劇場アニメ「AURA~魔竜院光牙最後の闘い~」
2013年5月1日 アニメ・マンガ
5月1日ということで、いよいよ5月になりましたね。本日は天気こそ悪かったですが、映画の日ということもあって映画を観てきました。AURAという作品は、田中ロミオ原作のライトノベルですが、私が読んだことあるのはコラムの方だけで、原作小説の方は未読でした。というか、私はガガガ文庫を一冊も買ったことがないので。映画自体に興味を持ったのは、確か先々月に禁書の映画を観たときだったか。あれで予告編がやっていて、とりあえずアニメだったので気になったんですよね。
田中ロミオという人は、私にとってはラノベ作家ではなくエロゲのシナリオライターってイメージが強いんだけど、こっち系の作家やライターとしては唯一研究対象として成立するんじゃないかと思ってる。作家とかでも、田中ロミオについて語ってる人とか多いでしょ? まあ、本人はそういう現状を億劫に、あるいは煩わしく思っているかも知れないけど、周辺周囲からはそれだけ深みがあると感じられているのでしょう。
私は別に信者じゃないので、これといって一家言があるわけじゃないんだけど、映画自体は何となく興味を持ってしまったこともあり、観てみることにしたんですよ。ただ、テアトル系の配給というだけあって、上映館がとにかく少ない。一番近いのは川崎のTOHOシネマズだったんだけど、なんとビックリ朝の8時半ぐらいに1回やるだけなんだよね。どうせオタク向けの映画なんだから、せめて夜やってくれよと言いたかったですが、やってないものは仕方ない。次に近いのはどこだと言うことで、会社帰りに観ることを考えて池袋のシネリーブルを選択しました。ららぽーと横浜のTOHOシネマズという手もあったんだけど、あそこって横浜から行くのは結構遠いからね。池袋なら、帰りはそのまま湘南新宿ラインに乗れば良いだけだし、一度も行ったことがなかったというのも大きい。映画館好きだからね、新しいところに行くのはそれだけで楽しみになると言いますか。
シネリーブル池袋はテアトル系の映画館で、今は無きテアトルダイヤの代わりといった感じでしょうか? サンシャイン通りにあったダイヤと違い、ルミネの上にあるシネリーブルは駅直結という感じで、商業ビルの上にあるのはテアトルタイムズスクエアを思い出しますね。あちらよりもおしゃれな感じがするのは、高島屋とルミネの違いか、あるいは新宿と池袋の差なんだろうか。
映画自体は、予告編と公式サイト以外にほとんど前情報を持っていなかったので、少し意外な内容でした。ファンタジーなのかと思ったらそうでもなく、オタク向けの映画としてはかなり重いテーマを扱っています。即ち、いじめとスクールカーストです。主人公は中学時代に重度の戦士症候群を発症していた高校1年生の少年で、前世の仲間探しこそしていなかったものの、それが原因で家族との折り合いが悪くなり、学校で虐められていたらしい。戦士症候群と聞いても、イマイチピンとこない人が多いかも知れないけど、これは所謂中二病とは違うものであり、80年代のオカルト雑誌の投稿欄などで流行ったものです。解説すると長くなるので割愛しますが、要するに中二病的妄想を遥かに超える、完全な人格障害に近い連中だと思ってくれれば分かりやすい。
主人公はそうした過去を反省して、あるいは完治したことから、作品が始まった時点で真人間なんですが、そこに不思議な雰囲気を持った少女が現れる。如何にもな服装に、それっぽい言動、そして魔法の様なものを使う姿に主人公は引き込まれ、かつての躍動や興奮を刺激されてしまう。完治したといったところで、可能であれば不思議ミステリーな世界に行きたい、そっち側になりたいという願望が完全に消えるわけではないですからね。主人公は俺も連れてってくれと、俺も協力したいんだと、思わずそう叫んでしまうわけです。
けど、相手がどこまでも本気だったら? 実際に不思議な力を持っているかはともかく、その言動や行動を当然のことだと思っていたらどうだろうか。この作品は、そうした非現実が現実の中ではどれだけ異端なのかを、これでもかというぐらい分からせてくれます。
