何から書いて良いのか。何を書くべきなのか。
それについての悩みは、あまりなかった。最終回を読んだとき、私が書こうと思ったのはやはり天理のことだった。私が天理を好きだから、というのは勿論あるけど、それはこの物語の主人公やヒロインが、最終的な意味で天理だったのではないかと思うからだ。
神のみぞ知るセカイという作品の主人公は桂木桂馬であり、確かに物語全体はごく僅かな例外を除けば彼の物だろう。そしてそれが完結した。
けれど、最後の最後に、彼の物語が終わった後があるのだとしたら? 作品を締めくくるのが誰か、それによって印象は大きく変わってくるはずだ。

とはいえ、天理のことだけを書き始めても意味が通じないので、最初は最終回の流れを普通に追っていくことにする。前回までの流れを簡単におさらいすると、女神とその宿主達の尽力によって現代へと帰還した桂馬は、このゲームを終わらせるためにエンディングを選んだ。相手はちひろ。女神篇で、彼が傷付けてしまった元攻略対象だ。
桂馬が彼女に告白したシーンが物語の引きになり、そして最終回へと続いている。

けれど、最終回はその告白シーン続きから始まっている訳ではない。桂馬が海辺の公園で会っていたのは、彼を電話で呼び出したドクロウ……いや、二階堂だった。彼女は桂馬と対話することで前回から最終回の間に何があり、どうして桂馬がちひろに告白したのかなどを読者へと解き明かしていく。
桂馬曰く、ちひろへの告白は物語を終わらせるための一環。つまり、彼に関わった少女たちを解放するために行ったのだという。宿主の少女たちが自分に気持ちを残したままでは物語を終えることは出来ない。だから自分が誰か一人とくっつき、独り身でなくなれば、関係を終わらせてラブコメを強制終了出来ると考えたようだ。
桂馬の言うシステムに対して、二階堂は「自分勝手な理論だ」と切り捨てる。確かにそうだろう、これは後述することになるが、桂馬はかなり自分勝手な行動を取った。
では、その相手がどうしてちひろだったのか? 誰か一人を選ぶなら、それは宿主の中からでも構わないはずだ。現に女神達は桂馬の帰還後、誰が桂馬の恋人になるのかで揉めていた。それ故、過去編の合間に宿主と桂馬の話が何度も差し込まれたのだし、彼女たちは皆が皆、桂馬のことを愛していた。
宿主の中から選べば角が立つ、という考えは確かにある。だが、桂馬はそれを理由として挙げていないし、女神達も、自分の宿主が選ばれなかったからといって桂馬を殺したり、他の宿主を害したりはしないだろう。彼女たちは神であり、尋常ではない部分も目立ちはするが、思考の上では決して曲がってなどいない。でなければ、女神にはなれない。
そしてそれは、宿主にしても同じだ。例えば……ここで名前を挙げるのは本当に心苦しいが、桂馬が宿主の中から天理を選んだとしよう。宿主の中で天理のことを知っている者はおらず、かのんが見かけたことを除けば、全員が初対面だったはずだ。つまり、宿主達にとって天理とはよく知らない相手であり、どういう存在かが分からない。
ここで重要となってくるのは、ちひろのことを知らない宿主がいると言うことだ。月夜と栞のことであるが、彼女たちは桂馬のクラスメートではなく、又部活動の繋がりもないため、他の宿主と接点が薄い。歩美や結、それにかのんはちひろのことを知っているが、彼女たちはおそらく存在すら認知していなかっただろう。
故に、月夜と栞に限って言えば天理もちひろも存在としての重みや認識度は、それほど大差ないことが伺える。

では、何故桂馬は明確に自分を愛してくれている宿主の少女ではなく、ちひろを選んだのか?
話は前後するが、二階堂との会話の中で桂馬はちひろに振られたことを語っていた。女神篇で桂馬がちひろを突き放したときと違い、随分とギャグ調の描かれ方をしてはいるが、桂馬はちひろに振られたのだ。
これが宿主ならどうだろうか? 桂馬が独り身を止めたいなら、誰か一人とくっつきたいのであれば、宿主から選んだ方がずっと効率が良い。何故なら宿主達は心の底から桂馬を愛しており、選ばれれば拒むことはまずないからだ。すぐ両思いになれる。桂馬が誰かと恋人同士になることがこのエンディングにおけるシステムの一環だというなら、そうすべきだった。
相手がちひろの場合、ちひろが告白を受け入れないことにはこのシステムは完成しないのだ。振られてしまえばそれで終わりに近く、宿主達はそれなら自分がと思ってしまうことだろう。そうなっては、物語はこの先も延々と続いてしまう。
なのに、桂馬は敢えてちひろというシステムの完成に相応しいとは言えない相手を選んだ。桂馬は分かっていない、言うとおりにならないことに文句を垂れていたが、それなら思い通りになる相手を選べば良かっただけの話だ。

