ねんどろいどぷちというものに興味がないから通常版を買おうと思ってたんですけど、アニメ系のショップはどこも限定版しか置いてないんですよね。店舗特典は山田がメインのとらのあなを買うつもりが、地震による物流の遅延から入荷がされてなかった。秋葉原はもう置いてあるというのに、相変わらず横浜店は遅いですね。どうも私はとらのあなと相性が悪いらしく、なにかと問題ばかり起こっているんですけど、その割に良い特典を付けてきたりするから困りものです。まあ、今回はそれほど執着するほどのものでもなかったから、敢えてなにも付かないメロンブックスで買っておきました。

しかしまあ、9巻は本当につまらなかったね。4コマであるから、一つ一つのネタで笑えることは笑えるんだけど、全体を通してみるとビックリするぐらい面白くなかった。私は元々、WORKINGはWeb版から入った人で、それも初期のほうから読んでいるので色々と馴染みも深いほうなんだけど、最近のWeb版と同じ理由で今回のYG版9巻はダメダメだったと思う。だって、話の中心が恋愛話ばっかりなんだもの。
まあ、恋愛話が好きか嫌いかというのは個々人の趣味にもよると思うけど、単純なカップリング要素ならまだしも、本格的な恋愛模様になってくると、作品に対する重みが全然違うんですよ。Web版における足立と村主、そして進藤と鎌倉さんの流れに多少のしつこさがあったように、基本的にWORKINGという作品は恋愛を全面に持ってくるのには適していないんですよ。まるで、恋愛が主題のようになってしまっていますけど、それはあくまで副産物というか、おまけ要素でしかない。おまけはおまけだから楽しいのであって、メインとして何度も見せられるとさすがに飽きるし、作品が持つ持ち味が損なわれてしまう。
これが最初から恋愛漫画なら構わないのでしょうが、そうではないのだから偏りが発生する。なんて言うか、悪い意味でアニメに引っ張られてしまった感があるよね。キャラクターの性格とかもそうだけど、アニメ化したことでそっちに合わせる感じに作風が変化しつつあるんだろうか? 商法として、アニメ化によって生まれたアニメファンを原作に引き込むため、原作の内容をアニメ寄りにするというのはそれほど珍しくない話です。作者が自ら主導する場合もあれば、編集部の意向でそうする場合もある。高津カリノは編集者の言うことは大抵聞くと言い切ってる人ですから、そっち方面の影響があったのかも知れませんね。

例えば、相馬のキャラクターとかは完全にアニメ寄りとなっていました。彼は元々あんな風に騒がしいキャラではなかったのに、9巻を読むと今にも神谷ボイスが聴こえてきそうなほど、テンションの高いキャラクターに変貌していた。まあ、恋愛を主題とした場合、彼のようなキャラクターには他キャラを囃し立てる程度の役目しかないのかも知れないけど、それにしたって山田や種島さんでさえ活躍どころがあったというのに……新キャラもそうだけど、そういうのに埋もれないように努力した結果、ただテンションの高いだけになってしまった感がある。立ち位置も曖昧だし、佐藤は不本意だろうけど佐藤の友人程度にしかいる意味がなくなっている。毒気がないんだよね、今の相馬には。
4コマ漫画というのは本来明確なテーマなどを作る必要がなくて、ネタさえあれば延々と続けていくことの出来るジャンルです。だからこそ、新聞4コマは何十年と続けることができるし、サザエさん時空などと呼ばれるように、その気になれば時間の経過すら描く必要がなかったりする。逆に敢えて月日を進めることで卒業という明確なラストまで持って行き、作品を完結させたあずまんが大王なんてのもありますけど、あれは4コマでも珍しいタイプですからね。勿論、キャラごとのドラマは必要なんでしょが、それにしたって作品全体を揺るがすようなものはあまり必要なんです。
けど、これがアニメ化すると事情が変わってくる。いくら今のアニメが2期の放送を主眼においた1クール13話製作と言っても、売れなければ2期に繋げられないわけで、1期は1期でラストないしエンディングがいるわけです。そうしてくると、明確な主題やテーマが存在しない4コマに対して、それらを付け加えなければいけなくなってくる。そして、WORKINGの場合は原作におけるおまけ要素だった恋愛を持ってくることにしたと、まあ、そういうわけなんでしょう。

スケッチブックがここに来てアニメの影響から脱却を図っているのに比べると、WORKINGは真逆の道を歩んでいるということになりますかね。まあ、スケブはアニメの放送が終了して随分経つし、ついこの前までアニメがやっていたWORKINGとは状況が違うんでしょうけど、今の恋愛一辺倒な流れは正直どうかと思う。単純に面白く無いというのは、あるいは私のネタに対する好みが反映されているだけなのかも知れないけど、他に方向転換のしようもないから、当分はこの流れが続くのかな。アニメの2期も決まったみたいですし。
東日本大震災以降、私はテレビを観ることが比較的多くなったように思える。テレビと言っても観ているのはCSを除けばNHKだけだが、私に限らずあの日からテレビのニュースを見るようになった人は多いはずだ。特に首都圏は原発問題や計画停電、それに伴う鉄道のダイヤ乱れなど、現在進行形で災害という名の爪に抉られている最中だ。テレビのニュースを観るという行為は、もっとも単純な形で情報を得る手段であることから、別に間違ったことではないと思う。テレビで流れていることのすべてが真実とは限らないにせよ、それはどんな媒体にしても同じことだから。

私がNHKしか観ていないのは情報量が多いことと、常にニュースばかり放送しているイメージがあるからでしょうか? 実際はそうでもないんでしょうけど、日中は家にいないから、返って来る既にニュースの時間になってますしね。まあ、CMがないってのも煩わしさを感じない上で大きな利点ではあるし、ネットで話題になっているACのCMを私は最近まで見たことがなくて、それこそラジオで音だけ聴いたという感じでした。ネット人というのはおかしなもので、民放の報道の仕方などを批判するくせして、誰よりも民放を見ているような気がします。大体、見ているからこそ批判も出来るのであって、見もしないでなにか言うのは、ただの言い掛かりですからね。件のACのCMがしつこすぎるという話も、私みたいに民放を観ていなかった人間にはイマイチ実感の沸かない話でしたし。
会社に泊まったときに感じたけど、一つのチャンネルをずっと観つづけることなんて人には無理なんですよ。絶対に飽きるし、気分を変えたくなってくる。私の場合はCSでそれを満たしているから構わないけど、そういうのがない人は地上波から選局するしかありませんからね。以前の日記にも書いたとおり、私は別に国営放送だからどうだとか、民間放送だからなんだとか、そういうことは関係ないと思っている。物にはそれぞれの色合いや風向きというものがあって、どれもが同じにして、均等であることなどありえないのだから、多少の違いぐらいはあったほうがいいんですよ。情報の流し方も、その解釈も、この非常時にこういう表現が正しいのかは分からないけど、みんな同じだとつまらないし、消耗品でもないものが複数あっても意味なんてないでしょう? まあ、それは個人の感じ方にもよると思うけど、私はそんな風に考えています。

今まで私にとって、災害というものはどこか縁遠い話だった。震災というもので記憶にあるのは阪神大震災だけど、あれは西日本で起きたことだし、あの震災が起きたことで私の生活のなにかが変わったわけでもなかったから、私にとってはどこか現実味のない、テレビの中の出来事のように感じられた。随分、淡白だと自分でも思うけど、それは新潟中越地震のときもそうであったし、人間なんてものは自分やその周囲でなにかが起こらない限り、事実というものを簡単には認識できないものなのだ。今回の震災はその点が違い、私は帰宅困難者として会社に泊まることとなり、今現在も計画停電という制限を課せられななかで暮らしている。電車の本数は減って混雑は以前の数倍となり、行きの電車で疲れ果て、会社の業務で悲鳴も枯れ、帰りの電車でトドメを刺されるといった日々をこのところ送っている。それは仕方のないことであるし、首都圏に住む人であれば誰もが似たようなものなのだと思うけど、こうして自分の生活や暮らしに影響が出始めたことで、私は災害や震災というものを明確に認識するに至ったんだと思う。それこそ、これが初めてと言っていいほどに。
私は出版社の街である神田近辺で仕事をしており、神田がある千代田区は他にも政府関係の建物が多い政治の中枢であることから、ここだけは計画停電の範囲に含まれることはまずないだろうと言われています。そういった意味では、私はまだマシな環境にいるのかも知れないし、停電中は帰宅か待機を命じられているような知り合いに比べれば、時間通りに業務をできるだけありがたい話なのでしょう。しかし、震災の影響は確実に仕事も蝕んでいく。事実は忘れたり隠したりすることはできるけど、逃げることだけは絶対に出来ないから。

出版業界が地震で受けた被害は酷いです。本社が壊滅したり、流通倉庫が使いものにならなかったりと、そういった意味での被害もさることながら、本を出すことの意義のようなものが、地震と共に崩れ去ってしまった。だって、今は皆本なんて読まないでしょう? 本を読む暇があったら、テレビのニュースを観るのが当たり前となりつつある中で、本なんか出しても売れるわけがないと、そういうことです。出版社がそんなことを言ったらお終いだろうと思われるかも知れないけど、世の中には市場ほど正直なものはありませんからね。結局、自粛や規制ってのは不謹慎やそぐわないという以前に、それほど人から望まれていないということを、自粛や規制する側がよく認識しているから起こるんじゃないかな。まあ、事情はそれぞれ違うんだろうけど、今はどこも似たようなものです。
三連休の真ん中ということで、久しぶりにまとまった休みを得られた気がする。地震の翌日は土曜日であり休みだったけど、あの日は家に帰るまでに半日過ぎちゃったし、次の日の日曜日は恩師の新居に出かけてましたからね。なかなかどうした、心も体も休まる暇がなかった。なにせ恩師の家には遊びに出かけたというよりは、引っ越し後放置されていた本の山を片付ける手伝いに行ったのであって、ほとんど肉体労働である。まあ、自分から進んで手伝ったのでそれはいいのだけど、思えばあの日が一番平和だったな。嵐の前の静けさとは、また違うんだろうけど。

恩師の新居といっても、新築というわけではないただの引越しで、何故か都内近郊にある山の側に居を構えていた。若い頃は山登りも趣味だったとか行ってたから、まあ、その名残もあるのだろう。横浜からだと訪ねるのもそれほど時間は掛からなかったし、都心への交通も不便というほどではないから、意外と住みやすいのかも知れない。のどかなところだしね。
私は前述の通り、引越の荷物を片付ける手伝いに赴いたわけだけど、SF畑においてかなり有名人である恩師は書籍収集家としても相当なもので、要するに本の入ったダンボールが放置されているから、それに整理に駆り出されたということだ。引越しの際に6000冊は処分したと聞いていたから、少しは減ったのかと思ったが、未だに5万冊以上は残っているとのことだったので、目に見える形ではなんの変化もなかった。まったく、この世界にいる人間の救われないところは、延々と本を買い続けることだろう。既に恩師は本だけに数千万、あるいは億単位つぎ込んでいると言うが、それでもまだ極めてはいないのだ。何故なら本は今日も、そして明日も出版され続けるのだから。
しかし、5万冊という割にはやけにダンボールの数が少ない。ハードカバーや画集などの大型本もあるのだし、百数箱で収まるはずはないのだ。なにか大事なものが、そう、ライトノベル関係がまったくないことに私は気付いた。恩師は世代的には珍しいことにラノベにも造詣が深く、選考委員等をしていたこともあるからラノベの蔵書も果てしないほどだったのに。気になった私はそれに付いて訪ねてみると、半ば予想していた答えが返って来た。
「家に入りきらなかったから、ラノベ用にワンルーム借りて押しこんである」
この趣味の人間にはありがちな話だが、書庫として一部屋借りてあるとのことだ。まあ、新居のほうが片付いたら、次はそっちのものを運び入れるのだろう。まったく、我が師ながら見上げたものである。

いつか恩師が、なにかの趣味に没頭し続けるというのは、他のことをすべては言わないが、限りなく犠牲にすることだと言っていた。本以外にはペットの猫と犬ぐらいしかいないような家で、本とそれにまつわる仕事をし続けてきた恩師は、私などではとても真似できない高みにいる人だ。真似など、模倣など出来るものではない。恩師は十代の頃から業界で仕事をしていたし、その経歴の厚さは私などとは比べものにならない。生まれ育った時代が違うのだといえばそれまでなのかも知れないけど、一つのことにあそこまで打ち込んできた人間というのは、それだけでいつまでも輝いてみるというものだ。
とはいえ、一つのことだけに熱中したことに対する代償もあった。若い頃ならいざ知れず、歳をとれば体力や行動力は落ちていき、本当の意味で他のことが出来なくなる。つまり、メインとしての趣味はともかくとして、サブ的な意味合いのあるものにまで手が出しづらくなるのだ。それはオタク以外の趣味、例えば山登りだとか釣りだとか、そういうのでもいいし、もっと酷くなればオタク趣味の中でさえ、取るものと捨てるものを選ばなければいけない日が来る。結局の話、アニメ鑑賞やゲームプレイ、そして読書といったものはすべて別々の趣味であって、深く没頭するにはどれもを両立させることなどで気はしないのだ。オタク的なものとして一括りにされがちなこれらであるが、それぞれが違うものであることは明白であり、広く浅くという考えでもない限りは、いつかどこかで破綻してしまう。だからこそ、一つを選ばずにはいられなかったのだろう。

まあ、中には稀有な人物もいて、それらを見事に両立させている人もいるにはいるのだが、これが出来るのはよっぽど要領がいいか、もしくはかなりいい加減に生きている奴だけだ。適当な人間ほど上手くやるというのは、なにもこの世界に限った話ではないのかも知れないが、私はおそらくどちらも無理だろうな。要領は悪いし、適当に生きていると思い込もうとして、それが出来ないでいる半端者なんだから。私にもいずれ来るのだろうか、選ぶ日というものが。そしてそのとき、私は一体どんな選択をするのだろう? 多分、これはそう遠い未来ではないと思うから。
久しぶりの更新なので、なにを書いていいのかよく分からないのですが、とりあえず生きてます。まあ、先週の地震からこっち本当に色々なことがあって、日記を更新するどころか日常生活を営むことすら難しい状態にあったんですが、仕事の方も落ち着きを取り戻し始めたし、なにより生存を確認するメールまで来たので、そろそろ書いてみようかなと。私自身は横浜住まいなので地震による被害らしい被害は受けなかったんですが、職場は都内なので帰宅難民にはなりました。だって、都内を走る在来線が全部運休なんだもの。

