今年はライトノベルに驚かされることが多い。一時期、月刊で150冊は出ていると言われたライトノベルだが、私はこのところあまり買ってないし、読んでいるのも継続して購入しているシリーズか、贔屓の作家が出す新作ぐらいだ。最初にMF文庫のサイトを覗いたとき、私が知りたかったのは僕は友達が少ないの最終巻に関する情報だったし、別に新刊を漁るのが目的ではなかった。故に、私がこの作品と出会ったのは全くの偶然か、はたまた何かの運命がもたらした必然だったのだろう。先程読み終えたばかりだが、感想を書かずにはいられない、久しぶりにそんな心境になったのだから。

前述の通り、私がコミケ明けからしばらくして、ふと、MF文庫のサイトを開いたのははがないの最終巻が遂に出る、という話を耳にしたからだ。はがないに関してはこの日記の本題と関係ないので割愛するが、MF文庫の新刊案内ページというのは、他のレーベルと違って至ってシンプルな掲載順だった。普通なら話題作や人気シリーズなどを優先して目立つ場所に配置しそうなものだが、MF文庫はそうではない。何と、作品名の五十音順なのだ。
たとえば今月の新刊には、何度も書いているがはがないの最終巻や、アニメの二期も発表された緋弾のアリアの最新刊などが刊行されているわけだが、両作品とも作品名の頭文字がは行であることから、掲載位置はかなり下、というか、下から二番目と三番目だ。別にそのこと自体は珍しいと感じただけで、それ以上でもないのだけど、そういった掲載順だからこそ、この作品が目に止まったのかと思うと、少し感じ入るところがありまして。
だって、この作品ってあ行じゃないですか。つまり、余程のことがない限り先頭に掲載されるんですよ。ページ開いて、真っ先に飛び込んでくる作品って、やっぱり印象に残りますよ。

勿論、私の目に止まったのは掲載順が最初だったからでもなくて、表紙のイラストが高野音彦さんだったから、というのもあります。この方は古くからライトノベルでイラストを描かれている方で、有名どころでは電撃文庫のリバーズ・エンドや、桜庭一樹の推定少女、あまり知られてはいませんが、米澤穂信の古典部シリーズ、2巻目に当たる愚者のエンドロール、これの雑誌掲載時のイラストや初版刊行時のカバーなども担当されてるんですよね。
今はすっかりカバーも差し替えられてしまったので、高野版カバーは幻になっていますが、私からすれば、00年代におけるラノベブームの黎明期を代表するイラストレータ一人なんだと思います。
近年はイラストの活動をそれほどされてなくて、本人も久しぶりにラノベの挿絵を担当したとブログ等で書かれてましたが、それだけに珍しく、私の心がひかれたのだと思います。元より高野さんが描かれるイラストは好きでしたが、所謂黎明期から10年以上経った今でも、その色褪せることない魅力に心奪われたのかも知れません。
これだけ書くと、なんだ、イラストが好きで買っただけかと思われそうですが、確かに作品のことを知る切欠と、入口になったのは認めます。ですが、それと同等に作品のあらすじに興味を抱いたのも事実だったりします。そこにSFの香りを感じ取ったから、とでも言いますか……
前置きが長くなりましたが、そろそろ作品の話に入りましょうか。毎回、前置きが長くて全然本題に入らない私ですが、今回は発売したばかりの作品ながら、やや踏み込んだ話を、ネタバレに近い感想という奴を書きます。ここまで読んで、是非作品を購入したいと考えているそこの貴方、そんな人がいるのかは分かりませんが、ここから先は自己の判断で読んで下さい。