「だから、好きになったんだろ?」

桂馬のこうした自己矛盾に対して、二階堂が投げかけた言葉は実にシンプルだった。桂馬はちひろのことが好き。蓋を開けてみれば、なんとも単純な理由があった。何故、桂馬はちひろを選んだのか? 簡単な話、彼は彼女のことが本当に好きだった。それだけのことなのだ。理論や理屈など、本音を隠すための建前でしかない。
桂馬が少女たちを解放しようとしたこと自体は、嘘ではないのだろう。だが、その為にちひろを選んだのは必ずしも本当のことではない。逆なのだ。桂馬は自分の恋を成就させるために宿主達を切り捨てたのだ。それは優しさではなく私欲に近く、発想と方法そのものは前回のエルシィと被るものがある。

話が少しずれてしまうが、前回においてエルシィはラスボスとしての力を発揮し、人間の少女として、桂馬の妹、桂木えりとして転生を果たした。エルシィという悪魔を捨てて、桂木家の家族になることを望んだのだ。
エルシィに関しては予期されていた部分もあったが、ラスボス告白が唐突だったこともあり、何の感慨も湧かなかった、というのが私の正直な感想だ。人間に転生した件に関しても、エルシィは確かに幸せそうであるが、そもそも彼女は別に不幸ではなかったはずだ。確かに戦災孤児という身の上で、救命院の出身というあまり恵まれてない環境ではあっただろうが、彼女自身がそれをトラウマに感じていたり、負い目に思っている描写はほぼ無かったと言っていいだろう。むしろ、駆け魂隊というエリート職に抜擢されたことを誇りに思い、喜んでさえいた。
では、前世はどうなのか? 前世のエルシィは旧地獄における最強の兵器だったという。詳細は明かされてないが、女神達が蹴散らした動体巨人などに比べれば、よっぽど強いのだろう。確かに、前世のエルシィは不幸だったのかも知れない。その最強兵器に本人の意思というものがどこまで存在していたかは疑問だが、本当は嫌々やっていたというのなら、それは災難だったことだろう。
しかし、今のエルシィは違う。エリュシア・デ・ルート・イーマという悪魔に生まれ変わった少女は、決して不幸などではない。彼女には尊敬する姉がいて、同じ身の上の仲間が500人ぐらいいて、彼女のことをとても気に掛けてくれる親友がいた。エルシィはこの世界が好きだと桂馬に言った。その言葉が真実なら、彼女は世界に不満など覚えていなかったことになるし、自分自身に幸福だって感じていたはずなのだ。
なのに、エルシィは自らエルシィという存在を捨て、悪魔から人間になった。彼女は世界を改変したと言うより、周囲の記憶を書き換えたのだと思っているが、その結果として失われたものがある。そう、親友ハクアの記憶だ。
ハクアはエルシィの学生時代の親友であり、客観的に見てもお互いとても仲の良い間柄だった。しかし、エルシィが自分自身の存在を消して、桂木えりという存在と記憶を作った時点で、ハクアからはエルシィの記憶と、そしてかなりの確率で桂馬の記憶も失っている。エルシィという悪魔が最初からいなかったのであれば、ハクアが桂馬に出会った事実さえも存在しなくなるからだ。つまりハクアは、親友と想っていた相手から一方的に切り離され、想い人である桂馬のことさえも忘れてしまったのである。
これはハッキリ言ってハクアにとっては酷な話であるし、特に自分でも気付かぬうちに桂馬の存在と彼に対する想いを消失したのは哀れとしか言い様がない。ハクアはエルシィに捨てられたのだと言っても、決して間違いではないだろう。そしてエルシィには、何が何でも桂木家の家族に、桂馬の妹になるという必然性が存在しない。彼女は確かに両親こそいないが、駆け魂隊という職があり、イーマ家という身よりもある。駆け魂隊はおそらく解散になるだろうとハクアは言っているが、それならば尚のこと、エルシィには親友のハクアと協力して地獄の再興をしていくという選択肢が、エンディングがあったはずなのだ。ましてや、地獄を今みたいな焦土に変えたのは旧地獄時代に最強兵器のエルシィと、英雄ドクロウが戦った結果なのだから、それに対する責任というものもあるだろう。極端な話、エルシィの同胞である500人の孤児達は、エルシィによって親を殺されたも同じなのだから。
しかし、エルシィはそうしたエンディングを選ばなかった。ハクアや生まれ故郷の地獄を切り捨て、桂馬の妹になることを選んだ。これはエルシィの中に天秤があったとして、桂馬の方がハクアよりも重かったと考えるしかない。親友や故郷よりも本当の家族を、桂馬の妹になることの方がエルシィにとっては重要だったのだ。そしてそれは、間違いなくエルシィ自身の中にあった私欲だろう。