地震が起きたとき、私は自分のデスクにいて、古い海外SFのペーパーバックを並べながら仕事をしていたんですが、最初は立っていた記憶があります。すると隣席の編集者が座って地震を体感してみたらどうかと言い、そのとき始めて地震が起きているらしいことを知りました。言われたとおりに一旦座ると、確かになにやら揺れている感覚がある。今の職場に居候を始めてから数年になるけど、地震に遭遇したことは片手以上はあるし、殊更珍しいことではなかった。それ故の油断が私の心の中にあったのか、すぐに訪れた強すぎる揺れには本当に動揺した。それがいつも体感するものと明らかに違うことにはすぐ気付いたし、いくらビルの高いフロアにいるからといって本棚もガタガタと揺れ動くような地震は常識外れもいいとこだった。
家庭で地震に遭遇したとき、その家に住む人間はどうするだろうか? 火を付けているならそれを消すだろうし、あるいは咄嗟に表へと飛び出すかも知れない。けれど、あるいは10人に1人、いや、5人に1人ぐらいの割合で倒れやすい家具を押さえるという行動に出る者がいるはずだ。タンスでも食器棚でも、背の高い家具はなにかと倒れやすい。それが危険な行為であると分かっていても、いざ倒れると事だからだ。そして、私の職場の編集部でも同じ行動に移った人がいた。もっともこの場合、押さえるのは家具ではなくて本棚であるが。一般的な出版社、それも編集部ともなれば設置されている本棚も大きい物が多く、その中には数百冊、いや、一千冊は超えるであろう書籍がギッシリと入っている。大半は自社の文庫本やハードカバーであるが、ハッキリ言うとそんなものを人一人で押さえこむなどというのは不可能だ。出来るわけがない。
そして、私の後ろには本棚があった。本が満杯に詰まって、その上にも置かれているような大きな大きな本棚が。

私は逃げた。作業中の書籍も、パソコンも、自分の荷物も手に取ることはなく。この時点ではまだ、単なる身の危険を感じたに過ぎなかったのかも知れない。いつもよりも強い地震だから、念のためその場を離れただけだったのだろう。しかし、揺れは一向に収まらないどころか強さを増していき、ふと隣を見ると、私の斜め前に座っている編集者が自分のデスクの下に隠れているのが見えた。そう、身を隠すほどの危機感を覚えていたのだ。
しかし、編集部の中にはまだ必死で本棚を押さえようとしている人が多数いた。私の隣席に座っている編集者もその一人で、けれど一人ではどうしたって無理がある。このとき、私の頭には一瞬でも戻って手伝うという発想が生まれてこなかった。足が、身体が、それを拒否したのだ。戻ってはいけない、今戻るのだけはダメだと、本能がそう訴えていたのだろうか? 編集部にいる部長の一人が、本棚の近くは危ない、離れたほうがいいと叫んだ。既に本棚からは何冊か本がこぼれ落ちており、本棚そのものもグラグラと揺れている。特に壁へ打ち付けてあるわけでもないないから、倒れるときは本当に倒れるのだ。一人、また一人と本棚から人が離れていく。そして、私の隣席に座っていた編集者が本棚から離れた、まさに3秒後のことだった。編集部にある本棚の半分が、地震の衝撃によって倒れた。
もし、編集者たちが部長の声に従わず、従う意志があったとしても行動が3秒遅れていたら、彼らは本棚の下敷きになっていただろう。一千冊近い本が詰まった鉄枠の塊に、文字通り押し潰されていた。私自身、手を貸すために戻っていれば、今頃こうして日記など書いていられなかったかも知れない。本棚が倒れ、デスクの上のものがばら蒔かれ、編集部は本の海とかした。そこかしこに散らばった本は、通路すらも塞ぐほど溢れかえっていた。あぁ、こんなにも本があったんだなと、私はそんな感慨に浸りかけた。でも、現実にはそんな余裕は一欠片だってなかったのだ。
「逃げましょう、外に出たほうがいい」
私の、おそらく誰に対してというより、職場の全員に向けて言ったであろう呟きに、頷かないものはいなかった。本棚が倒れ、本がぶちまけられたことで、これが普通じゃない事態であることを、その場にいたすべての人が認識していたのだから。

ビルの壁面に設置してある非常階段は、また強い揺れが来たら外れるかも知れないからと、ビルの中にある階段を使って1階まで降りた。勿論、それじゃあ非常階段の意味が無いじゃないかと思うし、何人かはそっちで降りていたようだが、表に出てみるとそこには沢山の人がいた。同じ会社の人間もいれば、隣のビルからも人が出てきており、皆一様に建物の中から避難してきたのだ。考えることは皆同じ、それ以外の選択肢はないかのように。そのときの私は手ぶらだった。編集部の人間が大なり小なり、いや、この表現が正しいのかも分からないが、とにかく身の回りのもの、コートやカバンなどを持ってきていた中、私だけはなにも着ず、なにも持たず、それこそ携帯と財布ぐらいしか持っていないという状態だったのだ。逃げるにしても、荷物を取るぐらいの時間はあった。だから周りの人間は持っているのだし、私にだってその時間は平等に与えられていた。けれど、状況と状態がそれを許さなかった。私の荷物は、なにもかもが本棚の下に埋まっていた。
それからというもの、携帯は繋がらず、何回余震があったのかも分からないほど事態は切迫していた。うちの編集部というか出版社は持ちビルに入居しているのだが、その中には喫茶店が存在し、そこにはテレビがあった。携帯のネットも繋がらい状態で、テレビの存在というのは非常に価値があるものだ。私はビルの中に戻る気がしなかったが、既に何人かの人はテレビを見に行っており、今回の地震がM8.8と過去に類を見ない大きさであるものが分かってきた。単に数字だけならば、私に実感がわくことはなかったのかも知れない。しかし、現実として編集部は壊滅し、私はビルの外に避難している。その事実が私に大事が、震災と呼べるだけの大地震が起きたのだと、否応なく知らしめたのだ。
編集部のあるフロアには、全部で3回ほど戻った。最初は私を含めた数人が戻り、状態を確認するために。改めて見ると酷いもので、本棚の直撃を受けて床に叩きつけられたパソコンがあったり、私のデスク周りなどもはや本棚と本に埋まって、そこになにがあるのかさえも分からなかった。荷物はどこに消えたのか、開きっぱなしだったノートパソコンは無事なのか? 作業中だったペーパーバックは、それが詰まったダンボールはどうなった? どうにも出来ない状況の中で、私の中に不安だけが渦巻いていた。だけど、それを解消する手段は、今の私にも、いや、その場にいた誰にもなかった。

またビルの外に出て、これはもう仕事にならないから解散になるのではないかという話が出た。解散となれば帰るしかないわけだが、さすがに手ぶらで帰るわけには行かない。財布と携帯はあるから電車に乗れないことはないのだが、丁度次の日は土曜日で休みだったし、カバンに入り用の私物も多い。私は編集部の人に頼んで一緒にフロアへ戻ってもらい、なんとかコートとカバンだけでも回収できないかと思った。どこにあるのかも分からないものを探す、それは余震も続く中で無謀な行為だったが、私はなんとかやり遂げた。私のデスクの正面、比較的被害が少ないところの下から潜り込んで、暗い中を手探りで探すこと数分。覚えのある感触が、私の手の平に触れた。
あった、コートと、それにカバンが見つかった。自分でも探し出すことは無理じゃないかと思っていただけに、救出したときはたまらなく嬉しかった。元より持ち物に対する愛着が強い方であるから、奇妙な安心感が生まれたのだろう。マフラーも見つけることが出来て、では改めて脱出するかと思った、そのときだった。ふと、自分が先ほどまで座ってい仕事をしていた椅子が目に入った。荷物はその下に埋まっていたのだから、目線としては自然に上がっただけに過ぎないが、そこになにかが落ちて、いや、乗っかっている。クッションの上にあるそれは、書籍カバーの掛かった文庫本であり、私は手に取れる位置にあったその本を、掴んだ。
私の口からこぼれたのは、苦笑ではなかったと思う。しかし、なんとも言えない笑がこぼれたのは確かだった。私は手にした新約 とある魔術の禁書目録をカバンにしまうと、壊滅した編集部を後にした。まだ腕時計やハンカチといったものが見つかっていなかったが、これだけでも回収でれば十分だった。
外に出ること3回目、いよいよ解散が現実味となってきた。しかし、私は電車などの交通機関が気がかりだった。未だ携帯は繋がりにくい状態であったが、iPhoneなどの所謂スマートフォンは回線が違うためか繋がるらしく、Twitter等で情報を入手していた人が、どうやらJRは本日分の在来線を終日運休にするようだという話を聞きつけてきた。JRだけではない、地下鉄や私鉄も現在止まっている状態だし、そうなると帰れないということだった。この時点で、私はひとつの選択を迫られた。すなわち、歩いて帰るか、それとも会社に残るかということだった。それは私の人生に置いて、始めて現れた選択肢だったのだ。

やがて会社の重役がビルの外へと出てきた。重役たちは丁度編集部よりも上のフロアにある会議室で会議中だったらしく、降りてこないからあるいはまだ会議をしているのかと思ったが、実は屋上へと避難していたらしい。災害時に屋上へ逃げることが正しいのかは分からないが、とにもかくにも落ち着いたから姿を見せたのだろう。屋上から階段で下まで降りてくるのは疲れたのではないかと思ったけど、そんな些細なことを考えている場合でもなかった。そう、重役が出てきたのは大本営発表をするためだった。即ち、この事態に対して社としてどのように対応し、指示を出すかということ。
上の判断は賢明だった。現在の状況を鑑みて、特に編集部は業務を続けることは不可能であると判断し、本日の仕事そのものは終了とする。しかし、電車が動いていない現状から帰宅は困難とみなし、確実に徒歩で帰れる者以外は会社残るようにと。このビルは大丈夫だから、という言葉をどこまで信じきれるかは、正直私にも分からなかったが、こんなときに居残ることの出来る場所があるというだけでも、他よりは多少マシだったのだと思う。
しかし、会社に残ると言っても繰り返すようだが編集部は壊滅しており、発表後に戻って多少は片付けたものの、それでも人がいられるような空間ではなかった。私も自分のデスク周りの物をどかして、なんとかノートパソコンと外付けHDDの発掘には成功したが、それ以上のことは無理だった。月曜日に出てきたときに片付けるしかないといい、とりあえずフロアの鍵を閉めることとなった。本しかないとはいえ、火事場泥棒の類が現れないとも限らないからだ。
このときになって、編集部の中で歩いて帰る人間と、それ以外の人間で分かれた。まあ、家庭持ちも少なくないし、家や家族が心配だという人も多いのだろう。災害の本によると職場から自宅が徒歩で20キロ圏内なら帰ることもできるが、それ以上は所謂帰宅困難者というものに該当し、30キロともなれば徒歩での帰宅はほぼ不可能だ。勿論、1日という単位で計算した場合の話であって、例えば2日間に分けたりすれば十分可能な話ではあるが、この場合はその日中に帰れるかどうかが問題になってくる。そして、私の家は東京を起点とした災害MAPにも載っていないような、徒歩40キロ以上の場所にあった。歩くか残るか、その選択肢は私の前に現れたようで、実は存在しなかったのだ。

本音を言えば、私は家に帰りたくなかったのかも知れない。実はこのとき私は家族と、特に姉との折り合いが非常に悪かったため、家庭内でとても息が詰まる思いをしていたのだ。これに関しては割と近い日記に書いてあることだから知っている人も多いだろうが、私が地震後すぐに家族へ連絡をしなかったのも、通信の混雑でそれが出来ない以上に、必死になるだけの積極さが私の中になかったんだと思う。あるいは怪我でもしているかも知れないし、もっと酷いことになっているかも知れないというのに、薄情な話だろう。私自身、それは理解していたけど、そんな状態にあっても気分が乗らなかったのだ。家族と話すという、その行為が。
結局、私が最初に自分から連絡をとったのは家族ではなかった。それに付いてはまた次の機会に書こうかと思うが、私は家族の方から連絡が来るまで、自分から電話を掛けることはしなかった。薄情というよりは非情なのかも知れないが、そんな状況にあっても行動を起こさないほど、私は冷めていたんだと思う。家族というものに対して。母親はともかく、姉から連絡が来たときは驚いた。あの人とはまったく口を聞かない日々が続いていたので、まさかあちらから連絡をして来るとは考えても見なかったのだ。電話がかかってきたことに私は戸惑い、そして次の瞬間には着信を拒否していた。話すことなどなにもない、そう思っていたのかも知れないし、あるいは話したくなかったのかも知れない。しかし、それは人としてあんまりだし、もしかすれば表示はあの人でも、かけてきたのは違う人間かも知れないと思い直して、私は自分から電話をかけ直した。一度目は失敗して、二度目で繋がった。そして、私の予想は見事に外れていた。その事実に対して私がどう思ったのかは、ここで書くことではないだろう。ただ、あの人と話す私に一切の感情がこもっていなかったのは、紛れもない事実だ。
JR東日本から正式に発表があり、在来線の終日運休が決まった。私はそれもいいと思った。会社に泊まるという始めての行為に、多少なりとも魅力を感じていたのだろうか? それはそれで震災を楽しんでいるようで最低な話だが、少なくとも帰れないことで自暴自棄になるようなことはなかった。会社という居場所がある時点で、私はマシな方だったのだし。