一種の隔離クラスなんじゃないかというぐらい、ヒロインを初め主人公の教室には戦士症候群の患者が多い。半数という割りにはその全部が描かれているわけじゃなかったけど、所謂一般生徒、主人公の目線から観たリア充にはそれが面白くない。面白くないというより、純粋な嫌悪感を覚えたことでしょう。なにせ、訳の分からないことを喋り続ける、奇抜な格好の連中がクラスにわんさかといるのだから。例えば、作家の成田良悟が電撃文庫で「世界の中心、針山さん」というオムニバス作品を出しましたが、そこに収録されている「拝啓、光の勇者様」なる話があります。ある日突然、気付いたときには主人公以外の島民が何らかの戦士を名乗りだし、彼の目の前で殺し合いを始めるというものですが、イメージや雰囲気としてはこれに近いと思う。自分をただの人間じゃないと思い込んでいる、ある種の異常者達がクラスに沢山いる。常人なら、耐えきれるものじゃないでしょう。
その爆発が、異常者を排除、迫害するというリア充達のいじめ行動の要因となっていくのだけど、分かりやすく暴力を使う奴は、主人公の機転によって早々退場してしまいます。けれど、不良気質のある男子がいなくなったことで、今度は女子によるいじめへシフトしてしまい、それだけに陰湿さを極めてしまう。主人公も言ってますが、ヒロイン達が虐められるのは結局のところ自業自得で、リア充達は自分たちがいじめを行っているとは思ってないんですよね。現に、いじめの主犯格でもあるリア充女子は、クラスのマスコット的な女子生徒に「別にいじめじゃないから」と言ってましたし。彼らにとって狂っているのは向こうであり、それを正そうとする自分たちが正義なのです。しかも、それは概ね間違ってはない。でも、作品の視点はヒロイン側に立っている主人公であり、彼にもそうした過去がある故に、過激ないじめとして映るわけです。実際、やっていることは陰湿そのもので、過激なものも事実だしね。
この作品、多分原作は叙述トリックの類いなんだと思います。即ち、ヒロインは本当に異世界の住人なのか、それとも痛い戦士症候群の患者なのか。私は映画を観ただけだと、どちらにも取れるんじゃないかと思います。勿論、ヒロインの行動には一つずつ現実の理論を当てはめることが出来る。最初の声だって特異の声帯模写を利用しただけかも知れないし、最後に作った壮大な神殿だって、金を積んで業者を使ったのかも知れない。だけど本当に、もしかしたら魔法やその類いが使えたのかもと思わせる作り方は、流石に上手いと思った。精神的にグサグサくる描写も多いけど、それだけに印象深いものなったんじゃないでしょうか? 楽しく面白い作品を期待していくと、うっかり心に傷を残すかも知れないけど、重くシリアスだけど、その先にある純愛を受け入れられるなら、結構良いんじゃないかしら。最後があるから救われる、というのはご都合主義な気もするけど、私はそんな作品があっても良いんじゃないかと思いました。
田中ロミオという人は、私にとってはラノベ作家ではなくエロゲのシナリオライターってイメージが強いんだけど、こっち系の作家やライターとしては唯一研究対象として成立するんじゃないかと思ってる。作家とかでも、田中ロミオについて語ってる人とか多いでしょ? まあ、本人はそういう現状を億劫に、あるいは煩わしく思っているかも知れないけど、周辺周囲からはそれだけ深みがあると感じられているのでしょう。
私は別に信者じゃないので、これといって一家言があるわけじゃないんだけど、映画自体は何となく興味を持ってしまったこともあり、観てみることにしたんですよ。ただ、テアトル系の配給というだけあって、上映館がとにかく少ない。一番近いのは川崎のTOHOシネマズだったんだけど、なんとビックリ朝の8時半ぐらいに1回やるだけなんだよね。どうせオタク向けの映画なんだから、せめて夜やってくれよと言いたかったですが、やってないものは仕方ない。次に近いのはどこだと言うことで、会社帰りに観ることを考えて池袋のシネリーブルを選択しました。ららぽーと横浜のTOHOシネマズという手もあったんだけど、あそこって横浜から行くのは結構遠いからね。池袋なら、帰りはそのまま湘南新宿ラインに乗れば良いだけだし、一度も行ったことがなかったというのも大きい。映画館好きだからね、新しいところに行くのはそれだけで楽しみになると言いますか。
シネリーブル池袋はテアトル系の映画館で、今は無きテアトルダイヤの代わりといった感じでしょうか? サンシャイン通りにあったダイヤと違い、ルミネの上にあるシネリーブルは駅直結という感じで、商業ビルの上にあるのはテアトルタイムズスクエアを思い出しますね。あちらよりもおしゃれな感じがするのは、高島屋とルミネの違いか、あるいは新宿と池袋の差なんだろうか。