話を戻し、最終回の桂馬の発想や行動には上記で挙げたエルシィに近いものがある。エルシィが自らの存在そのものを放棄したように、桂馬は自らの役目を放棄して、物語を強制終了させようとした。彼自身が本当に好きな、ちひろと結ばれるために。宿主のためなどではない、彼は自らの私欲であるちひろとの恋を優先したのだ。
二階堂は言う。ちひろに桂馬の気持ちは伝わっていると。しかし、歩美の件はあるし、結やかのんとも顔見知りというしがらみの多いちひろにとって、答えは簡単に出せるものではない。だが、桂馬は「初めて現実で本気になった」という二階堂の言葉を、否定しようとしなかった。つまり、桂馬はちひろが本気で好きなのだ。
二階堂との別れ。彼女は桂馬にPFPを返却する。今まで取り上げた数、一体いくつあるのかは分からないが、ボクばかり目の敵にと言う桂馬は、やはりまだどこかずれているように思う。だって、教師が授業中にゲームをやってる生徒に注意するのは普通だし、没収するのだって当たり前だろう。二階堂を、ドクロウを助けたのが桂馬だからといって、それは次元の違う話のはずだ。
しかし、これには意外な真実が待っていた。何故、二階堂が桂馬に絡んでいたのか。どうして事あるごとにPFPを没収していたのか。
「だって、他の女の子と仲良くしているからだよ」
桂馬に正体が明かせなかったが故の、密やかな嫉妬心。二階堂はゲーム女子に嫉妬をしていたのだ。桂馬を愛するが故に、自分の授業を聞かない、自分を見てくれない桂馬に、彼女は憤りを感じていたのだろう。PFPを没収したのも、彼女なりのスキンシップだったのかも知れない。だが、ゲーム女子には嫉妬するのに、どうして相棒だったリュミエルとの一件は笑うだけだったのだろうか? 始終、リュミエルのペースだったこともあるが、自分に近しい存在が桂馬と親密な交流を結んだともなれば、少なからず感情的になっても良さそうなものだが。
二階堂は去って行く。教師を辞め学校から、そして桂馬の前からも。新地獄と人間界が守られたとき、二階堂の役目は終わったのだ。桂馬は瞬間的に引き留めるが、二階堂は待たなかった。振り返ると二階堂ではなく、ドクロウに戻ってしまうから。しかし、それでも、彼女は桂馬への想いを隠しきれない。最後の最後、彼女は教師の二階堂ではなく、桂馬の妹だったドクロウとして、その笑顔を見せたのだった。

「ありがと…お兄ちゃん」

……二階堂ことドクロウの話は、過去編、ユピテル編の総まとめとも言えるだろう。彼女がこの先どうするかは分からないが、新地獄に居場所があるかはなんとも言えない。半身だった室長のドクロウは処刑されたし、ハクア辺りが名誉回復に奔走してくれる可能性もなくはないが、それでも室長と二階堂は別人で、彼女は既に人間だ。
長年相棒を務めていたと思われるリュミエルなら、新地獄での地位も相成って身元を引き受けてくれるだろうが、おそらく二階堂は身の振り方は自分で選ぶだろう。その結果、リュミエルの元に行くのか、新たな道を探すのかは分からないが、彼女には彼女の、次の人生が待っているはずだから。