会社の1階、ロビーと言うには小さすぎる受付前の小スペースに陣取って私は夜を明かすことにしたが、途中で喫茶店のほうが閉店時間にさしかかり、そこを社員へ解放するという話になった。椅子は硬いがテレビはあるし、狭苦しいスペースにいるよりはいいのではないかと、私と他に残っていた帰宅困難者な社員が喫茶店へと入った。テレビは最初NHKが付いていたけど、流れていた津波の映像は私の想像をはるかに超えるものだった。以前にスマトラ沖地震が起きた際、大津波の映像というのを見たことがあるが、それに近い、いや、それ以上のものを感じていた。日本という国でこんな災害が起きるのか、違う、起きてしまったのかという事実は、私に衝撃以上の混乱を与えた。まるで実感のわかない、なにかが麻痺してしまったかのような感覚。同じチャンネルばかりではと、途中何度か民放へとチャンネルを変えたが、そちらのほうが映像的には凄いものばかりだった。ここで気付いたというか、わかったことなのだが、全国放送であるNHKはパニックなどを起こさないように過激な映像は控え目にしており、逆に民放は衝撃的なシーンなど、視聴者の目を引くものを積極的に流していたのだ。別にどちらが正しくて、片方が間違っているなどと言うつもりはないが、その違いがなんだか新鮮であり、不思議だった。
夜が近くなって私は食料を買いに街へと出た。飲食店は開いているところもあったが、さすがに外食という気分ではなかった。早仕舞いをしているところも多い中で、私はファーストフード店を選んだ。こんなときでも営業していることに驚いたが、会社にはクロネコヤマトの宅急便が配送と集荷に訪れていたし、やっているところはやっているのだろう。適当にバーガー類を買って、会社に戻って食べる。飲み物はカバンに水筒があったが、それで一晩過ごすのは心許ないと、食事が終わってしばらくした後にコンビニへと足を向けた。既に水や食料品の大半は棚から消えており、空っぽになった棚に苦笑を覚えないでもなかったが、飲料水という区切りではその限りでなかったので、スポーツドリンクの比較的大きいペットボトルを一つ買って、後はそれを片手にひたすら朝になるのを待った。

朝になって、気持ちは地震よりも鉄道の復旧状態に傾くようになった。深夜から明け方にかけていくつかの路線は復活し、後はJRを待つだけという状態になり、幾人かの人は既に帰宅を始めていた。私も地下鉄と私鉄を使えば帰れないこともなかったのだが、どうせ混んでいるだろうし、少し落ち着いてからと考えていた。けれど、街は閑散としており、朝食も満足に取れない状態であったから、あまり長居をするのもどうであろうかと、そんな風に考え直した。そんなわけで、私はJRが再開してから1時間ほど時間を置いて、帰宅の途に付いた。会社にはまだ数人の人が残っていたので、挨拶を済ませると東京駅へ向かった。東海道線は乗れる状態ではなかったので京浜東北線へ。だが、これもまた寿司詰め以上の混みっぷりであり、しかも、そんな状態で品川駅に途中停車というありま様だった。
耐えかねた私は電車を降りると、京急線ならどうだろうかと京急へと向かってみることにした。乗り換えのシャッターは下ろされていたので、一旦外へ出て京急の改札口に直接足を運ぶ。すごい行列であったが、私は流されるように歩いていると、いつの間にか改札を抜けてしまった。どうやら、列が複数に乱れて混ざってしまい、そこから弾きだされるように私は飛び出してしまったらしい。まあ、それならそれでさっさと帰ろうと、私はホームへと急いだ。入場規制が効いているのか、京急線のホームはそれほど混んでおらず、また、JRが復旧したこともあってか、さほどの混雑もしていなかった。私は快速電車に乗り込むと、そのまま横浜へと帰還した。後は私鉄に乗ればいいだけだったが、私はふと気になって横浜の駅周辺を少し歩いた。テレビのニュースでは横浜の映像も少なからず映っており、現状を知りたかったのだ。ダイエーなど、テレビでも取り上げられていた場所の惨状を目にしつつ、私は何気なくゲマ屋やメロンブックスのあるビルに足を運んだ。驚くべきことに、二つの店舗は普通に営業をしていた。確かにダイエーの辺りは酷いものであったが、横浜そのもの被害としてはそれほどでもなかったのだろう。私は何故だかその事実に感慨深くなり、買っていなかったコミックスを買って帰ってしまった。

私鉄に乗って家に帰りついたとき、そこで私を出迎えてくれる人は誰もいなかった。父親は在宅していたようだが寝室で寝ていたし、母親は買出しに出ていた。姉は徒歩5分ほどにある祖母の家に行っていたようで、私は物も言わぬ、静まり返った家へと入った。父親からの連絡で聞いていた自室の惨状は、思っていたよりも酷いものではなかった。確かに物は散乱していたが、職場の壊滅具合を目にしてしまうと大したことないと思えるぐらいに、私は麻痺していたのかもしれない。片付けるのは起きてからでいい、私はそう思うと寝間着に着替えてベッドへと倒れこんだのであった。実に、30時間ぶりの睡眠であった。
先日発表された声優アワード2010だけど、年々あれも酷くなっているというか、存在価値そのものが低くなってきてるよね。まあ、あれは企業主導でやっているものですから、事務所間の足並みは揃ってないし、ほとんど茶番劇にしかなってない。実際は声優個人というより出演した作品そのものに賞が与えられているようなもので、今回も分かりやすいメンツが揃っていましたね。超電磁砲の4人組のうち、主演であるはずの佐藤利奈以外は全員受賞したという事実には笑ってしまいましたが、まあ、けいおんは強かったということでしょう。

でも、けいおんにしたって一番人気は澪か梓なわけですから、日笠や竹達が賞を取らないとおかしいよね。ただ、主演男優賞に下野が来なかった時点で、アイム勢は不参加のかも知れない。去年は間違い無く竹達や早見、そして悠木の年だったはずだけど、賞をとったのはプロモーションに熱心なミュージックレインの声優ということで、まったくつまんない話ですよ。
まあ、竹達彩奈に関して言えば、むしろ賞とか取らないで正解だったと思いますけどね。飛躍の年ではあったけど、飛躍しすぎた一面も否定は出来ない。声優界だって競争の激しい世界ですから、急に仕事が増えた若い娘に対するやっかみは多いんだろうし、影で良くない噂を立てられていたとも聞きます。ほとんど無名だった娘が大躍進を遂げちゃったわけだから、当たり前の反応であるとも思うけどさ。
最近の若手声優はなんていうか、苦労知らずだよね。勿論、日常生活や仕事における苦労が皆無だとは言わないけど、デビュー作が主演であることも少なくないし、主演でないにせよレギュラーだったり、サブヒロインだったり、若い女性声優に限って言えば、本当にそういうパターンが増えた気がする。主役級ばかり演じて無茶苦茶なレベルアップを測り、あろうことかそれに成功してしまった花澤香菜をモデルケースに、とにかく場数を踏ませて急速にアイドル声優を育てようという動きが活発になった。特にアイムなんかは、上の階に所属していた堀江由衣をその手法で最強のアイドル声優に仕立て上げたから、得意中の得意ですしね。
でも、そのやり方はほんとうに正しいのか? とにかく主役やヒロインばかり演じて、下積みも経験せずにキャリアだけが積み重なっていくというのは、どういう気分なんだろう。若いうちからスターダムにのし上がるのは、本当にその人のためになってるんだろうか。

小手先の技術や、外見的可愛らしさを備えていれば、今の若手声優は大抵やっていける。例えば花澤香菜はその典型的な例で、あの人は演技力にしろ歌唱力にしろ、ハッキリ言って致命的な欠陥だらけだが、可愛いから許すとか、気持ちがこもっていれば大丈夫なんていう意見が、その欠点を覆い隠してしまう。竹達だって、あの人はただの音痴でしかないけど、目に見えての批判は少ない。
彼女たちは結局のところ、現場に慣らされただけに過ぎない存在であり、決して実力がついたわけではないと私は思う。場数を踏み、舞い込む仕事をこなしていくうちに仕事そのものに付いては慣れたけど、それが直接の実力アップには結びついていない、そんな印象をうけるのだ。考えても見れば、今のアニメはどっちを見ても同じような役者ばかりでており、ベテランや大御所といった方々の起用はめっきり少なくなった。これは声優のギャラ形態にも関わることだが、制作側としては安くて人気のある若手を起用して、それで作品が売れれば良いわけだから、わざわざ高い役者を使う必要などないのである。結果として現場に現れるのは、歳も経歴も大した開きのない、二十代から三十代前半ぐらいの声優たちだけというわけだ。
役者の世界は一子相伝などではなく、若手たちは常に先輩やベテランの演技を参考にし、時には教えを乞うことで実力を上げることに励んできた。右も左も分からない、昨日までは単なる無名に過ぎなかった若手が業界を生きていくには、常に見本となる存在が必要だった。そのはずだった。しかし、今のアニメ現場では若手は育たない。若手が育ててもらえるような環境ではないのだ。大勢の若手に、ベテランが一人いるかいないか、そんな状態で誰がどのように育つというのか。まあ、無理な話ですよ。

まあ、世代が変わったといえばそれまでなんだけど、果たして今の若手が10年後も声優をやっていられるのかどうか。少なくとも声優アワードがなくなっていることは間違いなさそうだよね。だって、あれはもう存在意義がなくなってるでしょ。吹き替えはおろかナレーションの項目すらない、本当にアニメだけを対象とした無意味なものだよ。受賞した声優を否定するわけじゃないし、誇らしいことだと考えるなら堂々と胸を張れば良いけど、私はそこに名誉や栄光があるとは、どうしても思えません。
チャットでファーストフードチェーンについての話になったんだけど、最近はバーガーキングに行くのが好きです。割と職場から近い場所にあって、マックが撤退し、ロッテリアが閉店してからは、あそことファーストキッチンぐらいしかファーストフード店がなくなってしまったので。まあ、私は日頃弁当持参で仕事している人だから、買い食いとか外食は滅多にしないんだけど、例えば寝坊したりとかで弁当の用意が難しいときは、必然的に外を頼ることになります。

ファーストフードは安価で手軽な食べ物なんて言われてるけど、本当にそうなんでしょうか? チャットでも少し話題になったけど、なんだかんだいって結構な値段するじゃないですか。例えばバーガーキングの看板メニューであるワッパーのミールMMセットは通常時が750円で、ランチタイムでも690円はします。それに比べ、近辺にある定食屋等は主食に置かず、味噌汁やお新香まで付いたランチメニューを650円とか、下手すればワンコインでやっている場合もありますから、価格的な意味合いで言えば必ずしもファーストフードは安くないですよね。
単にバーガーキングが高いだけじゃないのかと思われそうだけど、最大手であるマクドナルドがこのところ頻繁に出している新作バーガー、今はマンハッタンですか? あれもクーポン使ってやっとセットが680円という感じだから、値段的な差というのは、実はそれほどないんじゃないかと思っています。それはFKにしろロッテリアにしろ同じことで、モスバーガーなんて600円下回るセットが少ないくらいですからね。モスに関しては一時期高級志向なんて言って、1個1000円近いバーガーなんかを出して話題になりましたけど、ファーストフードでそれをやるのはなんだか本末転倒な気もしてた。まあ、あれに関しては激しい値下げ競争の反動もあったんだろうけど、1個1000円のハンバーガー買うぐらいなら、普通に定食屋とか入ったほうが賢い選択でしょう。フレッシュネスバーガーやBecker’sみたいに、クオリティ重視の展開をしている店舗ならまだしも、決してそういうわけじゃないんだから。
けどまあ、それなりの値段がするだけあって、バーガーキングは美味しいですね。マックとは比較にならないってのもわかるし、味は相当だと思う。私が一番好きなのはドムドムバーガーだけど、あそこは行く機会があまりないので、しばらくはBKがメインになるのかな。ドムドムも地元に一応店舗あるんですけど、ちょっと不便な場所にありまして。もう随分とご無沙汰になっています。

しかし、ファーストフードは決して安い食べ物じゃないというのが分かったわけだけど、そもそも世の中のホワイトカラー的な人種の方々は昼食にどれほどの金を掛けられるんだろう? 勿論、個々人の経済状況、つまりは懐具合に左右されることは間違いないけど、不景気だなんだと言われるこの時代、昼食に1000円ってのはきっと高いよね。上限としてはありなんだろうけど、たまの贅沢って言う金額になるんじゃないかと思う。平均して600円ぐらい、食べない人はともかくとして、節約している人で300円ぐらいだろうか?
昔放送していたドラマで、今も度々再放送されているランチの女王という作品があるんだけど、私はあれの1話を見るたびに毎度驚くことがある。物語はなんてことない、洋食屋を経営する家族の揉め事に巻き込まれた女性主人公が、洋食屋のデミグラスソースの味に魅せられ、色々あった末に押しかけの住み込みバイトになるという感じなんだけど、それについてはどうでもいい。この主人公、まあ、ヒロインという表現でも差し支え無いだろうが、この人の楽しみというのがタイトルにもあるランチであり、日々美味しいランチを食べることが生き甲斐というグルメな性格をしている。しかし、美味しいだけが良いランチの条件ではないとして、いくつかの自分ルールも存在する。その中で、一食のランチにおける上限は2000円までというものがあるのだ。2000円、そのセリフを聞いたときに私は驚いたものだ。世の働く女性というのは、昼飯に2000円も掛けられるほど裕福で、稼ぎがいいのだろうかと。勿論、ランチにこだわりがあるグルメな主人公であるからして、特別その部分に金を割いているのかもしれないけど、それでも2000円は高すぎる、なにを食べればそんなに掛かるんだと、女性向けドラマの金銭感覚に唖然として、今も見直すたびに驚きを隠せない。まあ、これは私がケチだからってのもあるんだろうけどさ。

私は酷い偏食家だし、拘りを持つ以前に食べられるものが限られているって感じなんだけど、たまに外で食うときぐらいは贅沢をしてもいいのかな。キッチンジローに入ることすら勿体無いと思うのは、もはやケチを通り越してさもしいだけなのかもしれないけど、染み付いた根性というのはなかなか治らないもんでして。けど、久々にドムドムとか入ってみようかな。行こうと思えば、行ける場所にあるのだから。
最近、身内との仲が壊滅的に悪くなった。私とあの落ちぶれた天才の間には、常に緊張感みたいのがあって、傍目に仲良くしているように見えても、いつ千切れるかも分からない吊り橋の上に乗っているかのような関係だった。吊り橋を落とす方法はいくらでもある。自然に千切れるのを待ってもいいし、自ら斧を振り上げ叩き斬ってもいい。むしろ爆弾でも使って跡形もなくしてしまえば、そもそも橋があったことすら過去にできてしまう。お互い、導火線はずっと握っていたわけだしね。昨日、友人は大切にしようなんて内容を書いておいてあれだけど、私と身内はいよいよダメっぽいです。まあ、それもまたいいのかな。何故ならあの人は、私の身内であっても友人ではないのだから。