上記の通り、この「明日、今日の君に逢えなくても」という作品は、大分類ではSFに位置する物語だと私は考えます。勿論、作者の意図しているジャンルは分かりませんし、MF文庫での紹介は青春群像劇と、ありがちな、あるいは当たり障りのない表現になっています。
ですが、青春群像劇という言葉、もしくは表現は、作品を語る上で、この上ないものだと、読了後の私は思うのです。
本作は、という解離性同一障害、所謂、多重人格をモチーフとした架空の病気が物語のキーとなっています。何故、世間的にも有名な多重人格ではなく、わざわざ架空の病気を設定したのかは、勿論、それがデリケートなことだからと言うのもあるのでしょうが、結論的な理由はあとがきに記されてました。まあ、これは書かなくても良いでしょう。
シノニムという病気の説明は、MF文庫のサイトで無料公開されている立ち読み、つまり、作品の冒頭部分で詳しく解説されていますが、ここで簡単に紹介すると、勝手に治る多重人格です。お医者様による治療法がないだけで死ぬような病ではないし、ある特定の条件が揃えば別人格は消えてしまう、そんな設定。多重人格ほど深刻な理由で発症するわけではなく、その元となった傷、または心残りや悔やみのようなものが解消されれば、主人格はシノニムの人格を必要とせず、必要となくなった人格はいなくなってしまうと、まあ、そういうことです。
物語のヒロインは、このシノニムを患っており、しかも、とある事情からすぐ治るはずの病が完治せず、長期にわたって複数人格を維持しているという状態。ヒロインが多重人格という作品は、それほど数があるとは思えませんが、前例がないこともなく、やや例えとするにはライトすぎる気もしますが、ケロロ軍曹の西澤桃華などが有名でしょうか? 彼女の場合、表と裏、どちらの人格も主人公である冬樹くんのことが好きで、奪い合いなどはせず、時には協力し合って恋路を進んでいます。これがラブコメなら、あるいは複数の人格同士が主人公を奪い合って……なんて展開があるのかも知れませんが、この「明日、今日の君に逢えなくても」の凄いところは、そのどちらにも該当しないことなのです。

「明日、今日の君に逢えなくても」には3人のヒロインが登場します。藍里、茜、蘭香という少女達ですが、ヒロインはイコールで別人格となるため、人間の個体としては1人になります。
それぞれの少女を簡単に紹介すると、藍里は少しあどけなさを残した、可憐な少女らしい少女。茜はスポーティで陸上に打ち込む元気っ子、蘭香はクールで、軽音楽部に所属するロック志向と、まさに三者三様の人格を持っており、作中ではこのいずれかが主人格とされるも、彼女たち自身、記憶を失っているため、誰が主人格か分からない。結果としてシノニムが長引いている……ということらしい。
そんな少女達に対する主人公は、と言えば、ここがこの作品において、私が感心した箇所になるのですが、主人公もまた一人ではないのです。主人公も多重人格なのかと言えばそうではなくて、各ヒロイン(人格)に対する主人公が違うという、これまた珍しい設定なのです。
たとえば、ロックンロールな蘭香編における主人公は、軽音楽部の先輩、男子生徒のであり、弾丸少女の茜編では、幼馴染みの少女瑞希が主人公となります。各編の主人公達は、ヒロインを相手に恋や友情の物語を展開していくわけですが、ごく一般的なラノベにおいて、複数のヒロインに対する主人公は大体一人です。
主人公に対するヒロインが複数人いる、ある種のハーレム展開がラノベの常であって、別のキャラとくっつくような娘がいれば、それはヒロインではなくサブキャラになります。勿論、例外は幾らでもあるのでしょうが、そう数は多くないと思います。
ある種の決まり事、あるいはヒロインの法則を無視したかのような話作りは、しかし、読んでみるとごく自然に受け入れることが出来、複数人格の一つでしかない少女達が、確かに生きて、そして、それぞれの日常があることを読者に教えてくれました。登場するキャラも、語り部も、全てを代えることによって、同じ身体を持つ少女達の、個性や独立性を強調した。これは正直、そんな方法があったのかと、目から鱗が落ちました。

