エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカシュ監督、オマール・シー主演の映画「サンバ」を観てきた。かの名作、「最強のふたり」でタッグを組んだ3人の新作ということだが、私はこの映画が公開されることを朝のラジオで知った。金曜日だけ番組をやっている映画好きの政治ジャーナリストが、新作紹介のコーナーで語っていたので、これは見に行かねばならないと思ったのである。
本来なら元旦に川崎で観る予定だったのだが、都合がつかなくて仕事始めの帰り、有楽町のTOHOシネマズシャンテで観ることになった。シネコンでないミニシアターは久しぶりだが、なかなかどうした、雰囲気のある場所だった。

私は「最強のふたり」という作品が好きだ。本国フランスでの公開は2011年、日本での公開は2012年の9月であるから、既に公開から2年半以上経っているが、あの劇場で観た際の鮮烈さは今でもハッキリと覚えている。私がアメリカ以外の洋画に食指を伸ばす切欠になった作品でもあり、フランス映画は勿論、インド映画なども見始めたのは、最強のふたりの影響が強い。
それまでの私にとって、フランス映画は学生時代に観たヌーヴェルヴァーグの印象が強く、具体的な作品名は避けるが、精神的で芸術的、陰気なアート系といったイメージが拭えなかった。無論、純粋な娯楽作品も多数存在するはずだし、そういったものが日本で公開されてないとも限らないが、私はそういった作品があることを知らなかったし、その偏見は未だに残っていたりもする。
しかし、如何にお国柄や国民性があると言っても、人間が作る以上、そこには個性の差があり、作風の違いがある。話は少し変わるが、インド映画だからといって全てが歌って踊るわけではなく、私が昨年鑑賞した「めぐり逢わせのお弁当」という作品は、歌はあっても踊りはなく、孤独感や切なさを全面に出した映画だった。要は、作り手と演者によって幾らでも多様なものを生み出すことが出来るし、作り出すことが出来るのだ。
そして、話は最強のふたりに戻るわけだが、この映画は私がそれまで抱いていたフランス映画への偏見や先入観をいい意味で打ち砕いてくれた作品だ。確か、シネコンのサイト経由で公式サイトに行ったのが最初だったと思うが、予告編を見て痺れた。これは私が今まで観てきた、知っていたフランス映画とは違うものだと、ひと目で気付かせてくれたのだから。

最強のふたりとて単純な話ではなく、娯楽作品と捉えるにはテーマが重く、人によっては芸術性の高い作品だと評するかもしれない。個々人の感想や感慨は人それぞれとしか言い様がないものの、私はあの映画を娯楽作品としても十二分に評価出来るものと考えている。予告編を観たときのワクワクと興奮、「生きることへの活力」が、映画本編にありありと現れていたからだ。故にあの映画は楽しくて面白く、そして感動が出来るのだろう。
そういったことを踏まえた上で、やっと「サンバ」について書こうと思うのだが……私はこの映画を観るにあたって、当然ながら公式サイトをチェックしたし、予告編についても観た。しかし、それ以前に前述のラジオにおける紹介が私の頭には強く残っており、それによるとこの映画はフランスにおける移民問題と燃え尽き症候群を扱った作品だ、ということだ。前者はフランスにおけるお国の問題という奴だが、では、後者はなにか?
朝方の忙しい時間帯に聞いていたので正確ではないかもしれないが、エリック・トレダノかオリヴィエ・ナカシュ、あるいはその両監督は最強のふたりを世に送り出して以降、まさに燃え尽き症候群だったというのだ。最強のふたりは国内でもセザール賞に多数ノミネートし、主演男優賞ではオマール・シーが受賞、国外でも日本アカデミー賞をはじめ、多数の賞にノミネートしては、受賞してきた。名作や傑作という評価は、極めて正しいものであり、監督たちの名声は頂点に達したことは疑いようもない。
だが、名作や傑作というのは現役の作家や創作者にとって必ずしもいいことばかりではない。これが遺作なら最後の最後に素晴らしい物を作ったと、安心して眠りにつくことが出来るのだろうが、現役で作品作りを続ける者にとっては、自分の作品そのものが大きなハードルとなって聳え立ち、同時に重い足枷となってしまう。最強のふたりを超える作品を作ることは出来るのか? これ以上の作品は自分の中にあるのか? なまじ最強のふたりが文字通りの最強だっただけに、その苦労や葛藤は想像に難くない。むしろ、当然のことと言えるだろう。