生き方が違う人間、思想や考え、理念や信念が違う人間と話すことは難しい。相手はこちらを理解しないどころか、理解したくないとさえ思っているから、端から話が通じない、聞こうとしない。私は、私の考えや感性が導きだした結論として、身内の生き方を全面的に否定して、あの人のやったことを断じた。それが間違っているとは思わないし、誰かが言わなければいけないことだったのは事実だ。
あの人は私のことを精神論の塊だと表現していたけど、それは多分間違ってない。私は確かに根拠のない自信と精神論で物事を乗り切り、流れに身を任せて生きてきてた男だけど、完璧主義者のあの人にはそういうのは理解出来ないのだろう。だけど、私に言わせれば精神論の一つも振りかざすことの出来ない、あの人のそうしたところが一欠片も理解出来ないし、したくもない。あの人は常に理論的で、現実主義者だ。出来ないことは出来ないし、やれないことはやらない。自分で自分の上限を測り、それ以上のことは絶対にしない。自分でそれは不可能だと思った時点で、成し遂げることを放棄してしまう。つまり、挑戦することがないのだ。あの人に限界の先は存在せず、常に限界の一歩手前で立ち止まっては、自分の才能と実力の許す範囲で完璧な仕事をする。それは果たしていいことなのだろうか?
私の周囲、つまりは親のことだが、そういった人達は身内の才能を認めている。あの人が有能であり、天才だったことを信じている。だからなにかあれば、いつも頼るのは私ではなくあの人の方だ。それに不満を覚えたことがないといえば嘘になるが、しかし、それは錯覚に過ぎないのだ。完璧主義者の、生真面目な天才などというものは、どこにも存在しなかった。誰もそれに、気付いてなどいなかったが。

あの人は自分で責任を取るということを知らない。いや、知ってはいるのだろうが、自分がそれをするということが理解出来ない。何故ならあの人にとって、責任とはいつも自分でない誰かにあるもので、自分が悪いことをしたとは露程にも思っていないからだ。あのときもこのときも、どのときだって悪いのは他人。私は言われたからやっただけ、脅されたから仕方なく、私は嫌だって言ったもの……そんなことを繰り返していたら、あの人は誰に対しても謝るということをしなくなってしまった。行為そのものを忘れたわけじゃない、ただ、謝るということは自分の非を認めることであり、それはなにかに対する責任を果たすことになってしまう。だからあの人はどんなことがあっても他人に対して謝らないし、頭を下げることを絶対にしない。いつだって自分は被害者で、可哀想で、周りはそんな私をいじめる無理解な人たち。
私はそんなあの人にとって、基本的には味方のつもりだった。あの人は理不尽を超えた傍若無人な存在であったが、自分が異常者であることは自覚しており、認識もしていた。けれど、親という存在がそれを認めなかったのだ。まあ、気持ちは分からないでもない。お腹を痛めて産んだ子供が、頭のイカレタ奴だったなんて、普通の親ならば認めたくない事実であろう。しかもそれが、誰からも賞賛されていたかつての天才であれば尚更のことだ。今は精神的に不調でも、やれば出来る子なんだから大丈夫。そんな甘い考えが、現実を見つめない逃げの思考が、すべてを手遅れにしてしまった。
自分から、そう、あの人が自分から医学の力に頼ろうとしたときも、親はそれを理解しようとはしなかった。親があの人のことを、「少し変わっているだけで、医者なんて必要ない」と言ったとき、私は実の親に対して正気を疑ってしまった。本人が限界を感じ、有り体に言えば観念したというのに、親はまだそんなことを言っていたのである。甘いどころの騒ぎでも、現実から目を背けているどころの騒ぎではない。つまるところ、真実から逃げようとしていたのだ。自分の子供が異常者である、精神病の類であるということから。

何故、私がこの期に及んで身内の、あの人の味方をしたかといえば、これが最後のチャンスかと思ったからだ。私は心療内科や精神科がもたらす効果の程は知らなかったが、多少なりともマシになるのではないかと、期待をしていたのだろう。それがあの人に対して、最も抱いてはいけない感情だということを忘れながら。
認めたがらない親を説得し、説明し、あの人の壊れかかった精神を維持させて、先月の私は本当に色々なことをしたと思う。結果に対する不安はあったが、それでも私以外、間に立つことのできる人間はいなかったのだ。あの人は毛ほどにも感謝などしていないだろうし、私が色々と便宜を計った事実さえも認識していない。親にしても、今にして思えば余計なことをしやがってと、そんな感じだろう。前者はともかく、後者は確かにと自分でも納得してしまうからたちが悪い。
結果として、医者などなんの役に持たなかった。勿論、通院を続ければ多少は違っていたのかも知れないが、そもそもの話、あの人は自分の精神異常を改善する気など欠片もなかったのだ。あの人が欲しかったのは、病人であるという弱点であり、それを得るために短い間隔で医者を取っ換え引っ換えしては、自分が重病であることをアピールした。何故そのようなことをしたのか? 弱点があったほうが、便利だからですよ。弱点さえあれば、病名のある病気にさえなれば、今度はそれのせいにすることが出来る、責任を擦り付けられる。そんな病気にかかるほうが悪い? あの人をその病気にしたのは誰か、尋ねればいくらでも答えは返って来るでしょうよ。あの人は一から十まで自分の意志で行ったことでさえ、他人の意思が介在していたことに出来るんです。それに掛けては、確かに天才なのかも知れないけど。

先日、あの人のプライドがズタズタになる事件が起こりました。要するに世間は家族や親戚ほど優しくはないという話で、完璧主義者が行ったはずの仕事は、一欠片も完璧などではなく、通院や投薬による無駄な治療があの人の力そのものを鈍らせ、堕落させてしまったのです。そして、そんな事実を社会が知るわけがない。あの人の過去を社会が考慮するはずもない。なんの役にも立たない役立たずと、レッテルではない烙印を押されたあの人は、本当に惨めだった。精神の均衡は怒りや動揺でぐちゃぐちゃになり、かつて存在していた天才は、完全に消滅したのでした。
私はその時点では、まだあの人を見捨ててはいなかった。役立たずの烙印を押された凡人以下が、自らを奮い立たせ、再び天才に立ち戻ろうとする姿を想像した。例え身内でなくとも、このような状況で人がすることは再起を図ることだからだ。でも、あの人はそれをしなかった。怒りは悲しみと違って醒めるのが早い。首を切られる寸前であったあの人は、あろうことかそんな自分の立場を受け入れてしまおうとしたのだ。自らは行動を起こさず、切られることを前提とした、それは自虐だった。正直な話、私も身内には後どころか先がないと思った。既に精神的にも肉体的にもボロボロで、使いものにならないというのは事実だったからだ。それを理解せずに、「今回は仕方なかった」などとほざいているのは親ぐらいで、まんまと身内の策略に乗せられていたのである。
しかし、ここで身内にとって大誤算が起こった。あの人は自分の首は切られるものだと考えていたし、私もそうなるだろうと思い込んでいた。あの人は病気という最大の弱点を武器に、今回もそれに責任を擦り付けられるつもりだった。首が切られば、そうなることは間違いなかったのだ。
そう、実際に首は切られなかった。考えても見れば、私や家族にとっては十年以上付き合ってきた身内の異常さも、相手からすれば今回が初めてのことであり、一度ぐらいは温情の手を差し伸べても、不思議はなかったのかも知れない。兎にも角にも、相手は切るはずだった首をそのままに、身内のことを助けてやろうとした。休養を取らせ、残り僅かな期間を頑張らせようと、配慮までしてくれたのだ。
でも、身内はその手を払った。なにがなんでも取らなければいけない、握り返さなければいけなかった、外からの救いの手を、自分自身で振り払ったのだ。理由は、体調が万全ではなかったから……

私が本当の意味で身内を見限り、見捨てようと決意したのはまさにこの瞬間だったのかも知れない。行われた激しい口論も、所詮は無意味なものでしかなかった。前述の通り、根底たる考え方が違うのだ。生きること、社会生活を営むことの意味を、あの人は欠片も理解していない。あの人はひたすら現実と過去を彷徨い、先を見ようとはしないのだ。今に嫌気が挿せば昔という名の殻に閉じこもり、将来や未来のことなど想像すらしない。親も家族も、永遠でないという事実を無視し続けながら、自分の為だけに生き続けているのだ。
あの人が体調が悪いという理由で差し伸べられた手を払ったとき、私は嘘を付いてでも、自らを奮い立たせて腕をつかむべきだったと主張した。日常生活も困難なほど重症ないし重病ならまだしも、傍目に見てどこが悪いのかさえ分からなかったからだ。けれど、親は体調が万全じゃないというあの人の言葉を信じた。そして、「真面目だから嘘がつけなかったのだ」と、最後まであの人のことを擁護していた。私はどうすればよかったのだろうか? 親を殴り飛ばして、目を覚まさせるべきだったのだろうか? 今更言っても遅いことだけど、そうした方が良かったのかも知れない。

今回の件で私が身内に対する敵となって、あの人に対して牙を剥いたとき、一番焦っていたのはあの人ではなく親だった。それまでは常識的な親として、あの人に最低限の小言や説教を行っていたはずの親が、それから常に庇っていたはずの私が、親の100倍に近い勢いで事実、現実、真実を付きつけ始めたら、私を怒鳴り散らしてあの人を擁護し始めた。理由は単純だ。私にはまだ、話が通じるのだ。異常者であるあの人は他人からなにを言われても堪えることはないが、私はまだしも普通だったから……
実に情けない話だが、これはすべて先日起こった、現実の出来ことでしかない。私はそこから逃げることも許されず、調停者としての責務を押し付けられて生きているのである。
そういうえば、今年はマチアソビに行きませんでしたね。まあ、平日含めた2週間開催と言ってもなにか目玉となるようなイベントがあったわけじゃないし、結局ヨスガノソラのイベントもやりませんでしたから、私が行くだけの理由はなかったんだけどさ。どうしてヨスガのイベントをやらなかったのかは、まあ、大体の理由は分かっているから深くは突っ込まないけど、仮に企画されていたら例え平日でも行く羽目になっただろうから、これはこれでよかったのかな。今年は、なんて言い方しましたけど、年内における次の開催は既に決まっており、次回は5月のゴールデンウィーク頃にやるらしい。

先日のオンリーイベントに参加した際、わざわざ地方からサークル参加してきていた人がいて、その行動力には少なからず驚きを覚えた。コミケとか大きいイベントならともかく、小さなオンリーでしたからね。新刊の発行部数も少なかったようだから、完売したとはいえ交通費分にもなってないんじゃないかな。私も割とフットワークは軽いほうだとか言われますけど、基本的に遠征はしない人ですからね。マチアソビとか、奥木染訪問とか、特別な理由があっての旅行ならまだしも、例えばこみっくトレジャーとかそういったイベントで遠征できるかと言われれば、正直できないと思う。私は確かに趣味同人の人であって売上とか、そういうのに固執したことはないんだけど、物凄い赤字でも全然気にならないってほど豊かな経済状況でもないですからね。まあ、元がケチくさいってのもあるんでしょうけど、そう考えると去年はよく徳島なんて行ったものです。あの頃はヨスガノソラが絡んでいればなんでもできると思っていたし、事実、なんでもしたからなぁ。
勿論、環境や立場によって人の行動なんて無限にあるのかもしれないけど、それでもあの行動力は素直に感心するというか、尊敬してしまう。それもまたヨスガノソラの魅力がなせる技だといえば、自分がそうであっただけに納得してしまう部分もあるんだけど、今の私に同じことが出来るのかといえば、多分出来ないと思うから。去年の後半にいい想い出が少ない私だけど、決して楽しくなかったわけじゃないしね。徳島行ったときも、その前に奥木染に出かけたときも、その時点では本当に楽しかったわけだし。そういった事実まで否定して、去年は嫌な年だったとか、そういう嘘は付きたくない。禍福はあざなえる縄の如しじゃないけど、良いことと悪いことは常に表裏一体なんですよ。

去年から今年に掛けて、私はヨスガノソラを通じて色々な出会いを経験しました。それはpixivやTwitterといった所謂ネット中心のことながらも、私にとって非常に価値有るものだったと思う。例えば、それはアニメ版ヨスガの挿入歌を歌っていた天乙准花さんだったり、先日のオンリーで会ったヨスガサークルの方もそうです。pixivで敬愛している絵描きさんとも少なからずお近づきになれた気がするし、イベントでもTwitter経由で来る人が増えた。
私は確かに、ヨスガノソラのアニメに思うところはあったし、BDは買ってますけど、正直認めていない、認められない部分が多いのは事実です。でも、それでも、作品を通して生まれた出会いとか、関係性とか、そういうものまで否定する必要はないと思うんですよ。都合のいい部分だけを大切にしていると言われるかも知れませんが、それでもすべてをなかったことにするよりはずっといい。得られたものがないわけじゃない、その考え方が逃げなのだとしても、私は自分がなによりも貴重なもの手に入れたのだと信じてるから。
本当はこれ、今年の初め頃に書こうと思っていたことなんですけど、なんとなく機会を逃して今日まで来てしまいました。改めて書く気になったのは、やっぱり先日の出会いが大きいのかも知れないけど、春も近付いていることだし、その前に済ませておきたかったのかもね。自分の中の区切りとか、そういうのをさ。まあ、完全に一区切りつけられるのは今月に出るBDの4巻を買ってからなんだろうけど、別にTV放送版よりも映像が過激になるだけで、話のなにが変わるってわけじゃないからね。

まあ、要するになにが言いたいのかというと、出会った人や、生まれた関係性みたいのは大切にしていきたいよねっていう、ただそれだけの話なんですよ。私の周囲は、もちろん私も含めてだけど、人付き合いが本当に下手な奴ばっかだからさ。社交性や協調性の問題ではなくて、もっとこう本質的な部分で。人生それなりに生きてきて、幾多の出会いや別れを繰り返し、それなりに苦い経験もしてきたわけだけど、失ったことへの後悔や未練が皆無だったことはないし。中には振り返りたくもなければ、思い起こしたくもない過去だってあるけど、戻れるなら戻りたいと思うことだって少なくはないんだから。物凄い月並みな言葉で締めるけど、友達は大事にしよう。
随分と長ったらしい書籍名ですけど、発売されていたのでメロンブックス横浜店で購入しておきました。ジャンプコミックスを私が買うのは本当に珍しいというか、そもそも週刊漫画雑誌を滅多に読まないのであまり縁がないんですよね。スクランも途中で買うのやめちゃったし、ハヤテのごとくも何冊買ってないのやら。まあ、To LOVEるに関してはジャンプSQでの連載ですから、正確に言えば月刊漫画になるんでしょうけど、これに関しては週刊連載時代からコミックスを購入し、現在も読み続けている数少ない漫画です。まあ、話の内容はともかくとして、矢吹健太朗の絵柄が結構好きで。