宿主達のその後。桂馬から振られた形になる宿主達はそれぞれが複雑な心境を抱いていた。特に月夜はそれが顕著で、図書室で栞に対して様々な不満を言っている。

「もう最悪!! 最悪中の最悪なのですわ!!」

「あんなこと突然言われても!! こっちは何が起こったのかすらわからないのに!!」


月夜の台詞から察するに、桂馬は帰還と同時にちひろのことを打ち明け、本命の女子が、好きな子がいることを告げたらしい。天理以外の攻略女子は訳も分からぬままに白鳥家に集められ、何が起こっているのかも把握できないままに桂馬の帰還作業に従事した経緯がある。
だが、あのとき白鳥家に集まったのは間違いなく桂馬のために全てを犠牲にできる少女たちだった。それは、結の言った「桂馬くんのためなら命も惜しくない」という台詞に、月夜が同意していることからも分かるだろう。栞だけは何度もすっぽかしを食らった後だったから、そこまであっさりとは決められなかったかもしれないが、最終的な意味では彼女の意志も同じだったに違いない。
これは前述したことだが、月夜と栞の共通点はちひろのことを知らないことだ。後に出てくる歩美や結と、彼女たちの違いはそこだろう。それ故に、桂馬が自分の気持を告げたときは少なからず、いや、大いにショックだったと思う。
特に月夜は以前、栞に対してこのように語っていた。

「桂馬との想い出は…大切な想い出なのですね」

「だから知りたいのですね。桂馬のことをもっと…」


月夜は自分が出会い、恋した桂馬が本当の彼自身でないことに薄々気付いていた。だからこそ、彼女は本当の桂馬を知ろうとしていた。何故なら、月夜は桂馬が好きだから。愛しているから。そして、栞にとってもそれは同じことだ。ベクトルや視点は少なからず違うが、栞も自分の身に降りかかった出来事に対して関心を持ち、その全容を調べたいと考えていた。栞自身は様々な事情から桂馬に好感を抱けないでいたのだが、彼女が調べるにあたって桂馬の協力や、彼との交流は不可欠だっただろう。
しかし、桂馬は月夜と栞にそうした時間を与えなかった。月夜がもっと桂馬のことを知りたいと思った矢先、彼との想い出を大切なものだと栞に打ち明けた直後、桂馬は二人を他の宿主と一緒に突き放し、その機会を奪ってしまった。月夜は少なからず感情に左右される一面があるので、そのショックは計り知れないものがあっただろう。
不思議なのは、そうした桂馬の決断にルナが、ウルカヌスが激怒しなかったことだ。言ってしまえば、桂馬は月夜の想いを踏み躙り、彼女を傷付けたことになる。正義の女神であるウルカヌスは、時として月夜の意思以上に桂馬に対して辛辣で苛烈な行動を取る。天罰を下したって、おかしくはなかったはずだ。
しかし、月夜は桂馬のことを非難しているが、立ち直れないほどショックを受けているようには見られない。これは月夜がある程度この結果を予期していたからかも知れないが、それと同時に友人となった栞の存在が大きいだろう。高校で友達らしい友達のいなかった月夜にとって、栞はルナ以外で初めて出来た友人に等しい。栞という桂馬に対する愚痴を言える相手がいるからこそ、月夜の感情はある程度の部分で抑制されているのだ。
もっとも、桂馬がそこまで計算していたとは考えにくい。何故なら、彼は月夜と栞が友人関係になったことなど知らないし、これは結果的にたまたま結びついた出来事にすぎない。ふとした偶然が、脆く崩れそうな月夜のことを支えることになったと言えよう。
一方の栞はどうだろうか? 外面似菩薩内心如夜叉とは言わないが、栞は外面の内向性に比べると、内面での感情爆発が目立つ少女だ。そして人との交流が少なく、本で読んだことをそのまま自分の感性に反映させてしまうから、性格的には桂馬に似ているとも言われ、どこか単純な一面があった。栞は桂馬に散々すっぽかされたことを怒っていたが、彼女が怒る理由は実にシンプルで、それは女神篇における月夜と同じものがある。つまり、桂馬が栞の前に姿を現さなかったからだ。
宿主達はおそらく全員、桂馬が初恋の相手だったはずだ。桂馬が初恋の相手であり、ファーストキスの相手だった。そして、個別攻略と女神篇における再攻略を経験した栞の下した結論は酷く単純なものだった。自分は桂馬と二度キスをした。それなら自分たちは、一般的に考えて彼氏彼女の関係だろうと。
栞は自分のこうした考えが誤解であるとは思っていなかったはずだし、桂馬自身、攻略という名目で栞に迫った事実がある。ましてや、栞の女神であるミネルヴァは、月夜の女神であるウルカヌスと同じく、宿主に事情を説明していない。だから、栞の考えはある意味で正しく、また、ある意味では完全に外れてしまっているのだ。そして、彼女は月夜と出会うことで真実の一端に触れることとなる。
乙女の純情や純真を汚した桂馬を、栞がどのように考えているのかは分からない。やはり、彼とのことは悪夢だったと思っているのかもしれないし、案外、それほど気にしていないのかもしれない。だが、月見に誘う月夜の声も届かないほどに、栞は真実の探求へと躍起になっていた。要するに、自棄っぱちという訳だ。
栞の探求がどこまで真実に近づくか、たどり着けるのかは分からない。ミネルヴァと、そして月夜を通じてウルカヌスの知己も得るだろうことを考えると、それほど難しくはないのかもしれない。調べたからといってどうなることではないと思うが、あるいは栞はこの出来事を本に書くかもしれないし、あるいは天界や女神のことはこれから先も続いていくのかもしれない。
月夜と栞。この二人の結末は境遇や事情と違い、それなりに明るいものだろう。特に月夜はルナ以外の、ウルカヌス以外の友人を得た事実がとても大きいように思う。現に、月夜は図書室にルナを帯同させていない。栞と二人きりの時間を楽しんでいるようにも見える。幸いにも二人は学年が同じだから、少なくとも高校卒業までは交流を続けることができるし、趣味や性格的な観点からも、そう簡単に離れるようなことはないだろう。これは後述する天理との最大の違いであり、月夜と栞が一連の出来事を経て手に入れた、一つの結果なのだ。

