっている。
自分のためでいいんです。なにをするにも、最終的には自分のためで。どんな経緯であれ、やり遂げること、成し遂げることが大事なんであって、よっぽど不純な動機でもない限りは、それは許されるべきことだと思います。私は自分に対する羞恥心と、他人に対する罪悪感が強いわけだけど、自分を変えることによって救われるのは、誰を差し置いてもまずは私自身であると思ってますし。よく、親が「一人で大きくなったような顔して」みたいなことを言いますけど、これは本当にその通りでね。人が自分の足で歩けるようになるのは、まず今まで自分の歩いてきた道を振り返って、どれだけの人が背中を押したり、倒れないようにしてくれたかを確かめてからだと思う。
私は典型的なスロースターターで、それも追い詰められれば追い詰められるほどハイになるという、ろくでもない性格をしているため、あらゆる作業はいつもギリギリになっています。これじゃあいけないと思ってはいるんだけど、なかなか改善されなくてね。追い詰められた後がないという緊張感が私に火をつけるというか、爆発させるんでしょうね。随分と危ない綱渡りをしていますが、落っこちたことは今のところないと思います。
どうしても余裕を持った作業が出来なくて、例えば執筆にしてもギリギリになって頭をフル回転させた結果、色々な文章や単語、台詞などが出てくるといった感じで、そうしないとテンション上がらないんですよね。テンションをハイにするには、結局自分を苛め抜くしかないという悪循環に陥っていて、いつか大きな失敗をするんじゃないかと内心ビクビクしています。だから、昨年の冬コミ原稿はかなり前から執筆を始めることで、いつものようなギリギリの作業にならないよう心がけたのですが、なんと時間があるのをいいことに、普段の倍以上も書いてしまい結局時間が足りなくなったという本末転倒な事態になって……私って本当にダメな奴ですね。
まあ、徐々に直していくしかないのだろうけど、ここで「来年度から頑張ろう」なんて言ったとして、それにどれほどの意味があるのか。問題の先延ばしでしかないし、そもそも来年度の前にコミ1の原稿があるだろうとね。あれも、そろそろ当落の発表でしたか。この日記書いている頃には絶対発表されていると思いますけど、それについて後々書くということで。新刊の予定は1冊だけど、仕様の問題から普段よりもページ数を増やさないといけないし、さっさと作業を進めないといけない。
自分を変える、自分を変えたい、そう思うことは簡単だけど、実行に移すことは非常に困難です。よくある話だけど、私自身で当てはめてみると、それまでの自分を否定するような気がして、嫌なのかも知れませんね。前述の通り、綱渡りで落ちたことは今のところ一度もないし、なんだかんだで上手くやってきたという変なプライドが、私の自己改革への抵抗感や違和感になっているのだろうか。
いや、そんな定義付けは無意味ですね。自分の生き方、やり方をガラリと変えるんだから、細かい理由など関係なしにそれは大変なことなんですよ。ただ、本人のやる気と意志がどこまで持続できるかということでね。私のやり方は切羽詰っているように見えて、自分にとってはとてもやりなれたことなんだと思います。だからこそ、いつもそれを選択してしまうというか、もっと簡単なやり方があるのを知りつつも、自分の中で最もやりやすいのはこれなんだと、思い込んでるんですね。
でも、何度も繰り返すようにそれじゃあダメなんですよ。だって、私は決して一人で綱渡りをしているわけじゃないんだから。そう、私が一人でギリギリの綱渡りをして、渡り終えているというのならともかく、現実はそんな上手く行かない。沢山の人に支えられ、落ちないようにしてもらったからこそ、私は落ちることなく綱渡りが出来ているのですよ。同人にせよ、仕事にせよ、色々な人に手間や迷惑をかけて、そんな自分を不甲斐ないと思ったり、情けなく思う気持ちも、年々強くなっている。
自分のためでいいんです。なにをするにも、最終的には自分のためで。どんな経緯であれ、やり遂げること、成し遂げることが大事なんであって、よっぽど不純な動機でもない限りは、それは許されるべきことだと思います。私は自分に対する羞恥心と、他人に対する罪悪感が強いわけだけど、自分を変えることによって救われるのは、誰を差し置いてもまずは私自身であると思ってますし。よく、親が「一人で大きくなったような顔して」みたいなことを言いますけど、これは本当にその通りでね。人が自分の足で歩けるようになるのは、まず今まで自分の歩いてきた道を振り返って、どれだけの人が背中を押したり、倒れないようにしてくれたかを確かめてからだと思う。
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