ジャンプに限らず漫画作品のムック本は、コミックスと同じ版型であることが多く、これは刊行されているコミックスと並べて置けるようにとか、版型を同じにすることで読者に対する抵抗感を減らすとか、まあ、いろいろな理由があるんですけど、1000円未満でこの手の本が買えるっていうのは割とお得なんじゃないでしょうか? 例えば、ライトノベルのムック本などは文庫サイズで出すわけにもいかないからサイズの大型化が図られており、それによって値段も高めになっていることが多いです。例えば、とらドラのオフィシャルガイドブックであるとらドラ!ノ全テ!という本があるけど、価格は1500円近くととラノベ2冊半ぐらいの値段になっています。ちなみにこの本、知り合いが1から10まで作ってるんだけど、クレジット自体は電撃文庫編集部になっているから、あんまり儲からなかったそうです。編集兼ライターの辛いところですね。電撃はそれなりに繁盛しているはずだけど、出版系の下っ端なんてどこも同じようなものです。
話を戻して、ライトノベルの場合だとカラーイラストや販促絵を見せるという意味合いがあるため、必然的に大きい版型のほうが好まれるんでしょうね。漫画の場合は描きおろし作品を載せる場合に便利だからってのもあるけど、小説に関しては文芸雑誌などがそうであるように、必ずしも誌面に拘りませんから。電撃文庫MAGAZINEなんかも、二段とか三段組での掲載ですし。逆に、西尾維新のザレゴトディクショナリみたいなイラスト類を載せる必要がないものは、わざわざ版型を大きくする必要もないからシリーズと同じ新書サイズで出すことが出来るのでしょう。私は特に版型とか、そういうのに拘りがあるわけじゃないし、トールサイズとか訳の分からないものじゃない限りは別になんでもいいって感じがします。

今回のデータブックはジャンプ系のそれにありがちな、キャラ紹介を中心に構成されていて、データブックの名に恥じない充実ぶりだったと思います。まあ、レギュラーにせよ準レギュにせよ、出番の多いキャラクターにページが割かれるのは当たり前だけど、少し気になったのはキャラの紹介順でしょうか? さすがに人気順で並べることは有り得ないにせよ、古手川唯が意外なほど後ろの方に載っていたのは、登場順で並べた結果なんですかね? まあ、学生と町の住人、そして宇宙人といった感じに大まかな仕分けがなされていたけど、主人公の妹である美柑や、その親友でありダークネスの主役の一角であるヤミは学生メンツの紹介が終わってからの登場だったし、その辺がちょっと複雑だったかな。まあ、こういう並びは読者が思っている以上に制作サイドが悩んだりしているんですけど、このダークネス時代にTo LOVEるの方がメインのムックを出したというのも少し考えものですかね。いや、ダークネスそれ自体は連載中の話だし、大した情報量なんてあるわけないんだけど……ほら、最近リトを始めとした他キャラって影薄いじゃないですか? リトなんてほとんど乳繰り合い要員だし、ハッキリ言うと主人公ではなくなっているよね。
ダークネスはエロを増量しながらシリアスな話を描こうとしていて、旧来の矢吹作品が好きだった人には割と受けている感じがします。To LOVEるはアニメがあんな調子だったから、ネタ的な意味でも限界が近かったのだと思いますし。今作はモモの野望やヤミの周囲で巻き起こることなど、予め作品の内容が決まっていますから、非常に分かりやすい作りになっていると思う。

コミックスの方も同時発売だったわけですけど、実はまんが王倶楽部の特典が欲しくて、そっちで予約をしてしまいました。アニメイトのモモも捨てがたかったんだけど、やっぱりヤミでしょ。送料の関係で少々値は張りましたが、まあ、たまにはこういうのもありってことで。最近、何故か近場にある店よりも、ネットを中心に展開しているところのほうがいい特典をつけたりするから困る。単に私の好みや趣味の問題であるにせよ、書籍は基本的に店で買う派の私としては、なんとも複雑な気分です。
木曜日は意外と質の高いアニメがやっていて、私は今期のアニメではISと夢喰いメリーが一番好きですね。最初はこれゾンに期待していたんだけど、あれはなんていうか、全体的に明るくないよね。話ではなく、色合いが。それこそゾンビ色とでも言うべき土気色をしていて、全体的に鮮やかさがないんです。作風も、富士見ファンタジアの作品だからか割と古臭いし、新鮮さに欠けるっていうの? 決してつまらないとは言わないけど、だからといって面白いかと言われれば、ちょっと悩んでしまいますね。そらおとスタッフが作っているからこそ、作品同士を比較してしまいがちだし。ほら、そらおとは物凄い明るかったじゃないですか。鮮やかさっていうのは、ああいう色合いを言うんですよ。

所謂日常系アニメ、ARIAとかスケブとか、らき☆すたとかけいおんなんかのアニメは作品そのものに具体的な目的がありません。ファンタジーのように魔王を倒すとか、ガンダムなら戦争を終わらせるみたいな、とにかく終末点が存在しない。これはそもそもの話、原作が4コマであったり、そうじゃないにしてもなんらかの目的や目標を掲げた作品でないから、だからこそ延々と続けることが出来るわけです。スケブは残念ながら売上が振るわなかったので2期はやりませんでしたが、他の作品は2期やOVAなど、その後の展開がありましたよね。まあ、国民的アニメとはまた事情も違うんでしょうし、明確な流れがあるにも関わらず、延々と同じことやってる名探偵コナンみたいな作品もありますから、一概には言えないんでしょうけど、最近増えたように感じる日常系は、人気と売上が持続する限りはいつまでも繰り返せますから、今の世の中に合ってるんでしょうね。それが正しいのかどうかは、私としてはなんともいえないし、別に日常系の作品が嫌いってわけでもないから、殊更否定するほどのものでもないと思っていたり。
それでまあ、今期のアニメの話というか、木曜に放送しているアニメの話に戻るわけだけど、上に書いた日常系の作品に比べると、ISや夢喰いメリーというのは明らかに違う色合いをしていますよね。両者に共通するのはバトル物という点ぐらいで、なにもかも同じかと言われれば、決してそうじゃない。これはなにもSFとファンタジーの違いとか、設定部分に関してだけじゃなくて、物語の入り方とか、前述した目的や目標の目指し方みたいのが大きく異なっているんですよ。
ISは所謂ハーレム系アニメの王道を地で行く作品で、古臭さとは違う懐かしさを伴う、最近はめっきりご無沙汰だった感じの作風です。10年ぐらい前はこの手の作品が多かったんだけど、このところは男主人公すら排除されてしまったものが乱立していて、しかも、それらが割と成功してしまっているから、こういうのに慣れていない人からすれば珍しいタイプになるのかも知れないね。話としては典型的な、女尊男卑の世界において唯一の能力を持った少年が、女だらけの学校に男子一人で入学するというハーレム物。主人公である織村一夏は、鈍感だけど優しくて、女だらけの空間においても自己を見失わず、自らの信念のもとに行動していく感じで、これもまた典型的、ありがちすぎるパターンでしょう。ISファンが原作やアニメを新しいタイプの作品と捉えているのかは知らないけど、私に言わせれば使い古された手法に過ぎない。例えば、サクラ大戦なんかがそうですけど、あれは霊力は女性が高く、そのため光武は女性にしか動かせないというところに、男性でありながら高い霊力を持った大神一郎が現れたことで物語が始まるという、まんまISと同じパターンじゃないですか。他にもいくつか例はあるけど、決して新しい作品でないことは確かです。

話が少しそれはましたけど、ISという作品が目指す目標は、実のところ1話の段階で既に出ています。原作はともかくとして、アニメの1話はアバンにおいて最終決戦と思われる戦闘シーンから開始されており、後に登場するヒロイン達と共闘しているのが分かります。今週になってデレデレになっていたラウラも戦闘に加わっていたことから、すべてのキャラが一夏の味方であることが最初の時点で分かるのです。そして、そんなISが目指すべきところというのは、他でもなく1話アバンの戦闘シーンです。あれが最終決戦なのだとして、視聴者は予めこの作品を見ていくと、この戦闘に辿り着くんだなということが分かっており、言ってしまえば今放送している話はすべてその過程にしか過ぎないのです。故に結末は分からずとも、それのある場所は分かっているわけだから、非常に思考しやすくなっていますよね。
例えばラウラが時系列上で初登場したとき、彼女は敵だったわけだけど、視聴者からすれば後に味方になることは分かっているから、「このキャラは敵なのか、それとも味方なのか?」という疑問ではなく、「このキャラがどうやって一夏に惚れる、もとい仲間になるんだろう」という予想を立てることになるわけです。勿論、アバンなどなくても原作がある以上はそれを読んでいれば大体の展開は分かるかと思いますけど、ISはどうやらオリジナル展開で幕を下ろすみたいですから。それを印象づけるための1話でもあったわけかな。
逆に夢喰いメリーは、作品としての大まかなテーマは作中でもCMでも語られています。メリーが夢に帰ることです。でも、それは原作含めて夢喰いメリーそのものの大目標であって、アニメという媒体のみで考えると、さすがに違いますよね。あるいはオリジナル展開で締めるのも一つの手ではありますけど、売れれば2期を前提に作っている今のアニメで、そんなあっさりと終わらせるとは思えない。となれば、アニメとしての一区切りが必要になってくるわけだけど、それが今週提示されたのかな、と思う。つまりはエルクレスという原作においてのラスボスは置いておいて、ミストルティンというアニメオリジナルのボスキャラを如何にして倒し、ヒロインの夢を守りぬくか、って感じですね。メリーもまた、ある意味では王道的展開をひた走っているわけですけど、テーマが夢や希望だけにちょっとシリアスで重苦しい展開が多いですよね。まあ、アニメはミストルティン倒したところで終わるんでしょうし、よっぽどひねくれた製作者じゃない限りはヒロインの夢も守れるんでしょうけど、はてさてどうなることやら。ISと違って先が見えない分、非常に興味があります。

作品としてはISよりメリーの方が好きなんだけど、BDを買うのだとすればISになってしまう気がする。というのも、メリーはTV放送版にこれといった不満がなくて、面白いんだけどBDを買う必要は特にないって感じの作品なんですよね。逆にISは色々修正や削除がされていますし、それらを全部見るにはBDを買うしかないという、まあ、よくある商法ですよ。売れればどちらも二期はやるんだろうし、メリーもあれでキャラソンとか出したり、それなりに力は入れている方ですけど、ISはなにせ今期のトップですからね。原作も売れまくってるし、王道なだけに魅力も大きい。メリーは今ひとつ、なにかが欲しいところです。
劇場版マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~を川崎チネチッタで観てきました。丁度ファーストデーだったし、時間帯もいいのがあったから、私にしては珍しく公開後数日での鑑賞になった。しかも、チケット自体は先日川崎に行った際、イベント帰りに購入していたから、真ん中の列のど真ん中を早々に確保済みで。当日は悠々と入場し、サービス期間で値下げしていたホットドッグなんて買っちゃったりしながら上映開始を待ちました。私は前作の映画も公開終了日でしたが鑑賞していたし、それほど悪い印象を持っていなかったら続篇も観る気になったんですよね。そして、それが大間違いだった。

予め断っておくと、私は別にマクロスFという作品が嫌いではありません。元よりマクロスシリーズにはちょっとした思い入れもありますし、スタジオぬえとは浅いですが繋がりもあるから、そんなに悪くもいえいないんだけど……それでもこの映画はないと思った。公開したばかりなのでネタバレ全開で書いていいのか迷うけど、2時間という尺を使ってそれしか出来なかったのかと、そんな風に感じました。マクロスで歌をメインにしている作品は、これまでならマクロス7であり、あれは主人公がバンドを組んでおり、歌を歌いながら戦場を駆け巡る作品でした。マクロスFもまた歌がメインであることには変わりませんが、歌うのはヒロインであって主人公ではない、どちらかと言えば初代マクロスに近い形です。
作品の中にあらゆる要素を組み込み、それを全面に出して行くのはもはやマクロスの特色と言っても差し支え無いと思いますが、今回の映画はそれが見事に裏目に出たというか、ハッキリ言ってしまうとなにがやりたかったのかわからないものであり、鑑賞後にだから、どうしたと言ってしまいたくなるような、そんな出来栄えだったように思う。作中、ブレラがアルトのことを中途半端な男だと言ってのけますが、私からすると作品そのものがそうだったのではないかと考えざるをえない。今までTVシリーズがリメイクの形で映画化した例はアニメなら多数あって、代表的なのはガンダムシリーズでしょうけど、例えばラーゼフォンとかその辺も、TVよりも映画のほうが……と思われるような出来でしたよね。マクロスにしたところで劇場版の愛・おぼえていますかの方が断然良いわけですし。

仮にこの劇場版の主人公をアルトではなく、ランカ・リーだとするならば、確かにこういう流れや結末も悪いものではない。今回の映画はマクロスFのTV版と直接繋がりのない、前述のとおりリメイク作品ですから、キャラの性格や思考などに違いがあっても問題はありません。特に、マクロスは作品そのものがマクロス世界における史実を元にした劇中劇という場合があるから、そう考えてもキャラ映画そのものに違和感はないのです。そもそも質の良くない作品を粗悪にリメイクした結果だなどと、昨日はTwitterで軽挙な呟きをしてしまいましたが、冷静になって考えて見れば、キャラ自体はあれでいいのかもしれない。ランカはTVシリーズで酷評されていた部分もありますし、ランカの成長という意味でなら見るべき点はあるんですよ。TVシリーズのラストで成長を遂げたランカ、それを下地に劇場版のキャラが作られたというのなら、シェリルを越えるカリスマや強さを魅せつけたのにも納得が行くし。映画のシェリルは、言ってしまえば歌うことに執着したテロリスト兼スパイですからね。真意や本心は定かでないにせよ、ランカを犠牲まで歌と命、そしてアルトを手にれようとしたところは生々しかったと思う。
敢えてこういう言い方をさせてもらうけど、シェリルは死ぬべきだったのではないでしょうか。いえ、最終的に死んだも等しい状態であることは変わりませんが、彼女が犯罪者として罪を犯し、重ねてきた事実が覆るわけではありませんし、人気アイドルならそれも許されるのか、結果的にフロンティアを救う手助けをしたからそれでいいのかと、そんな気がしてしまう。劇場版を通して頑張っていたのは、シェリルでもあるとでもなくランカではないですか。悲劇的な境遇だから可哀想? 彼女だって苦しんでいたんだから仕方ない? それも一つの意見なんでしょうが、シェリルのために死んだ命があり、壊された街があることを忘れてはいけないと思う。映画の中でシェリルはアルトに飛ぶのを辞めてくれといった。でも、彼が飛ぶ切っ掛けを、バルキリーに乗る原因を作ったのは誰か? シェリル本人じゃないですか。都合が良すぎるんですよ、彼女は。名誉も栄光も、何一つ捨てることが出来なくて、次々に欲しいものだけを手に入れようとして自滅した。それは駆け上がり、成長することを主体としていたランカと、既に頂上にいて転げ落ちるしかなかったシェリルの差なんです。恋愛に決着をつけたのは良いけど、あのアルトとシェリルの過去は映画として唐突だし、ああいう結果に繋げるための強引さが目だった。大体、三角関係なんてものは誰かが泣いて終わるものですけど、あれじゃあ誰にとっても意味のないラストじゃん。得ることと失うことを同時に体験したランカと、手に入れる瞬間に消滅したアルト。シェリルはもうなにも出来ない状態だし、誰一人として喜ばない、幸せになってはいないラストでした。