歩美と結については、実のところあまり書くことがない。
この二人に関しては結末と結果が明快であり、先のことも非常に分かりやすく見通すことが出来るからだ。結は桂馬の告白をあっさりとした形で認め、受け入れている。彼女はショックを受けたというよりは、むしろ驚いたといった感じで、桂馬に本命がいたという事実に意外さを覚えたのだろう。
歩美もまた桂馬の告白を、ちひろに対する気持ちを受け入れていた。歩美の発言や、僅かに描かれた帰還時の一コマから察するに、やはり桂馬は帰還した途端にちひろのことを言い出したことが分かる。その際、桂馬は細かい説明を行ったようだが、それが何時間にも渡る説得なのか、ちひろに対する思いの丈を語ったのか、その詳細は明らかにされていない。だが、歩美はいつものあいつのペースといい、騙されそうになったとも言っていることから、どこか落とし神としての部分を残しつつの、口八丁だったのではないだろうか。
本当に桂馬のことを好きになってしまった歩美からすれば、この結末は決して満足がいくものではない、不快感が残るものとなっただろう。なにせ彼女の場合は両親の前で結婚の約束というか、結婚することを告げてしまったわけで、実際に挙式まであげてしまっている。しかも、桂馬は一度ちひろを振った上で歩美に告白してきたのであり、またちひろの元へ行くのかという憤りを感じてもおかしくはないはずだ。
現に歩美は桂馬に対する不信感を原因に、宿主達と協力することを避け、天理に対する嫉妬心を抱いていた。戻ってきたら一発殴る、もしくは蹴りつけるみたいなことを言っていた気もするし、ここでまたちひろが好きだなどと言われれば、怒りで爆発してもおかしくない。
けれど、歩美はそうならなかった。結があくまで前向きに、桂馬のことを諦めないと宣言しているのに対し、歩美はギブアップすると、戦線離脱を表明している。
「相手が悪いよ……」
歩美の言う相手とはちひろのことであり、彼女には恐らく分かってしまったのだろう。桂馬の気持ちが本物であることを。そして、歩美はちひろの中にあった桂馬への気持ちが本当の恋であることも、知っていたのだから。
ちひろとは幼馴染だから応援に回る。普通だったらとても出来そうにもないことを、歩美は呟くように言うが、これは少なからず納得が出来る話だ。桂馬が天理に宛てた手紙の中にあった歩美評、歩美はとにかくいい奴で、友達が困っていたら何百キロでも走って駆けつける、めちゃくちゃ優しい奴だという解説に、ぴったりと嵌るからだ。歩美にとってちひろは幼馴染であり親友だし、彼女がこのように考え、自身の初恋を諦めることは決して不思議な話ではない。ちひろと桂馬を取り合うことなど、歩美にはまず出来なかっただろう。
結の一連の出来事に対する感想は非常にさっぱりしていて、「だってこんなすごい恋、もう二度とないかもしれないじゃないか!!」という言葉は、彼女の中の明確な変化を表しているとともに、一つの可能性も提示している。結は続けて「僕はまだ桂馬くんを諦めてないよ」と言うわけだが、決して自分の新しい恋を否定はしていない。桂馬との間にあった凄い恋は二度とないかもしれないけど、それは逆に、それ以外の恋があるかも知れないことを示唆しているわけだ。
であるからこそ、歩美と結の今後はある程度の部分で見通すことが出来る。桂馬とちひろを応援することに決めた歩美と、桂馬を諦めないとしつつも、新しい恋に出会うかもしれない結。この二人の長所は互いに前を向き、前に進み続けることだから、小さな躓きはあるかも知れないけど、大きく転ぶことはもうないのだろう。心の隙間も、埋まっているのだから。