映画自体は、予告編と公式サイト以外にほとんど前情報を持っていなかったので、少し意外な内容でした。ファンタジーなのかと思ったらそうでもなく、オタク向けの映画としてはかなり重いテーマを扱っています。即ち、いじめとスクールカーストです。主人公は中学時代に重度の戦士症候群を発症していた高校1年生の少年で、前世の仲間探しこそしていなかったものの、それが原因で家族との折り合いが悪くなり、学校で虐められていたらしい。戦士症候群と聞いても、イマイチピンとこない人が多いかも知れないけど、これは所謂中二病とは違うものであり、80年代のオカルト雑誌の投稿欄などで流行ったものです。解説すると長くなるので割愛しますが、要するに中二病的妄想を遥かに超える、完全な人格障害に近い連中だと思ってくれれば分かりやすい。
主人公はそうした過去を反省して、あるいは完治したことから、作品が始まった時点で真人間なんですが、そこに不思議な雰囲気を持った少女が現れる。如何にもな服装に、それっぽい言動、そして魔法の様なものを使う姿に主人公は引き込まれ、かつての躍動や興奮を刺激されてしまう。完治したといったところで、可能であれば不思議ミステリーな世界に行きたい、そっち側になりたいという願望が完全に消えるわけではないですからね。主人公は俺も連れてってくれと、俺も協力したいんだと、思わずそう叫んでしまうわけです。
けど、相手がどこまでも本気だったら? 実際に不思議な力を持っているかはともかく、その言動や行動を当然のことだと思っていたらどうだろうか。この作品は、そうした非現実が現実の中ではどれだけ異端なのかを、これでもかというぐらい分からせてくれます。
一種の隔離クラスなんじゃないかというぐらい、ヒロインを初め主人公の教室には戦士症候群の患者が多い。半数という割りにはその全部が描かれているわけじゃなかったけど、所謂一般生徒、主人公の目線から観たリア充にはそれが面白くない。面白くないというより、純粋な嫌悪感を覚えたことでしょう。なにせ、訳の分からないことを喋り続ける、奇抜な格好の連中がクラスにわんさかといるのだから。例えば、作家の成田良悟が電撃文庫で「世界の中心、針山さん」というオムニバス作品を出しましたが、そこに収録されている「拝啓、光の勇者様」なる話があります。ある日突然、気付いたときには主人公以外の島民が何らかの戦士を名乗りだし、彼の目の前で殺し合いを始めるというものですが、イメージや雰囲気としてはこれに近いと思う。自分をただの人間じゃないと思い込んでいる、ある種の異常者達がクラスに沢山いる。常人なら、耐えきれるものじゃないでしょう。
その爆発が、異常者を排除、迫害するというリア充達のいじめ行動の要因となっていくのだけど、分かりやすく暴力を使う奴は、主人公の機転によって早々退場してしまいます。けれど、不良気質のある男子がいなくなったことで、今度は女子によるいじめへシフトしてしまい、それだけに陰湿さを極めてしまう。主人公も言ってますが、ヒロイン達が虐められるのは結局のところ自業自得で、リア充達は自分たちがいじめを行っているとは思ってないんですよね。現に、いじめの主犯格でもあるリア充女子は、クラスのマスコット的な女子生徒に「別にいじめじゃないから」と言ってましたし。彼らにとって狂っているのは向こうであり、それを正そうとする自分たちが正義なのです。しかも、それは概ね間違ってはない。でも、作品の視点はヒロイン側に立っている主人公であり、彼にもそうした過去がある故に、過激ないじめとして映るわけです。実際、やっていることは陰湿そのもので、過激なものも事実だしね。
この作品、多分原作は叙述トリックの類いなんだと思います。即ち、ヒロインは本当に異世界の住人なのか、それとも痛い戦士症候群の患者なのか。私は映画を観ただけだと、どちらにも取れるんじゃないかと思います。勿論、ヒロインの行動には一つずつ現実の理論を当てはめることが出来る。最初の声だって特異の声帯模写を利用しただけかも知れないし、最後に作った壮大な神殿だって、金を積んで業者を使ったのかも知れない。だけど本当に、もしかしたら魔法やその類いが使えたのかもと思わせる作り方は、流石に上手いと思った。精神的にグサグサくる描写も多いけど、それだけに印象深いものなったんじゃないでしょうか? 楽しく面白い作品を期待していくと、うっかり心に傷を残すかも知れないけど、重くシリアスだけど、その先にある純愛を受け入れられるなら、結構良いんじゃないかしら。最後があるから救われる、というのはご都合主義な気もするけど、私はそんな作品があっても良いんじゃないかと思いました。
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