まあ、単に私がひねくれているだけなのかもしれないけど、少なくともパンフレットを買いたくないと思うぐらいには、私の中で評価の低い映画でした。ファフナーと比較するよりOOと比較したほうが的確だと思うけど、あれは映像がうるさかったけど、これは演出がつまらないとでも言うべきか。TVシリーズから言われていることだけど、ただ歌っているだけの作品になんか意味はないんですよ。リピーターキャンペーンやってるみたいですけど、多分二度目はないと思います。全体的な感想を一言で表すなら、物足りないですかね。その一言に尽きるでしょう。
昨日、パシフィコ横浜にて開催されたブシロードカードゲームLIVE2011というのに参加してきました。元々欠片も興味はなかったし、特に好きな演者が出るわけでもなかったんですが、身内の付き添い参加という形で、即売会からの連続参加って形に。まあ、荷物があったから一度家には戻ったんだけど、3分立たずして再出発という強行軍。正直、この時点で面倒くさいという気持ちが強かったんですが、こういう大勢の演者や歌い手が集まるライブには長らく参加していなかったこともあり、久しぶりに行ってみるのもいいかなと思ってたんですよね。

まあ、結論から言うと家で見ていたほうがマシだったと言わざるをえない感じだった。始まる前から嫌な予感はしていたんですよ。開演前に流れるミルキィのCMにすらコールする客の熱狂ぶりというか、ハイテンションについていけない自分がいて、彼らに対して引き気味になっていたのは、私が元よりそういった盛り上がり方を好まないというのもあるにせよ、根本的な問題として年をとったことを意識せざるをえなかった。若い奴らって、なんであんなに元気あるんですかね。開演中に年齢層のチェックが行われましたけど、十代の多さには驚くべきものがあった。大半と言っても差し支えない、今を生きる世代。ちなみにあの年齢層チェックはトークの一環として何気なく行われたように見えますけど、実際はブシロード社がライブに来る客層をチェックしていたに過ぎません。自社のイベントに来る年齢層を特定して、今後の販売に結びつけていこうっていうね。そもそも、このイベント自体、ブシロードの商品説明会というのが大部分を占めていて、おまけとしてライブもやっている程度のものなんです。だって、ただの商品説明会だと人なんて集まらないでしょ? レコード会社が株主総会でライブやるのとはまた違うのかもしれないけど、そもそも開催目的がそこにある時点で、もうまともなライブにはならないわけですよ。演者が1,2曲歌うごとに宣伝が入って、全員が全員その繰り返しでしかないんだから。それがブシロードのライブなんだと言われればそれまでだけど、例え演者に興味がなくともかつての流れみたいなものを期待していた身としては、必ずしも満足のいくライブではなかったという印象です。それともこれが、今のトレンドなんですかね? 分からないけど、だとすれば尚更私は年を取ったのでしょう。

ブシロードという会社は、元々ブロッコリーことブ社の社長をしていた木谷高明が、ブ社を追い出された後に設立した企業です。ブ社の主力製品であり、唯一の売れ筋だったカードゲームに特化することで業績を伸ばし、まあまあ成功しているという話を聞きました。私は所謂ブ社世代を生きてきた人間で、ブ社のイベントに青春と熱情を燃やしていた時期があります。だからその流れを汲んでいるブシロードには、好意的ではないにせよ否定的ではなく、昨今のミルキィホームズなどは売り方がかつてのギャラクシーエンジェルなどと酷似していることもあり、どこか懐かしさを感じる形で惹かれていたことがあります。
まあ、懐古精神というわけではないけど、私自身ブ社には未練や悔いのようなものを感じていましたからね。というのも、当時の私は謂わばブ社中毒といってもいい状態で、ブ社の出す商品、開催するイベントに参加しては満足しているような、そんな感じでした。でも、経営が悪化するごとに商品はなんの意味もないようなキャラグッズが乱発され、イベントチケットはどんどん高額になっていった。そして、私はそれについていくことが出来なくなった。目が覚めた、という表現が正しいのかは分からないけど、兎にも角にも目が覚めたとき、私は一転してブ社と距離をおくようになった。毛嫌いするほどではないにせよ、開催するイベントには参加せず、発売される商品は何一つ買わなくなった。そうしたうちに毒が抜けていき、私は完全にブ社から離れたというわけです。
それは基本的にいいことだし、選択自体は後悔していないんだけど、じゃあ、なにを悔いているのかといえば……Final☆Party☆Nightに行かなかったことですね。当時は活動休止程度に考えていて、本格的な解散だとは考えても見なかったから。今思えば、木谷色を減らす意味もあったんでしょう。PKOもあんな感じになっちゃったし、エンジェル隊もやりつくした感があったから。ブ社に金は落とさないという強い意志が足枷となり、私は最後のDUPライブを見そこねてしまった。

ブシロードのライブには木谷社長が頻繁に出てきて自社製品の紹介とか色々してましたけど、なんだか相変わらずでしたね。生で見るのは何年ぶりってレベルだけど、業績がいいからか、また悪い癖が出てるような気がする。プロレスの主催とか、ほとんど社長の趣味じゃないですか。ブ社が急激な業務拡大と他業種への進出で潰れかけたことを考えれば、ブシロードも同じ道を辿るのではないかと心配で。
ちなみに、ミルキィが熱風海陸ブシロードを歌ったことに関してはノーコメントで。身内ほど衝撃はうけていませんが、まあ、それほど悪くもなかったですよ。いっそ、5pbとニトロプラスに丸投げすればいいじゃないですかね、あの企画。いや、無理か。企画者としてなら志倉千代丸の方が何倍も優れているわけだし、木谷色が出そうもないから。
今日は海老名のサティにあるワーナー・マイカル・シネマズまで行きました。いつかの日記にも書いたとおり、私にとってはとても思い入れの強い映画館の一つなんですが、ここに映画を観に行くのはそれこそ何年ぶりって感じかな? 海老名自体、随分と久しぶりに来たような気がするし。なんだって急にワーナー・マイカルなのかというと、丁度昨日から蒼穹のファフナーの映画がここでも公開しだしたんですよ。既に川崎で2回ほど観たんですけど、来場者特典が付くというので。

懐かしのワーナー・マイカル・シネマズ海老名ということで、サティとか何年ぶりに足を踏み入れるんだろうね? 銀だこは相変わらずありましたが、ロッテリアはいつの間にかロッテリアプラスになってるし、店内にあったはずのビアード・パパはなくなっていました。シュークリーム屋のことですけど、横浜ジョイナスにあったのも撤退しちゃったから随分とご無沙汰で。あそこのシュークリーム好きだったんだけどなぁ。川崎にはまだあるらしいから、今度寄ってみようかな。
まあ、それはともかくとして、別にサティから入らなくてもシネマズ専用の入口もあるにはあるんですが、駅からだとやや遠回りになることもあり、基本はサティ経由で進んでいきます。何階だったかも定かではなくなってたんだけど、そういえば2階でしたね。おもちゃ&ゲームコーナーが建材でほっとしました。やや規模は小さくなっていた気もしますけど。あ、駄菓子コーナーも健在でしたね、そういえば。
辿り着いたワーナー・マイカルは昔と変わらない感じがしましたが、なにか微妙に違う気がした。チケットを買ったときや、売店を除いたときには分からなかったけど、開場時間まで時間があったので周囲を見渡してみると、大事なものがないことに気付いた。そう、シネマストアがなくなっていたのだ。映画のパンフレットやグッズなどを売っているはずのスペースが、今や予告等を流す超大型の液晶テレビを置いているだけの場所になってしまっていた。じゃあ、どこでパンフとかを買うのかといえば、売店の近くにショーウィンドウがあって、そこで選んだら売店で注文して買うというのだ。それこそ、ポップコーンやホットドッグと同じように。何故、シネマズストアを閉鎖してしまったのかは分からないけど、これじゃあ上映前に出て来るバックスバニーの言葉が嘘になってしまうではないか。どう見ても、ルーニー・トゥーンズのグッズは置いてなかったし。

映画の話については散々したので省きますけど、来場者特典のカードに付いては無事ゲット出来ました。上映初日で履けるかなと心配してたんですけど、杞憂だったようですね。今日は1000円デーだったから人の入りもそこそこで、私は最初の回を観たんだけど真ん中を中心に座席が埋まってたかな? 川崎だとBD上映ということもあって、予告なしで本編をいきなり上映していたんだけど、海老名はフィルムを使っているのか、ちゃんと近日上映作品の予告等が流れました。特撮とかファンタジーが中心だったかな? アニメ作品はなかったような気がする。
私は川崎チネチッタという映画館が好きだし、BD上映であっても、あそこの設備なら十分いいものが観られたと思っていたんだけど、そうじゃないことを実感してしまった。上映が開始して、5分する間もなく川崎とは映像も音響も桁違いだということが分かった。BD上映とそうじゃないものの差なのか、映像がかなりクリアでさ。前回、前々回は気づかなかった部分とか、そういうのがハッキリ分かるんですよ。特に序盤で芹ちゃんが虫かごを大量に持ってコアのところへ訪れているシーンとか、超可愛い……じゃなくて綺麗だったなぁ。
夕方からの上映が基本なことを考えると、客層を理解した上での時間帯って感じですかね。今日は休日だからもう少し早くても良かったんだけど、まあ、それは贅沢というものでしょう。なんとなく売店でチネチッタより100円安いナチョスを買ったけど、量も味も100円高いチネチッタが上だったかな。逆に70円高いホットドッグはどちらが美味いのか、気になるけど試すには少々高すぎるね。

さすがに3回も見れば満足なので、後はBDの発売を待つだけになると思います。ただ、海老名ではシネマストアがない関係か、リピーターキャンペーンをやっていなかったので、それが心残りといえば心残りでしょうか。新百合ヶ丘のワーナー・マイカルに行けば、あるいはやっているのかも知れないけど、そこまで行くのもちょっとねぇ。確か、海老名は3月4日に公開が終了するそうだけど、ファーストデーの3月1日に行くとかはありなのかな? でも、職場から向かうとしても、どうせレイトショーになりそうだし、あんまりファーストデーの意味はないかも知れない。あれだけの映像なら、もう一度芹ちゃん及び西尾姉弟を観る価値はある気もするんだけど、さて、どうしたものかな。
とらのあなが同人誌の委託基準を底上げするみたいな話を耳にしたんだけど、調べてみるとかなり規約を変えてきましたね。併売に関するデメリットを付加したのも唖然とするけど、今まであったサービスの大半がなくなるというのだから驚きだ。私のサークルも、とらのあなに本を卸していますから、他人事ではありません。まあ、最近は委託販売も随分とご無沙汰ではありますけど。店舗ないし通販で同人誌を買うだけの人には関係ないだろうから、あくまでサークル間の問題になります。

まあ、既に情報自体はサークルに知れ渡っていると思うから、私が詳しく書くことでもないんでしょうけど、詳細は以下のページに載っています。
URL:http://www.toranoana.jp/2999/20110216_toriatukai.pdf
業界初の試みとか言って色々書いてありますけど、基本的には「うちに専売しないところは掛率を下げる」といっているだけです。とらのあなのライバルといえばメロンブックスですけど、とらは昨年ここと揉めましたから、それに関しての対抗処置というのも考えられる。このページには書いてないけど、とらのあなが送りつけてきた「委託契約手引き書」にはもう少し詳しく書いてあるので、皆さん確認してみてください。フリーマガジンの無料送付廃止は、まあ、郵送費も掛かるんだろし仕方ないと思えるけど、売上連絡状の発行を停止までしてくるとは思いませんでしたよ。自分とこの本がどれぐれらい売れたのかとか、そんな最低限のことすら教えてもらえないとは。もちろん、問い合わせれば分かることではあるんでしょうが、他にも作品画像やサンプルは自分で用意しろとか、それでいて用意させた宣材はとらが自由に使っていいとか、どこまでとらのあなに都合がいいんだよって感じですね。
既に離脱を考え始めている人もいるみたいで、私の知り合いにも少なくないんだけど、最近とらのあなでいい話を聞いたことがない。なにか揉め事だったり、今回みたいな誰のためにもならないような規約変更だったりと、ろくなことがありません。どう考えても人件費削減を狙っての処置も見受けられますし、そんなにとらのあなってやばいんですかね? 前々から、そろそろ潰れるみたいなことは言われてましたけど。

ここ最近の私は委託するほどの同人誌は作っていないし、以前に委託したものはほとんど完売してしまったので関係ないといえばないんですけど……一度、めろんちゃんに振られたことがあるので、今後なにか委託するときはちょっと迷いますよね。懲りずにめろんちゃんにアタックしたいけど、あそこは狭き門だから。とらは来る者拒まずという印象があったんだけど、それも今日限りって感じですね。どれだけのサークルがめろんや他の店にくら替えするのかは分からないけど、一体全体とらはなにを思ってこんな規約改定を行ったんだか。単なる諸経費削減にしても、やり過ぎじゃなかろうか。
私は基本的に趣味同人の人だから、仮に委託をするにしても来年とかになりそうなので、しばらくは様子見ですかね。私みたいな小説サークルというか、小説本というのはそもそも委託に向いていませんから、めろんちゃんも慎重なんでしょう。赤き閃光の英雄レベルで断れたんだから、ヨスガ本なんかじゃ検討してもらえるかも分からないよ。こんなこと言ってはなんだけど、書店側ってB5未満の本は同人誌と思ってなさそうな気がするんだよね。文庫や新書はまだいいとしても、A5とかB6なんて端からお断りみたいな風潮があるじゃないですか? そういうのを踏まえて考えると、やっぱり小説本ってのは委託に不向きなんでしょうね。よく、ヨスガ本の委託しますかとか訊かれるんだけど、こちらにその気があっても、書店が置いてくれないことには始まりませんからね。DL販売ならまだしも可能性はあるんでしょうけど、書店委託ともなればちょっと難しいと思います。