シーンは移り変わり、再びPFPの入ったダンボールを抱える桂馬に戻る。よく壊されていたとはいえ、桂馬にとっては大切なものだから粗雑には扱えない。
しぶしぶと重たさを我慢しながら帰路に着こうとする桂馬の前に、ちひろが姿を見せた。何故、ちひろがここに現れたのか、どうして桂馬の居場所を知っていたのかは分からない。二階堂が最後にサービス精神を発揮したのかもしれないし、もっと別の理由があるのかもしれない。でも、それは読者にとっても桂馬にとっても、些細なことに過ぎない。
ちひろは桂馬を前にして、視線を外したままであるが、それでも彼に言葉をかけた。

「ま…なんつーか…」

「茶でも…いかん?」


ちひろは頬を赤く染めており、そんなちひろを見る桂馬の頬も朱色に染まっていた。
この時の桂馬は酷く純朴な表情をしており、まるで恋する少年のようだった。桂馬のちひろに対する気持ちは、二階堂の指摘通り嘘偽りない本気だった。桂馬がちひろの誘いになんて応えたのかは分からない。彼は口を開くことなく、台詞を発することなく出番を終えのだから。
神のみぞ知るセカイの、桂木桂馬の物語はここで終わりを迎えた。彼が今後、ちひろとどのような関係を築けたのか。やはり、振られるのかもしれないし、付き合ったとして上手くいかなかったということもあるはずだ。何一つ思い通りにならない理不尽さ。しかし、それが桂馬の選んだリアルなのだ。
ちひろの反応からして、彼女が桂馬に脈をもたせているのは明白だろう。二人は両思いに近いから、将来的にくっつくことは想像に難しくない。
だからこそ、桂木桂馬という主人公は、この物語の幕引きに相応しくない、神のみぞ知るセカイを締めくくれない存在になってしまった。
ここで終わっていれば、桂馬とちひろは結ばれて、幸せになりましたという如何にもなエンディングになる。桂馬の耳にはエンディングテーマが聴こえていたことだろう。
だが、それはあくまで、彼個人の物語が終わったに過ぎなかった。

最後の一人が、物語の導き手の話が、まだ残っているから。

鮎川天理。神のみぞ知るセカイという物語の扉を開けた、一人の少女の話が。


随分と前置きが長くなってしまいましたが、此処から先は天理について書きます。彼女の話を、神のみぞ知るセカイという作品の、本当の結末を。
桂馬の物語が終わりを告げた直後、場面は海辺へと、あかね丸近くの浜辺へと移ります。そこでは天理が、鮎川天理が自身に宿る女神ディアナに対して独白していました。

「桂馬くんは…ずっとあの子のところへ帰りたかったんだよ…」

「わかってたんだ…桂馬くんが、全部手紙に書いてくれたから」


手紙が風で舞い上がる。天理と桂馬の10年を繋いだ、絆の証が飛んでいく。
そして、そこに書かれていた、天理が最後まで秘密にした文章。

――天理、最後に確認しておく。

――ぼくとお前とのエンディングはない。


それは決定的な一文だった。冷淡で酷薄で、残酷すぎる現実と結末。
天理は10年前のあの日から、エンディングのないルートをずっと歩き続けていた。

この手紙が、何通目なのかは明らかにされていません。1通目ということはないだろうけど、2通目か、それとも3通目か。私は天理が思い出した桂馬の姿から、2通目に書かれていたのではないか、と思います。
天理が最後に思い浮かべた桂馬の姿は、10年前の過去にあった子供のものだった。