数日前、映画.comに掲載されたニュース記事だが、ジム・キャリーが「最強のふたり」米リメイク版出演を辞退していたというものがある。
ジム・キャリーはゴールデングローブ賞の受賞経験もある俳優で、受賞作でもあるトゥルーマン・ショーの主演が世間的には有名だろうか? そんな彼が、最強のふたりのリメイク版出演を辞退した理由として、記事の中でこんなことが書かれている。
URL:http://eiga.com/news/20150102/2/
オファーされた役柄は明らかにしなかったが、キャリーは「『最強のふたり』は完璧な作品だから、僕が出演することで、ダメにしたくなかったんだ」と説明した。
この説明が作品に参加したくないことに対する体のいい言い訳か、あるいは本心なのかは定かで無いが、作品を持ち上げた上で自分を謙遜している様は謙虚だし、作品ファンとしても好感が持てる。
アメリカのリメイク版がどうなるのかは分からないし、富豪役での出演が決まっているコリン・ファースの演技にも興味はあるが、それはともかくとしても、ジム・キャリーの発言は単なる出演辞退の説明以上に重たいものがあるだろう。
最強のふたりは完璧な作品なのだ。対外的に見ても、役者が出演を辞退してしまう程に原典が完成されていて、リメイク版が越えなければいけないハードルは、既に山ほどの高さになっているはずだ。それだけに役者たちも名作の出演には慎重になる。元がいいだけに、場合によっては自分のキャリアに傷が付いてしまうからだ。
だが、こういった事情は何もリメイク版に携わる者達にだけある訳じゃない。前述のように原典を作った監督自身が、最強のふたりという作品に囚われ、あるいは全てを出し切って、燃え尽き症候群になっていたのだ。主演のオマール・シーはどうだったのか、それも気になるところだが、名作や傑作を作り出した創作者たちにとって、こうした躓きや、先に勧めないことに対する閉塞感は珍しくないのかもしれない。

故に私は、この「サンバ」という映画を、最初から監督のリハビリ作品として捉えていた。最強のふたりで全てを出し切った男たちがもう一度集まり、なにか新しい映画を撮ってみようと、そんな感じだったのだろう。そこには斬新さや、核心的なものなどあるはずはないが、最強のふたりで燃え尽きたと知っていれば、何ら不思議はない話なのだ。
しかし、映画を売る側としてはそうも言っていられない。興行収入を稼がないといけないし、そのためには宣伝をしていかなければいけない。前評判を良くする意味でも、配給元や広報としては最強のふたりの再来であることをアピールするのは当然の選択だったのだろう。事実、この映画が最強のふたりの監督によるものであり、主演もまたオマール・シーであることに変わりはないのだから。
公開中の作品だから深いネタバレは避けることにするが、映画としては全体的に暗く、シリアスな内容だ。移民問題や燃え尽き症候群を扱っているのだから当たり前だが、時折クスリとしてしまう小ネタを除けば、作品自体は深刻なテーマに適度な軽さを加えつつ、重苦しく仕上げていると言える。
予告編だけ観れば、オマール・シー演じる主人公のサンバが、そのハチャメチャな性格で移民問題に対して果敢なアタックを行い、そのダンスのサンバの如き情熱で燃え尽き症候群のヒロインがもう一度燃え上がる……! みたいな内容を想像しがちだが、ハッキリ言ってそんなことはない。うっかりでビザの更新を忘れた、などと公式サイトや劇場、映画紹介サイトのあらすじには書かれているが、そんなコメディタッチな言い回しが通用するほど甘い話ではなく、最強の笑顔で人助け!? などと書かれてもいるが、実際のところサンバの暮らしぶりは笑顔で人を助けるほど余裕があるものではなく、もっと言えばキツいものがあった。ヒロインに対してはそうであったかもしれないが、サンバはとにかく余裕のないキャラクターなのだ。国外退去を迫られ、日々の暮らしすらままならず、しかし、それでも国の家族に仕送りをしなくてはいけないなど、精神的にはかなり追い詰められた、重いものを背負った主人公と言える。