まあ、とらのあなが潰れたところで私は痛くも痒くもないし、とりあえずヨスガのBDさえ出来ってしまえば、いつ倒産しても構わないって感じでもあるんだけど、世の中にはパワーバランスってのがありますからね。私はめろんちゃんの信奉者だけど、大手同人ショップがめろんちゃんだけになるのは、あまり良い状態ではないと思う。今回の件にしても、鞍替えしようとしても、めろんちゃんが受け入れてくれるとは限らないという現実がありますからね。とらのあなはそれを見越して、多少の無茶を仕掛けてきたのかも知れないけど……同人業界、今年もまた一波乱ありそうですね。私は本流とは別のところにいるので巻き込まれないかも知れないけど、同人活動を行うものとして注意だけはしておかなくては。
職場でボケーッとしていたら、唐突に各ライトノベルレーベルの新刊案内を渡された。雑誌刊行している出版社には、書評とかで取り上げてもらうために送られてくることが多いのだけど、なんていかこう、代わり映えのしないラインナップですね。人気作品ばかりが全面に出ているという意味じゃなくて、勿論新人作家も既存作家も色々新作を発表しているわけなんだけど、あらすじだけ読むとどれも同じような内容に見えるというか、流行もあるとはいえ少し偏り過ぎじゃないかと。

ライトノベルに限らず、創作物が世の中の流行や時事ネタを作品に活かしたり反映したりすることはよくあることで、例えばエロゲなんかではそれが顕著ですよね。PC媒体であり、ネットユーザーが購買層に多いから、ネットにおける一過性のブームや小ネタなどを迷うことなく仕込むことが出来る。あれは書籍と違って重版や再販が少ない、言ってしまえば短期間での売り切りを目的に作られているから、小ネタ等の期限切れをあまり考える必要がないのです。
流行の影響といえば漫画の世界も同じであり、一時期DEATH NOTEがブームだった頃は少年誌はおろか少女漫画にまでDEATH NOTEもどきのような作品が増えていましたね。もっと遡れば金田一少年の事件簿がヒットしていた頃は、それに続く名探偵コナンもヒットしたこともあって、少年誌を中心に推理漫画が溢れかえっていました。編集者が漫画家に対して、「○○みたいなの書いてよ」と具体的な作品名を上げて、亜流ないし劣化作品を書かせることも珍しくはありませんでした。出版社というのは売上が見込めるのであれば、二匹目だろうと三匹目だろうとドジョウを狙い続けますからね。これはまあ時代の波や流れも影響していますけど、特撮の世界なんかでも戦隊ヒーローはそのとき流行っているものをテーマに設定を作っていくというし、最新作で言えばあからさまにワンピースに乗っかっている感じですよね。次は妖怪か、それとも戦国かなんて言われてますけど、あれもまた分かりやすい流行を反映している作風の一つでしょう。典型的というか、あそこまで堂々としているのを見るとなにも言えなくなってしまうよね。決してパクッているわけではないし、あくまでネタやジャンルを拝借しているだけに過ぎないのだから。少し節操がないとは思うけどさ。

話を最初に戻して、ライトノベルの世界における流行の反映具合はどうなのかといえば、まあ、その時代によって差はありますけど、影響という意味では色濃く出ていると思います。そもそもレーベル単位で自分のところの色合いを決めてしまっているところが多いから、わかり易い例で言えばMF文庫やHJ文庫ですか? あの二つはエロ萌えなラブコメをしか売れない現状を踏まえて、それしかやらない的な発言をしていますからね。まあ、いつの時代もエロいものには一定の需要があるわけだから、流行とはまた違うのかもしれないけど、最近はアニメなどでも限界への挑戦などと称して、一般作にもかかわらず恥知らずなエロアニメを量産していますから、そういった作品を増やすことでアニメ化等を狙っていくというのは、それほど間違った考えではないでしょう。ラノベに限らず、小説なんてものは商売であり商品ですからね。
これが投稿されてくる作品、つまり新人賞になってくるとかなり顕著で、書き手はとにかく流行を作品に取り入れようとする傾向にします。エヴァが流行っていたときは主人公がみんな碇シンジみたいな根暗になったり、西尾維新が一世を風靡していた時期は似たような文体の作品が多かった。設定面でいうなら、ハリーポッター以降は一つの巨大な空間で登場人物を生活させる作品が増えたようね。具体的に言えば漫画ならネギまで、ラノベなら禁書でしょうか。最近は禁書もどきみたいな作品も多いようで、知り合いが電撃の下読みやってますけど、そのレーベルで読んだことがあるかのような作品の投稿は少なくないらしい。これは、「ここはこういう作品を既に出しているから、このジャンルやネタはウケるんじゃないか?」という一種の考えに基づくものだけど、既に人気作がある状態で、そんな二番煎じが必要とされるかは疑問だよね。むしろ、そのレーベルにないものを求めるんじゃないかな? DEATH NOTEや探偵漫画の例じゃないけど。

私はハッキリいうと、今時の流行が作風に反映されない男です。これはなにも流行に左右されない俺カッコイイなどではなく、単に発想が古臭いだけに過ぎません。私は歳の割に古典的にして正統派な作品を愛する者であり、最近珍しい奴として主に年配の方々から一目置かれているらしいんだけど、逆に言えば主な購買層である若者にはまったく通用しないってことですからね。なんとか感性の修正を行いたいものですが、こればっかりはそう簡単にはいかないんだろうな。
ケロロ軍曹のアニメが終わるらしいですね。かれこれ7年は放送していたとかで、もうそんなになるのかと感慨に浸ってみたり、川上とも子は最終回までに復帰できるのだろうかと僅かな希望をいだいてみたりしています。どちらかと言えばアニメより原作のほうが好きな私ですけど、別にアニメ版は嫌いなわけじゃないし、長年続いてきた作品が終わってしまうというのは、やはり悲しい物がありますね。まあ、いい加減いいんじゃないかという気分も、なかったわけじゃないけど。

角川に取ってケロロ軍曹というのは小学館におけるドラえもんであり、任天堂におけるピカチュウとなるべき存在だったのでしょうか? 7年アニメをやってきて、5回も映画化してきた事実、そしてオタク向けマンガでありながら子供向けに作られいたということを考えれば、その推測もあながち間違いではないはずです。原作ファンに言わせれば、それがアニメ版の面白くないところであり、クオリティの低下を招いたとのことだけど、原作が月刊漫画なのに対し、アニメは毎週放送ですから、クオリティに差が出るのは仕方ないことだと思います。身内が好きでよく見ているんですけど、シーズン単位で面白いのと面白くないのがあると言い切るほどであり、私もその意見には少なからず納得することがある。私はケロロに関していえば、原作は吉崎観音が好きだから読んでいて、アニメ版はほとんどキャラ萌えで観ていると思います。子供向けアニメとはいえ、多彩なキャラクターが登場する作品であり、恋愛要素とかもないわけじゃないですから。西澤さんは解り易いにしても、モアちゃんとかもそうですし、623というかサブロー以外の四方の風はなにかしら複雑な想いを抱えているよね。623といえば、遂にサブローの正体が完全にバレるとかバレないとか、最終回に向けてそんな展開もあるらしいですけど、正直アニメ版のサブローは623とは外見だけ似ているソックリさんという感じだから、果たしてどのように整合性を付けるつもりなんだろう。今更という気がしないでもないけど、仮にも最終回であるからして、やり残しはすべて消化するってことなのかな? アリサの話もそうだし、小雪の性格が全然違うのもそうだけど、四方の風は基本的に原作の黒い部分が全部なくなってるから、ちょっとアニメ版は物足りないかな。モアの原形もそうだけど、子供向けということで改変された設定は本当に多いと思う。

私がケロロ軍曹で好きなキャラは、言うまでもなくアンゴル=モアです。カップリングは常にケロモアを推奨していますし、あの娘は本当に良いと思う。7年前は能登麻美子もまだ売り出し中の声優で、今ほどの人気はなかったよね。丁度、色々な作品で声を聴けるようになってきた頃でしょう。原作と違ってアニメの初登場はギロロ伍長合流後ですけど、原作はまさしく1999年辺りに連載していたということもあって、ノストラダムスの予言通りにその年の7月に冬樹たちと出会い、ケロロと再会するわけだけど、まあ、予言の解釈が違うとか、恐怖の大王とアンゴル・モアの大王が混同されていたとか、そういう細かい部分はよしとしましょう。可愛ければなんでもいいだよ、なんでも。
モアちゃんに限らず、ケロロ軍曹の登場人物は冬樹を除いて一途なのが多いから、ドロドロした恋愛というのを観ることが少ないので助かるね。冬樹に関しては、彼を好きな女子が多すぎるという感じであるんだけど、彼自身の恋愛という意味ではどうなんだろう? 原作での描写を考えるなら、冬樹が明確に好意や恋愛感情じみたものを抱いたのはノントルマの少女だろう。海にいた人魚の娘だけど、冬樹の印象に未だ強く残っているらしい。アニメでは西澤さんに対する描写が多いものの明確ではないし、少し変わった愛情を向けてくるアリサには戸惑っている感じがする。まあ、冬樹にはまだ色恋沙汰は早過ぎるってことなのかな。決して恋愛がメインの作品ではないわけだし、深く考える方がおかしいのかも知れないけど。アニメ版は、そういったものにもなんらかの答えを出すんでしょうか? 公式サイトに行けばかなり先のあらすじまで読めるはずだけど、後で確認してみようかな。

原作ではアーケードゲーマーふぶきだったり、七人のナナだったりと、吉崎観音の過去作品に登場するキャラも出てきているらしいけど、そういえば最近原作も買ってないですね。アニメの終了が原作の高騰に繋がるとは思えないけど、新品で集めるには巻数が溜まり過ぎたので、中古で一気に揃えるのが良いかも知れない。ただ、書籍を中古で買うのってどうも好きになれないんだよな。初版よりも美品の方がいい人だから、中古書店で買うとなんか独特の匂いが染み付いていて、変な気分になるんです。まあ、それこそつまらない拘りなんでしょうけど。
なんか最近、日記の文章が全然面白くない気がする。色合いが鮮やかじゃなくて淀んでいるというか、悲恋堂の店主に見透かされたんだけど、書いている私自身が欠片も楽しんでないのが見え見えなんですよね。別に日記を書きたくないわけじゃないし、むしろ趣味の一つでもあるんだけど、このところどうも上手くいかない。個人的に納得のいく面白みのある文章を書くことが出来ない。単純に溜め込んでいるのを一気に更新している反動なのか、それとも別の理由なのか。

随分昔の話になるけど、川崎ヒロユキが「小説と脚本を書くのでは使う筋肉が違う」と言っていました。川崎ヒロユキといえばアニメ業界を代表する脚本家の一人で、小山門下はあかほりさとると同期の人ですね。あかほりが小説家としての一面が強いのに比べて、川崎の方はどちらかと言えば脚本家としての印象が強い。勿論、ノベライズはいくつか書いてきたし、作家としての活動はしてなかったわけじゃないんだけど、本格的なものは初のオリジナル作品である「はっぴぃセブン」になるでしょう。漫画化やドラマCD化もされたメディアミックス作品なので知っている人も多いかと思いますけど、80年代から業界で脚本書いてきた人が、00年代になってやっと自分の作品を世に出すことが出来たわけです。
で、晴れて小説家としてもデビューした川崎ヒロユキなわけだけど、ベテラン脚本家がイコールで名作家に成り得るかというと、決してそんなわけでもないんだよね。これは本人が言ってたことだが、最初の頃はとにかく切り替えが難しかったらしい。脚本と小説は当然違うものであり、同じように書くなんてことが出来ないわけですから、脚本には脚本の、小説には小説の書き方ってものがある。つまり、同じ書くという作業を行っているのも関わらず、書いているものはまるで違うという状況なわけです。簡単な例を出せば、手紙と読書感想文じゃ考えることも、書き方も、すべてが違うでしょう? それと同じで、創作物という共通点はあっても、思考パターンや文章構成などが大きく異なるのです。故に使う筋肉も必然的に違うものとなり、味わう痛みにも差があるというわけ。

作家兼脚本家というのは数が少ないわけじゃないけど、この二つを上手く両立できた人なんて、それこそあかほりさとると神坂一の両名しかいません。後者は映画限定だけど、前者に至っては、自分の小説の構成を自分で行い、あかほり作品と呼ばれるブームを作り上げたほどですし、90年代に限っていえば確かに一時代築いていたと思う。輝かしかったかは、ともかくとしてね。
あかほりさとるという人は自称外道であるように、基本的にいい性格をしているおっさんです。その評価は仲間内の小山門下生からも分かれるものだったらしいく、本人から聞いた話によると劣等生だったとかで、当時は物書きというものを甘く見ていた自分がいたことを思い知らされたとか言ってったっけ。それがなんだかんだで業界を代表する作家、小説家になり、有り体にいえば大成功してしまったわけだから、割と性格が歪んでしまったとか。言われるまでもなく真人間には見えないけど、同業者に喧嘩売るような酷い発言も平気でいう人なので、私としては微妙な人物だったりする。それでも自分は権力を持っているから大丈夫なんだと言い切れる辺り、さすがだとは思うけど。
私はあかほり門下じゃないけど、門下生には知り合いがいて、所謂あかほりシスターズと呼ばれる女性陣ですね。代表格は菜の花こねこだろうけど、あの人は基本的に女しか弟子に取らないんだ。理由として、男より女のほうが根性あるからという話だけど、本当かよと疑ったのは内緒。まあ、そんな弟子たちは最終的にポストあかほりの位置を狙っているわけだけど、私はあかほりさとるは一代の傑物だつ思っているから、後釜に収まるのは無理だと考えてます。