しかも、各編の主人公は自分が相対するヒロインに対しての興味のみが強くて、たとえば悠は蘭香のことは好きだけど、茜や藍里には恋愛感情を抱いていないし、瑞希は幼馴染みだから藍里や蘭香のことを知らないわけじゃないけど、まず第一に親友と考えているのは茜だったりと、人格と肉体をキッチリ区別しているんですね。だから、他のヒロインの物語に深く関わってくることはないし、あくまで1対1の物語が描かれています。
シノニムは治る病気ですから、それぞれのヒロインが物語を進めていく過程で、多重人格の彼女たちは消えゆく運命にあります。そんな儚い命とも言うべきヒロインと向き合い、どのような答えを出していくのか? 主人格は一体誰なのか?
物語はやがて、残された主人格と最後の主人公に委ねられるわけですが、
話の展開としては非常に分かりやすい、読書量の多い人なら容易に想像が付くものだと思います。実在の多重人格者、ビリー・ミリガンと、彼に定義されたスポットをシノニムのモデルにしているという時点で、私も話のオチ自体は見えていました。もっと言えば、あらすじの段階で勘づいた部分もあった。
物語の構成としても、1冊で複数人ヒロインの話、その全てを書かなければいけない都合上、少なからず駆け足に感じる部分はあったし、終盤のイベントなども唐突な気がしたけど、それがまったく、不快でもなければ不満にもならないというぐらいには、読み応えのある内容だった。
淡々と、そして静かな物語進行を考えれば、むしろこれぐらいが丁度良い速さなのだと、そんな気がするんだよね。飛び飛びのように感じる話運びも、過程よりも結末を、少女の最後の煌めきを優先した、とでも言うのだろうか。
イラストに関しても見事で、この作品には、所謂挿絵が存在しません。カバーと口絵はありますけど、一般的なラノベにある挿絵……ヒロインのセクシーショットだったり、主人公の見せ場みたいのを描いたイラストが一切なくて、代わりに各章ごとの表紙となる扉絵があるのです。同じ手法を使っているもので、イリヤの空がありますけど、間に視覚的な補助の役割を果たす挿絵を挟まないというのは、正に文章で勝負してる感じが伝わってきて、非常に好感が持てる。
勿論、イラストレーターとイラストの存在をないがしろにしているのではなく、作品世界を鮮やかにする、美しい色彩として、高野乙彦の静かなイラストは、非常にマッチしてるんですよね。これ以上にない、適材適所とも言える起用だったと思います。

物語の最終的な結末は、敢えて結論を語っていないけど、それすらも書く必要性を感じない、書いてしまえば、それこそ蛇足になるだろうと思います。物語の終わりとは、未来や将来に関する決定ではなく、希望や展望といった含みを持たせた方が良いのだと、私は考えるから。
最近のラノベは娯楽性の強い、文章力や技術力、あるいは構成力などとはかけ離れた、あるいはそれらを必要としない、文字通りのラノベが主流となりつつあります。以前、高名なラノベ作家が「最近のラノベは小難しすぎる」とぼやいていたことがありますけど、今のラノベはそういう次元ですらなくて、そもそも読み物なのか? と感じることが、最近の私に多かったのも事実です。
具体的な作品名は避けますが、そういった流れに対する抵抗感や、意地のようなものが、私からラノベを遠ざけていたのだけど、2015年になって、単発モノではありますが、まだまだ読ませる作品は、良い読書が出来る作品はラノベからも着実に生まれているんだということを実感できて、なんだか今は幸せな気持ち。

しかし、単発作品だからメディアミックスなどの展開はないだろうけど、このままふらっと刊行された一冊で終わるのはなんとも勿体ないですね。ラノベはただでさえ冊数が多いですから、脚光を浴びることが出来なかった名作、傑作の類いがどれほどあるのか私には検討も付きませんが、「明日、今日の君に逢えなくても」に関していえば、今の時代によく出せたと感じざるを得ない良作だと思うし、新刊案内の先頭に載せて、周知させるべき作品だったのでしょう。五十音順とはいえ、これもまた一つの運命なのですよ。多分、きっと。
このまま埋もれるのかは分かりませんけど、仮に何かしらの展開があるなら、私は映像作品よりも音声媒体の方が良いと思う。たとえば、青春アドベンチャーとかのラジオドラマで、ちょっと長めの15回~20回ぐらいにすれば、上手くまとまるんじゃないかって。まあ、私がラジオドラマ好きなのもあるけど。
ちなみに私の中でヒロインの脳内CVは、どうでもいい話ですが、某くすはら又は彼女とそっくりな声の人になってました。あの人なら、見事に複数人格を演じ分けられる気がする。いや、本当にどうでもいいことですが。

ところで、ビリー・ミリガンの本を執筆したダニエル・キイスが昨年亡くなったのは知ってたけど、まさか、ビリー・ミリガン本人も昨年末にこの世を去っていたとは……あとがき読んで、初めてその事実に触れました。いや、ビックリした。

コメント