最強のふたりは障害者と介護をテーマに扱った作品で、ノンフィクション、つまり実話を元にしているから、こちらはこちらで軽い話であるはずもないのだが、オマール・シーが演じた主人公のドリスは、スラム街の出身でありながらも陽気で明るかったし、同じく主人公で、フランソワ・クリュゼが演じたフィリップは障害者だが、知的な教養人だった。
そしてこれは重要な事だと思うが、最強のふたりのフィリップは大富豪であり、障害によるハンディキャップはあるものの、食うに困るほどの困窮とは無縁で、不便はあってもそれが直接的な危機には結びつかない。フィリップにすれば堪ったものではないかもしれないが、彼は大富豪だからこその余裕があった。
そして、そんな大富豪のお屋敷で介護人をやることになったドリスもまた、日々の暮らしには余裕が生まれる。それまで失業保険で食い繋いできた男が、いきなりお屋敷住まいだ。仕事は大変だが部屋は広いし、食事も料理人が作った結構いいものが食べられる。ドリスにあてがわれた部屋が、スラム街にある彼の実家よりも広いのではないかと思ってしまう程には、良い暮らしをしているのだ。
しかも、話の舞台はフィリップの邸宅と、彼が行き来する金持ちの社交場がメインだ。それは華やかな世界であり、時折スラム街とあくせく働く人々との対比もあるが、そこまで深刻なものとして映らないのが実情だろう。何せ、スラム街出身であるはずのドリスは、意外と簡単にフィリップの世界に順応し、溶け込んで、教養人としての彼から学び、自身を成長させていくのだから。
金持ち故の余裕というものは、主人公の片割れが金持ちである以上、どうしても生まれてしまうものだ。たとえば、2007年にアメリカで公開された「最高の人生の見つけ方」という映画は、余命6ヶ月を宣告された二人の男が死ぬ前にやり残したことを行うため、世界へ旅立ち冒険を始める、という話だが、これだって二人の内の一人、ジャック・ニコルソンが演じたエドワードが事業家として成功していた、金持ちだったから出来たことだ。
話を最強のふたりに戻すが、つまるところ最強のふたりという作品は、全体的に綺麗かつ華やかなのだ。金持ちの華やかな世界に、粗野で無学者の、スラム街出身のゴロツキが混ざったからこそ生まれるコメディであり、感動ストーリーだった。しかし、それはドリスというゴロツキを受け入れる側に、それを出来るだけの余裕があったからこそ、成立したのだとも言える。

サンバは最強のふたりで観せた華やかなフランスとは全く違う、陰気でジメっとしたフランス社会を描いた映画だ。主人公のサンバは移民者として迫害され、日雇いの仕事すら満足に付けないこともあるなど、過酷な状況に身を置かれている。これもまたフランスという国の実情であり、花の都パリの現実なのだ。しかし、それだけに、最強のふたりのような映画を観たいと思って劇場に出かけた人は、その薄暗い話にショックを受けるのかもしれない。移民問題という日本人には馴染みのないテーマも、受け入れがたいものがあるだろう。
映画として考えたとき、サンバは決してつまらない作品ではない。いくつかのテーマとお国の事情に対して、映画という媒体で真剣に取り組んだ結果の一つだろうと、そう受け止めることができるからだ。けれど、それが娯楽作品の映画として楽しいのか、面白いのか? と聞かれたとき、私は首を横に振るだろう。決して楽しいものではないし、面白くもないだろうと。そういうネタを扱っていないのだから、それは仕方のないことだ。
最強のふたりという名作の後に撮られたリハビリ的映画。そう考えれば、「まあ、こんなものだろう」という気もするし、最初からそういう考えでいけば、満足はしないかもしれないが、不満も少ないのが私の感想といったところか。

ただ、このサンバという映画に対して最強のふたりみたいな映画じゃなかったからつまらない、という人がいるのだとしたら、それは映画会社の宣伝を真に受けすぎというか、馬鹿正直に受け止めすぎていると言わざるをえない。名作や傑作はそう簡単に生まれるものではないし、たとえ天才であっても、連続してそれを成し遂げることは至難の業だろう。最強のふたりのような作品が観たいのであれば、最強のふたりをもう一度観ればいいのであって、それを求めてサンバを観に行くのだとすれば、その人もまた、名作に囚われている人ということになってしまう。
監督と主演が同じであるのだから期待しない方が無理だとも思うが、この映画は決して陽気で明るい作品ではなかった。燃え尽きたり、先に進めなくなった人たちがもがき苦しみ、それでも前に進もうと試みた、そんな映画なのだから。

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