つまり、なにが言いたいのかというと、私が最近日記を上手くかけていないのは、原稿の執筆ばかりしているせいで切り替えが上手くできていなんじゃないだろうか? という、もっともらしい言い訳をですね……まあ、違うだろうけどさ。この業界、なんでもできるタイプってのは嫌われる傾向にありますけど、小説と日記の書き分けも出来ないというのは、それ以前の問題だと思う。だから、少なくともこの2つは両立できるようにしなくちゃ、やってられないですね。商業で脚本の仕事をしているときに小説が書けなくなることは今までも多々あったけど、なんとか乗り越えて成長してきたいものです。
実は今月末にオンリーイベントへ出ることになってまして、今日はそのイベントで出すコピー本に使う紙を買いに行っていました。オンリーの詳細については後日にでも書きますが、まあ、ヨスガノソラであることはいつも通りです。本当は冬コミ新刊の再販だけに済ませようと思ってたんだけど、それじゃあ味気なさすぎるということでね。コピー本だけでも用意してみようかなと。2月5日公開予定だった話の流用だけど、ページ数的にも丁度よさそうなので。

まあ、コピー本の詳細についても改めて書きますけど、一般的にコピー本ないしコピー誌と聞いて、人はどんなものを思い浮かべるんでしょうか? 大半はA4の普通紙にモノクロ印刷したものを、ホッチキスで止めただけのものになるのかな? 確かにこの前のサンクリで私もそういったコピー本は買いましたし、それが基本的な形であることは否定しません。それが本であるかと言われれば返答に困るけど、同人誌であることには違いありませんから。
でも、決してそれだけに終わるものじゃないと思います。曲がりなりにも自分で製本することができるのがコピー本の長所であり利点ですし、無限の可能性はないにせよ、自作する中で様々な趣向を凝らすことが出来るのも、またコピー本の醍醐味だと私は考えます。使用する紙一枚から、すべて自分で選ぶことが出来る。本当の意味で自分が本を作っているという感覚は、とても大事なものだと思います。コピー本が同人誌の初歩であり原点であるという意見を、私は特に否定しません。
ただ、男性向けの感覚ではコピー本は普通紙にモノクロコピー、中綴じでもない外綴じの場合が多いから、どうしたって本という認識がされにくい。大手はおまけで付けるようなところもあるから、そもそもコピー本を買うという発想がない人もいるぐらいだしね。けど、それはあくまでコピー本を取り巻く一側面から見た話でしかなくて、例えば女性向けであれば、イベントによってはむしろオフセットよりも多いのではないかというぐらい、同人活動の中心となっていることもあるのです。同人誌とはオフセットもしくはオンデマンド印刷による、印刷所によって刷られた本だと考えている人には、ちょっと理解しにくいことかも知れませんけどね。コピー本製作も、また一つの同人文化として、花開いていたりするのですよ。

そんなわけで、コピー本の遊び紙に使用する紙を買いにユザワヤまで行ってきました。コピ本なのに遊び紙? と思った人がいるかも知れませんが、しっかりしたものをつくろうと思うならそれぐらいは普通です。むしろ、折角自分で一から作れるのに、拘りを見せずにどうするんだと。ユザワヤは裁縫屋として知られている店ですが、他にも画材から玩具まで比較的なんでも売っている店で、ガンプラファンには模型屋としての側面が強いんじゃないでしょうか? 漫画家なども、アナログで作業している人はここでスクリーントーンを買った経験が一度はあるはずです。
目当ての色紙は決して製本用途だけを考えて販売されているわけではありませんけど、私はそういった意図で買いに来ていたので、表紙と比較してもっとも合う紙をひたすら探していました。来週には表紙の画像をpixivに上げる予定ですけど、これまで出してきたヨスガ本の表紙とは、また違った感じになっているので、イメージを合わせるのがちょっと難しくて。それに装丁担当と話し合った結果、表紙の紙自体は遊び紙及び本文用紙よりもサイズを小さくすることになったので、その比較に耐えうる濃さも欲しかった。結果、私は一枚の紙を選んだんですけど、身内に言わせると無難でありベターな選択らしい。拘りを持って紙を探しに行った割には、という感じで。まあ、確かに雰囲気はあっているとも言ってはくれましたけど。あいにくとA4サイズを取り扱っていなかったので、A3サイズを買って半分に裁断することに。帰宅後、身内がさっさと裁断して後は私の本文完成を待つだけになってしまいました。相変わらず、作業が早くて助かります。

私の同人活動は、どこか女性的な一面があるという指摘をたまにされます。今回のコピ本もそうだけど、ジャンルや内容に関しては男性向けなのに、手法そのものは女性向けで使われるものを多用していると。冬コミの童話パロとか、まあ、他にも色々と。この指摘に関しては私も意識していないわけじゃなくて、まあ、手法に限定せずとも身内の影響からか、度々女性向けにあるような思考をしないわけでもない。でも、出している本自体は一般向けとはいっても男性向けであることには変りないから、慣れない人は物珍しく感じてしまうのかも知れないね。こればっかりは、身内にそういうのがいるからですとしか答えようがないけど、私自身も今のやり方や活動は結構気に入っているから、そうそう変えることはないと思います。
日記も溜め込むと書くことがなくなるというか、三連休の初日といっても原稿のプロットを打っていただけだから、特に何事もなく過ごしてしまった。しかも、プロットと言ってもオリジナルではなく新しい二次創作だから、生産性の欠片もないことこの上ない。10年ぐらい前からずっと書きたかった作品があって、結末というか展開がまるで思いつかなかったから放置している話があったんだけど、なんの奇跡かふと物語が完成してしまいましてね。忘れないようにまとめているのですよ。

私は基本的に二次創作の物書きだけど、所謂一次創作、オリジナルの原稿も書いてないわけじゃなくて、むしろ最近はその執筆ばかりしているような気がします。まあ、一応は作家志望ということになってるし、いつまでも現状のままでいたくもないからね。色々あったチャンスの数々を棒に振って、それでも作家になることへ固執しているだから私も救われないというかなんというか。この前、知り合いのプロ作家に言われたけど、「何気に引手数多のくせして、なんで作家みたいな職業とも呼べないようなのに拘るの?」と、割と真面目な顔で疑問を呈された。言いたいことはわかるし、普通に考えたら目の前に来た良い話の数々を放り投げて、自分の夢を優先させてきた私の方が異常だってのも分かってはいるんです。物を書く以外に能がないといっても、方向性としては作家以外の方面に向いていたわけだしね。完全に社会人となって高給取りになるというのも、そりゃ選択肢の一つでしょうよ。現実的なことを思えば、作家なんて目指すよりはよっぽどまともってものです。
知り合いの作家で、兼業なしに食えている人間は驚くほど少なくて、田中芳樹の定義でいえば彼らないし彼女らはプロ作家と呼べないのかも知れない。プロ作家とは、作家の収入だけでご飯を食べている人達のことを言いますから。そういう現実に身を置く人達からすれば、夢を叶えたのに食うことが出来ていない人らから見れば、毎月決まった給料を貰える社会人というのは魅力的なんでしょう。ハッキリ言って、作家の年収なんてホワイトカラーの半分にも満たない場合が多いですから、金なんて貯まるわけないんですよ。あかほりさとるみたいな商売人は未だに羽振りよくしてますが、大半の作家なんてのは明日は困らないが来年は困るかも知れないみたいな、そんなギリギリのラインに立っているんです。

知り合いのラノベ作家が、作品を打ち切られたという話を私にしてきた。作家といっても、ついこの前デビューしたようなド新人であるからして、レーベルはともかく有名所などではあり得ない。デビュー作はそれなりに話題になったが、まさしくそのデビュー作が打ち切られたのだという。結局何巻まで出たのか、私はそれを把握してないのだが、もしかすると2~3巻で終わったのかも知れない。新人の作品なのだから、売れなければ打ち切りのは当たり前であるし、出版社が商売で本を出している以上は仕方のないことだ。また次の作品を頑張ればいいと、普通ならそれで話は済むだろう。
しかし、今回はそれで話が終わらなかった。聴くところによると、そのラノベ作家には次の作品がないのだという。これはなにもそいつの創作意欲が尽き果てたとか、発想の泉が枯れてしまったとか、そういうことではない。ネタも、書きたい話もいくらだってあるが、出版社が出してくれないというのだ。出してくれないどころか、書くことさえ許可されずに放置されているという。つまりプロットという名の企画書を提出して、却下され続けている状態といったところか。詳しく調べてみると、同じような状況に陥っている新人作家は何人もいるようで、1作目が売れなかっただけで見捨てられるような、そんな酷い状況になっているらしい。最低でも2作目までは様子をみるというのがこれまでの慣例だったはずだが、某出版社に限ってはそれすらも止めてしまったということか。
確かに毎年何百、何千という数の原稿が新人賞へと届き、幾人かの新人作家がデビューしている現状を考えれば、確かに作家の換えは利くのかも知れない。しかし、1作目で見限るのはどうなのか? それではまるで、出版社に作家を育てる気持ちがないみたいではないか。

新人作家の方はデビューさせてもらった恩もあるし、世渡りなんて上手くもないから他のところにも移れないし、結果的に飼い殺しで潰れていく。既に精神が腐ってる知り合いが何人もいることを考えれば、彼らが言うところの作家なんて目指すもんじゃないというのはよく判るんですけどね……彼らは夢に敗れたわけじゃない。夢を叶えたはずなのに、その先がなかった。私が思うに、まともに取り合ってくれない出版社からはさっさと離れて、別のところに原稿でも持ち込んだほうが利口なんじゃないだろうか。ひたすら原稿を書くだけなんて、そんな単純な時代は今も昔もないのだから。
仕事で関わっている文学賞というか新人賞がある話は今週の頭に書いたと思うけど、結局ずっとその作業をするだけで一週間の仕事が終わってしまいました。途方もないかずという程ではなかったにせよ、やはり少人数、というか2人で捌くには投稿数が多すぎましたね。もうちょっと人を回してくれてもいいと思ったけど、まあ、雑用仕事なんてこんなものでしょう。そういったのを専門にしているバイトがいたので、その人と一緒にずっと社内の一角で黙々と作業していました。丁度、同年代というか同学年の同世代だったから、話題には事欠かなかったしね。異性だったけど。

作業自体は物凄い単純なことをしていたので喋りながらも出来たんだけど、世代が同じだと共通点が多くて助かるね。なにせ私は社内では居候の身ですから、孤立はしてなくとも割と孤独な方だから。でまあ、色々話をしたんですよ。昔読んでいた漫画とか、見ていたテレビなんかを。子供の頃に読んでいた少女漫画はなかよしとりぼんのどっちかなんてのは基本的すぎるけど、相手はりぼん派だったかな。なかよしは小学校低学年までだったらしく、私としては少し残念……なんで私が少女漫画の話できるかって? 身内に姉がいると、そういうのも自然と精通してしまうものなんですよ。昔はよく、私の買っていたボンボンと交換して読みあったものです。どの少女漫画が最高だったかというより、少女漫画家では誰が一番かという話に移行しがちだったけど、私はさてなんと言ったかな。武内直子はともかくとして、吉住渉とでも言ったんだったか。そういや、話し相手の知り合いが保育園の保母をやっているそうなんだけど、意外なことに今時のちびっ子にもセーラームーンは人気らしい。プリキュアの間違いじゃないのかと思ったけど、そんなことはないらしい。さすが、セーラームーン程の作品になれば世代を超えて愛されている、ということなんだろうか。驚いたのは小花美穂の近況を聞いたことで、なんかこどものおもちゃ以降は創作意欲が尽き果てたとかで、ここ最近になるまでろくに描いていなかったらしい。まあ、大作を描いた後なんてのはそんなことも珍しくないけど、名前を聞かないと思ったらそういうことになっていたとはね。立川恵もあんな事になっちゃったし、ほんの15年ぐらい前に活躍していた少女漫画家も、今ではほとんど残っていないのかな。年代でいえば、大雑把に言うと種村有菜以前? CLAMPは別格としても、少女漫画界は移り変わりが激しいからね。

漫画の次はテレビの話ということで、主に教育テレビについて話していました。天才てれびくんぐらいなら余裕で初回から見てましたけど、なんかあの番組ってまだやってるらしいですね。ポコ・ア・ポコの最終回とか結構印象的だけど、私はいつまで見てたんだったかな……アリスSOSか、その辺りだろうか? 段々とアニメ路線、もしくはSF路線ともいうべき感じから、ジャニーズ系アイドルやお笑いなどに特化して、歌に踊りにファッションが基本となったことで関心が薄くなったんでしょうね。まだやっていることには驚きだけど、そろそろ放送開始から20年ですか。いっそ、それぐらいまではやって欲しい気もしますけど、教育テレビの番組は前触れもなく終わることが多いですからね。まあ、なんだかんだとおじゃる丸も10年以上やってるし、忍たまの存在も考えればあの辺りの枠は固定と考えてもいいんでしょうけど、何事にも区切りや終焉はありますから。
私が好きだった教育テレビの番組ってのは色々ありますし、比較的どんな番組でも見ていた記憶があります。なんでうちの学校にはポッケが来ないんだとか、そんなことを思ったかどうかは分かりませんけど、一番好きだった番組はなにかと言われれば、虹色定期便を上げるでしょうね。一般的には道徳番組として知られる同シリーズですけど、第1作に限っていえば実はSFドラマでしてね。これがよく作られていて、NHKの完全オリジナルながらも、かなりの完成度だったんですよ。私は当時からSFが大好きだったから、作りこまれた設定含めて大好きだったんでしょう。

教育テレビで忘れちゃいけないのは他に海外ドラマがあって、例えばフルハウスとかアルフとか、ERはちょっと経路が違うけど、あの手の作品も私はよく見ていた記憶がある。最近でいえばパパにはヒ・ミ・ツが好きでしたね。主演俳優が第2シーズンの途中で亡くなってしまうんだけど、新キャラを登場させるなどして本国では第3シーズンまで放送したそうです。なのに、教育テレビでは第2シーズンまでしかやっていないという。NHKに困るところがあるとすれば、主にシリーズの途中放棄ですかね。まあ、完結してないわけじゃなかったから良いんだけどさ。最近じゃiCarlyがいい感じだけど、あれはどちらかと言えばディズニー・チャンネルでやってそうな番組だよね。リアルタイムで観るのは無理だから録画してるけど、個人的に日本オリジナルの投稿コーナーはいらないと思う。

< 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 >