――ボクらは全てが終わったら、別々のルートを歩いて行くんだ。

その桂馬が天理に対して、すべてが終わったとき、自分たちは別の道を歩くと明言しているのです。そして、手紙に書かれていた確認事項という冷たい言葉。これが3通目に書かれているのであれば、桂馬は天理の10年にも渡る想いを、単なる確認事項として処理したことになります。それはあまりにも非情であり、冷酷過ぎます。ましてや3通目は桂馬と再会した後に読むように言われているものです。桂馬と10年ぶりに再会し、キスしたことで幸せの絶頂となり、気絶したほどの天理に、こんな手紙を読ませるでしょうか? 10年ルートを歩いてきて、やっと再会したらエンディングがないだなんて。
そう考えると、3通目よりは2通目の方が、これからルートを歩き始める天理に向けた言葉として考えるほうが、どことなく自然な気がします。現に、ロミオとジュリエットの舞台上でも、桂馬は何度か天理の意思確認をしていますからね。ただ、小学生天理に読ませることを考えると漢字で書かれていることが気になりますが……上記の通り3通目だと桂馬の品性を疑わざるを得ないので私は2通目だと思いたい。
故に桂馬が行ったのは、10年前、天理の中に芽生えたであろう恋心を摘み取ろうとしたわけであり、10年越しの想いを踏みにじったのではないのだと思います。いずれにせよ、6歳の少女にする仕打ちとしてはあんまりですが、桂馬にはそれしか方法がなかったのでしょう。扉を開ける役は天理にしか任せられないし、かといって彼は天理の気持ちに応えることは出来ない。彼女とのエンディングを用意することは不可能だった。
だって桂馬は、あの子のことが好きだったんだから。

「それでも、少し夢見てたんだ…」

「もしかしたら、違う結末だって…あるかもしれないって……」


ショボくれる天理の姿は、なんとも言えない悲哀を感じさせます。
天理は結末が分かっていた。分かっていたからこそ、消極的にならざるを得なかった。天理が欲を見せて、桂馬との関係を変えてしまうと、未来が繋がらなくなってしまうから。ディアナは天理の消極性を不自然だと言いました。好きな人と10年ぶりに再会し、隣に住んでいるのにどうしてもっと話したいとか、もっと会いたいと思わないのかと。天理だって、指摘されるまでもなく分かっていたことでしょう。彼女自身、そうしたいと思ったことはあったはずです。
でも、天理にはそれが出来なかった。未来を繋ぐため、世界を救うためには、天理は自分の役目を果たさねばならなかったから。
更に言えば、天理は桂馬の内心や心情を見通すことが出来る人物です。それは今も、そして10年前も変わりません。天理は手紙に書いてあったからといいますが、それ以上に、分かっていたんだと思います。桂馬が本当は何を望み、誰が好きなのかを。
だから天理には、桂馬のそうした本気の気持ちを奪ったり、壊したりすることは出来なかった。天理は桂馬が好きだから、愛しているから、彼の幸せを否定することなど出来るわけがなかったのだ。

10年の想いが風と共に舞い散る中、天理に宿る女神、ディアナが声を掛けます。
エンディングのないルートを歩いてきた天理にとって、この10年は決して得るものが多かったとはいえません。しかし、残るものは確かにあったのです。ディアナという、10年の苦楽を共にした、姉妹以上の一番の友達が、天理にはまだ残っていました。

「天理は間違っていませんよ」

「私たちは決められた結末のために生きているのではありません…!!」

「桂木さんも天理も…いえ…みんなが…考え、悩み、まだ見ぬ道を歩んでいくのです」

「天理が幸せにたどりつくまで、私はいつまでも天理のそばにいますよ」


ディアナの言葉に、天理は顔を上げました。その瞳には大粒の涙が、天理が初めて見せた、後悔や未練が溜まっていました。

「天理!! ほら!」

「空を見上げましょう!!」

「私たちには未来があるのです!!」


天理が空を見上げ、ディアナが励ましの言葉を掛けたとき、エルシィもまた自宅前で空を見上げていました。台詞はありませんが、その表情は笑っていて、笑顔のエルシィ、そして、天理とディアナが見上げた空を描きながら、神のみぞ知るセカイは完結を迎えたのです。

私は最後のエルシィはおまけ程度と考えているので、神のみぞ知るセカイという作品を象徴する上では、天理とディアナが幕引きを担ったと考えています。ディアナの台詞で終わるのは少なからず意外でしたが、彼女が天理に対して放った言葉は、慰めではなく励ましであり、天理を未来に導こうとするものでした。
天理はこの10年、エンディングのないルートをひたすら歩き続けていました。そして結末へとたどり着いたとき、彼女の前には何も残されていないかのように見えた。でも、ディアナはそれを否定した。天理には、私たちには未来があるのだと。
正直な話、天理にディアナがいてくれて本当に良かったと思う瞬間でした。前述のとおり、桂馬が10年越しの想い人なら、ディアナは10年来の友達です。そんな彼女が、天理が幸せにたどり着くその日まで、ずっと傍にいてくれると、支えてくれると約束してくれたのです。今の天理には、これ以上の結末はなかったでしょう。最終回であるが故に、天理にはちひろと違ってフォローや救済がありません。たとえ将来的に天理が幸せになるのだとしても、それが描かれ、読者の目に触れることはもうないのでしょう。
でも、それでも天理には未来がある。ディアナとともに歩き続ける未来が、一緒に見上げることのできる空が、残されているのです。

では、ここで少し話を戻し、何故神のみぞ知るセカイという物語の幕を引いたのが天理なのか、その理由を考えてみましょう。どうして桂馬とちひろや、他の宿主ではなかったのか? 一見すると、桂馬とちひろのパートと、天理とディアナのシーンは入れ替えても通用するような気がします。主人公が幕を引かないなんて、と思う人もいるかもしれません。
しかし、前述のとおり私は桂馬が作品の幕引きをするのはふさわしくないと思っているし、それは他の宿主に対しても同じで、天理だけが、天理とディアナだけにその資格があったのだと考えています。

一つの例えとして、銀河英雄伝説という小説作品を引き合いに出します。この作品の主人公は大きく分けて3人おり、ヤン・ウェンリーとラインハルト・フォン・ローエングラム、そしてヤンの死後、彼の後を継ぐ被保護者のユリアン・ミンツになります。銀英伝という物語は軍人皇帝ラインハルトが死去することで終わりますが、その幕引きを担当したのは意外にも残された主人公のユリアンではなく、ラインハルトの部下として活躍した、ウォルフガング・ミッターマイヤーでした。
どうしてユリアンではなくミッターマイヤーだったのか、そう問われたとき、作者である田中芳樹はこんな風に答えました。

「ユリアン・ミンツという人の未来は、ある程度固まっているからだ」

確かに作中でのユリアンは、カリンという少女と結ばれ、養父であるヤンの跡を継ぎ、軍人の後に歴史家になるという夢を語っています。そして、幾つかの記述からその将来像が現実化したことも分かっているのです。逆にミッターマイヤーは、皇帝ラインハルトを失ったことから、不確定な未来を抱えている存在であり、先行きが不透明というのもありました。
しかし、彼の下には親友から託された愛息子がおり、その息子が空を見上げ、星を掴もうとするのです。先はまだ分からないけど、未来がある。ミッターマイヤーがそれを確信しながら、銀英伝の物語は終わりを迎えます。

同じように、神のみぞ知るセカイにおいても、天理とディアナ以外のキャラクターはある程度の未来像、今後の予定や目標のようなものに見通しが立っているのです。役目を終えたドクロウは別にしても、栞は真実の探求に力を注ぐでしょうし、月夜はそんな友人を手助けするはずです。結は桂馬を諦めないとしつつも新しい道を探し、歩美はちひろを応援することに決めた。台詞のなかったかのんもまた、新曲である「歩いていくもん」という歌のタイトル通り、アイドルとして歩くことをやめないはず。そして、主人公の桂馬にはちひろとの未来が存在している。
ほとんどの登場人物が、ある程度完成された未来像を有しているのに対し、天理だけが、それを持ちあわせてはいなかったのです。10年にも渡るルートを歩き切って、天理は自分が何をすればいいか分からなかったでしょう。手紙という形で明確に否定された天理には、結と違って桂馬を諦めないという選択肢がありません。
故に彼女には展望となる未来が存在せず、また一から始めて行く必要があった。桂馬がちひろという、エルシィが妹という一種のゴールであるエンディングを迎えたのに対し、天理は今まさに、またスタート地点へと立ちました。その事実こそが、天理とディアナに、神のみぞ知るセカイのラストを飾らせた、幕引きを行わせた要因なのだと、私はそう思います。

長くなったので、この感想は2回に分けます。次は主に考察になります。
その2にお進み下さい。

感想その2→URL:http://mlwhlw.diarynote.jp/201404230121171653/

コメント